作品のない天才作家

牛盛空蔵

1・天災作者あらわる

 少し肌寒い風が、窓からそろりと吹き込む。

 換気のためとはいえ、その冷気に数人の生徒が思わず震える。

 そして、その寒さなどまさに「どこ吹く風」、得意げに持論をぶつ男子生徒がいた。

「文章には色気というものが必要なのだよ」

 決まった、とばかりにニヤァと気持ち悪い笑み。

「色気? エロを入れるの?」

 女子生徒の問いに、彼は答える。

「違う、そんな下品な色気じゃあないのだよ。こう、文字の列が生み出す、そこはかとなく匂い立つ何か、それがすなわち『色気』」

 立て板に水。何やらぐちゃぐちゃ語りだす。

「香ばしさってこと? それなら今の板ヶ谷くんも」

「断じて違う。……上品と下品の境界といってもいい。その匂い立つ何かによって、文章は、そして作品は存在を許される。ああ、まさにアブソリューション、僕のような天才にのみ与えられる神の赦しなのだよ!」

 数人の生徒が振り向くが、いつものことなのですぐに興味を失い、各々のやることに戻る。

 ひとしきり語ったところで、聞いていた女子生徒、高遠が言う。

「でも板ヶ谷くん――」

 彼女はポニーテールを揺らして続ける。

「小説、一作品も書いてないよね」


 板ヶ谷は「句内下根第一高校」の一年一組。天才的な物書きにして、まだ世に一作も小説を出していない――商業書籍はおろか、ネットや同人ですら小説を書いていない、おまけにライトノベル志向なのか一般文芸志向なのかすら、本人の中では設定が一貫していないという、実に不思議な経歴を有する、傑出した作家である。

 されど、矛盾、などといった言葉は、この男の前では意味をなさない。なぜなら彼は不世出の天才だからだ。才能は不可能すら可能にする、世界とはそういうものだ。


 だから板ヶ谷は自信満々に返した。

「そうだな。確かに僕は、一本も小説を書いていない。しかしそれは僕が天才だからだ」

「エェ……」

 高遠はきっと、驚いているのではない。いつものことに呆れているのだろう。

 板ヶ谷は、次の言葉を練るまでに彼女を見る。

 顔は悪くない。全くもって悪くない。肌も白く、二ヶ月後には降り積もるであろう雪にもきっと劣らない。その肢体にも実に「色気がある」。

 それほどの美しさをたたえながら、全体の雰囲気は……ギャル。若干吊り眼なまなざしは、明るくも勝ち気に輝き、その声は、鈴が鳴るというより生命力にあふれる。

 見た目だけなら、どうしてこの女子が文芸、それもライトノベルなんぞやっているのか、板ヶ谷でなくとも多かれ少なかれ不思議には思うだろう。

 もっとも、板ヶ谷もその理由を知らない。知らないが、それはそういうものなのだろう。見た目がギャルだからといって、中身までギャルでなければならないなどという法はない。

「天才の書く小説は、究極でなければならない」

「板ヶ谷くんは、自分の中では究極なんじゃないの?」

「いいや。僕はそこまで増長してはいない」

 高遠が何か、言いたいことを我慢したように、板ヶ谷は見えた。きっと「十分に増長してるよ、代表作がない時点で」とかそんなところだろう。

 気にせず続ける。

「僕は世界で最高の小説家だ。しかしそれは他者との比較で一位であるというだけだ。僕はまだ、小説の究極、絶対の真理たる無限の宝石をつかんでいない。だから僕は、究極に至るまでの道を求めなくてはならない。……たとえ世界で一番の小説家だとしても」

