人魚の水しぶき

枷羽

1 秘密の場所で

「…クソッ!」


 そう吐き捨ててアタシは崖を後にした。手には描きかけのキャンパス。捨ててしまおうと思ったのに。こんな夢、追いかけてても無駄なのに。アタシには才能がなくて−。


 さあっと潮風が駆け抜けていく。日に焼けて傷ついた髪が揺れた。

 嗚呼、世界は何故アタシにあいつのような才能を与えてくれなかったのか。


 美しい水平線を眺めるたびに、美しい物を見るたびに。世界は残酷だと思ってしまう。


 描いてはやめ、描いてはやめの繰り返し。描きかけのこのキャンパスゴミですら、私の一部に思えて捨てられなかった。


 ああ、やめだやめ。頭がこんがらがる。


 あそこの入り江に行こう。


 そこで私の世界に浸ろう。


  アタシはそう思って海辺のボロ屋アトリエに画材を取りに行く。両親には画家になることを反対され、兄妹達とも縁を切られた。少しの金と、このボロ屋を残して。


 油絵具と、筆とキャンパスを持っていく。何かいい物が浮かぶかもしれない。このキャンパスゴミも、持っていこう。


 砂浜の海岸を一人歩いていく。海水浴を楽しむ子供達が何人かいた。楽しそうに水をかけ合ったり、押し寄せてくる小さな波から逃げたり。


 あんな風に遊んだことって、ないな。絵に没頭していたから。


 入り江についた。入り江は洞窟のようになっているのだが、天井が抜けている形状になっている。嫌なことがあると、いつもここに来ていたな。ここには近づくな、とよく言われた。


 曰く。


 人魚に引きずり込まれるぞ、と。でもアタシはここで人魚に会ったことなんてない。一回溺れて死にかけたことはあったけれど、生きてここにいる。


 くすくすっと誰かが話している声がした。誰だ、ここに来るなんて。ここはアタシだけの秘密の場所なのに。あいつのようにアタシの場所を奪って行くのか?


 そっと入り口から中を覗く。


 そこには。


 そこには、美しい少女がいた。


 にこにこと笑顔でカモメに話しかけている。


 海水に微かに濡れた、明るい茶色の髪。日に焼けたアタシの肌とはくらべ物にならぬほどに白い肌。小柄で華奢な身体には、異国風の白い服を纏っている。そして、蒼い鱗に包まれた下半身。


 人魚だ!


 追っ払ってやろう。人魚だろうが、人間だろうが同じように追っ払ってやろうと考えていたが。


 何も気づいてないぞと言わんばかりに堂々と入り江に入る。人魚少女は、アタシに気づいたらしく大きな水飛沫を立ててアタシの手がちょうど届かないくらいの岩場の近くに行った。


 カモメは驚いてどこかに飛んで行ってしまった。蒼い瞳がこちらを抜かりなく警戒している。いや、怯えているようだった。


「キ、キャンパスが!」


 少女のあげた水飛沫が飛んでまさかとは思ったが、キャンパスゴミの方が水ですっかり濡れてしまっていた。アタシの大きな声に驚いたのか、少女は大きく肩をびくつかせ、再び大きな水飛沫を立てて海に潜ってしまった。


「クソッ。」


 アイツ、また出てきたら引っ叩いてやる。


 そう決意したが、アタシより年下そうな子を引っ叩こうと思った自分が少しだけ嫌になった。


 あーあ。


 描く気も失せてしまった。


 画材もキャンパスも放って、入り江の中の砂浜に仰向けになって空を見上げた。チリチリと太陽が肌を焼く。しかしアタシは気にせずにボーッとすることにした。青い空を見上げていれば、何か、あいつを通り越せるような素晴らしいものが浮かぶ気がした。


