はじめに
名鳥 佑飛
1
大学の卒業式を終えた尾張遥香(おわり はるか)は、四年間共にした家を後にしようと身支度を整えていた。一緒に過ごしてきたテレビや洗濯機、冷蔵庫といった家電製品、ソファーやベット、机といった家具はもう何もない。「こんなに広かったんだ」となんとなく空間を眺めていた。最初にここに来てから一度見たはずなのに忘れてしまっている。この空間であったことは数えきれないのにこうやって何もなくなってしまうと味気ないと尾張が感じていると、自分のポケットに入っているスマートフォンが音を鳴らしていた。画面に表示される掛けてきた相手を見ると自分の新しい場所となる会社であった。せっかくこの空間であったことに浸ろうと思っていた尾張は、画面を見てから三秒くらい経って画面の下半分にある電話の受話器が表示された丸をタッチした。
「はい」
そう答えると、テンションが高いのか低いのか分からない早口で話す女が応答した。
「もしもし、尾張遥香さんですか?」
「はい、そうですが…」
「あ~良かったです!株式会社コンティニューの人事担当・近藤です」
株式会社コンティニューは尾張が春から務める会社であるが、近藤という女は知らないし、選考のとき見た記憶はない。見ず知らずの人から電話が掛けられたらすぐ電話を切るようにと小さい頃親から教えられたが、今はそう言っていられない。尾張はいつしか身についていた社交辞令というものを使った。
「あっ、はい!お疲れ様です、四月から宜しくお願いします」
「あの~、提出して頂いた書類なんですが、一つ未提出がありまして…」
「えっ…」
「『希望部署について』という書類なんですが、早急に送付して頂けますか?」
「…はい…分かりました…」
使った社交辞令は全く効果がなかった。未提出の書類があってわざわざ連絡してくれる律儀な会社なのか、一つ一つの制度やしきたりにうるさい会社なのか、尾張は電話を終えた後、自分のミスを棚に上げるようにして、こんなことを思っていた。ただ、この空間に棚はないためか、自分のミスに溜め息をついていた。唯一残っていた自分のカバンの中にあったファイルを嫌々探すと『希望部署について』と書かれたクシャクシャな紙が出てきた。書こうとしたが、ペンがないことに気付き、結局何も書けなかった。それよりも希望部署なんかないという答えを自分が下した、そう感じてもらいたいと思っていた。そんな尾張はふとはめていた時計を見ると東京に向かう時刻が迫っていなかったが、所用が出来たため早めに行こうと鞄を持った。するとまたもや何もない空間に電話の合図を知らせる音が鳴り響いた。さっきと同じように掛けてきた相手を見ると、今度は溜め息が先に零れてしまった。
「もしもし、何?」
相手のテンションが自分と全然違うことを尾張は第一声を聞いてから感じていた。その相手はしつこく会いたいとお願いをしてきた。尾張は自分が所用を抱えていたが、会うのは最後になるかもしれないということを優先し、思い出の場所に向かうために応答した。
「少しなら時間あるけど」と。
続
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