 コンテストがある。その時、あいつに勝てる何かが、欲しい。


 波の音じゃない、チャポンという水の音がして、音の方を見た。さっきの人魚少女がいた。やっぱり蒼い瞳でこっちをじっと見ている。


「…。」


 人魚少女は何か言っているが、水の中で喋っているようで、うまく聞き取れない。


「なんだ?はっきり言ってくれよ。」


 少女は怯えた瞳でこちらを見ていた。アタシのぶっきらぼうな言い方を怒っていると捉えたのか。


「…も、もう、お、怒って、ない?」


 おどおどと少女は言う。怒ってはいたが、あれはゴミだからもういいや。


「もう怒ってない。」


 アタシの言葉はぶっきらぼうだった。長いこと独りでいるから、他人との会話の仕方を忘れてしまったようだ。


 人魚少女は、そんなアタシの態度をよそに、パッと笑顔になった。意外とチョロくて引きずり込まれる前に捕まりそうだな。彼女はすいっと優雅に泳いでアタシのところまで来た。


 彼女は浜に上がった。


 美しい彼女の蒼い鱗が乾いた砂にまみれたが、右手に持っている何かは、絶対に砂にまみれさせぬように気を付けていた。


「…これ。」


 彼女はきらきらした、何かをアタシに手渡して言った。


 よく見てみると、金貨や真珠、見たことのないくらい透き通った黄金色の石など色々な物があった。


「なんだ、これ。」


 こんな宝物のようなやつ、貰う筋合いはない。


「さっきの…。あ、あれの。あの、その、水を飛ばしちゃったから…。」


 もじもじと彼女は言う。あれ…?


 ああ、キャンパスゴミのことか。


「いらねーよ、こんなの。」

「え?」


 彼女はキョトンとしている。


 まあ確かにそうなるよね。だってさっきまで怒っていたんだから。


「貰えねーよ。これはもう捨てちまう予定だったんだ。だから別にこれはいらない。」


 彼女に宝物を返しながら行った。水から上がりたての彼女の手は少し冷たかった。


「でも、あなた怒ってた。」

「まあ、ちょっと怒ってた。でも、もう良くなった。」


「これ、捨てちゃうの?」

「まあな。」


 画家を志して、初めて描いた絵。水の中を描いた物だったが、真ん中がポッカリと抜けている。何を描くか−。ここだけ、浮かばなかった。まだ完成していなかった。


「こんなにキレイなのに…?」


 蒼い瞳で彼女はアタシを見つめた。アタシの薄い茶色の瞳とはまったく違う、深い海のような青い蒼い美しい瞳。同性のアタシもドキッとしてしまう程美しく、整った顔立ち。白い肌は、きめ細かくて、新品のキャンパスのようだった。


 雀斑そばかすだらけで、日に焼けたアタシの顔とは大違い。こんなんで見つめられたら、水の中に引きずり込まれるぞと脅されるのもわかる気がする。まあこんなチョロくちゃ、引きずり込まれない自信があるが。


「…欲しけりゃ、あげるよ。」


 いらないから。


「ほんと?」


 彼女は眩いくらいの笑顔を見せた。肌の白さもあって、輝く真珠のようだった。


「でも…。私が持ってったら、濡れちゃうな。」


 悲しそうに彼女が言った。こんなアタシの絵を楽しそうに見て、彼女は綺麗と言ってくれた。絵が金にならずとも、楽しんでくれる人がいるならば。


 まだ、夢を追いかけててもいい気がした。


「ハハッ。ありがとな。」

「んー?何が?」


 ありがとう、だってアンタは−。


 彼女はどうやって持って帰ろうか、悩んでいるようだった。


「なあ、アタシがまた明日アンタにこれを見せに来るってのはどうだ?」


 これなら水に絵を濡らさずに済む。


「それいい!」

「アンタ、名前は?アタシはライカ。画家をやっている。」


 売れないけれど。


「私は、リューだよ。よろしく、ライちゃん。」


 少女−もといリューは、にこっと可憐な笑みを浮かべて言った。


「ら、ライちゃん?」


 驚いて、阿呆らしい声が出た。「アタシ」と言っていても、ほぼ少年に間違えられるくらいだった。


 そして。


 少しだけ、あのキャンパスに描きたいものが浮かんだ気がした。

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