「ハァー! すごいね……」

 高遠は大げさに、可哀想なものを見る目で驚いた仕草をする。

「しかし、今日は跡見がいないんだったな。話があまり盛り上がらない」

「跡見は家の都合で休みって言ってたでしょ。しかしあの子、板ヶ谷くんの妄言をまともに受け取るからねえ。それさえなければ」

「妄言とはなんだね。僕の至言をきちんと噛みしめるいい女子じゃないか」

「はいはい、分かった分かった」

 高遠は誰にも聞こえない小さな声で「いい女子か……」とつぶやいたようだったが、板ヶ谷は気づかなかった。


 板ヶ谷、高遠、跡見の三人はもちろん文芸部……ではない。単にアマチュア作家仲間である。板ヶ谷は一作品も書いていないが、彼自身の認識では「究極の」小説家なので、まあ、作家仲間と言っても、彼の中では差し支えがない。

 高遠はネットと同人の双方で執筆している。同人誌のほうは、少しだけだが黒字が出ているレベルの、結構な売れっ子作家だ。……この表現は矛盾していない。黒字が少しでも出る時点で、同人としてはかなりの人気作家と言ってよい。

 そして跡見は。

「同人とかすごいね。私なんか手が出ないよ」

 文章の色気の話から二日後の放課後。近所のカフェ「うどんや」で板ヶ谷、高遠と駄弁っていた。

 カフェなのに「うどんや」である。

 それはともかく。

「跡見も投稿サイトで書いてるじゃん。立派だよ、小説家を名乗りながら一作品も書かない誰かさんと違って」

「へえ、そんなやつがいるのか。ぜひ会いたいところだな」

「板ヶ谷くん、わざとかな?」

 高遠は毎度のごとく呆れ返った目を向けるも、彼は全く堪えない。

「僕のことなら例外だ。僕は究極を求めるためにあえて書かないだけで、書けば世界一なのは分かりきっているからな」

「はいはい」

 うんざりしながらも話自体はきちんと聞く高遠。

 一方、跡見は。

「そうだよ、板ヶ谷くんはすごい人です! 板ヶ谷くんのまばゆい創作論はまさに金言、いつもありがたく拝聴しています!」

 板ヶ谷を崇拝していた。

 なぜこうなったかは、彼にすらよくわからない。気づいたら可愛い女子に崇められていた……というライトノベルのような展開。まともに聞けば高遠のように呆れるのが普通だというのに。

「……うんうん。それでよい。なんせ僕は世界一の――」

「世界一の文芸評論家ですよね!」

「えっ」

「いや、ですから、世界一の文芸評論家ですよね!」

 彼はしばし戸惑った後、それらしく返した。

「まあ、世界一の文芸評論家と呼んでも差し支えないな。世界一の小説家である以上は」

「違います、板ヶ谷くんは小説家ではなくて、世界一の文芸評論家です」

 板ヶ谷の表情が凍った。

「一本も作品を生まない人を小説家とは言いません。でもその創作論はすごいです。きっと文芸評論ではスーパーマンです!」

「跡見、ずいぶんはっきりと……その程度にしようよ、ね?」

「しないよ。板ヶ谷くん、あなたは文芸評論家です!」

 きっぱりと言い切る彼女。

「いや、まあ、僕が文芸評論家に見えても仕方がないね。でも僕は究極の小説家としての才があるからね、その点を忘れなければ、まあ、別にいいか、うん」

 よく泣かずに返した、僕は偉い、と彼は心のなかでつぶやいた。

「そうですね、まだ一度もその才は発揮されていませんけど、そう考えておきます」

「うん……うん」

 実際のところ、板ヶ谷は文芸評論家としても決して優れてなどいない。一度、文芸評論を書こうとしたが、百字で挫折した。質以前にまとまった作文を仕上げられない。

 学校でも小論文課題をたまにやるときがあるが、彼は全力で字数稼ぎをして、ヒイヒイ言いながらようやく完成する程度だ。もちろん質は保証できない。

 なお、高遠と跡見は小論文をとてつもないペースで書ける。字数稼ぎどころか、どこを圧縮するか悩むという。質も教師いわく、結構なものだそうだ。

 ともかく、彼には文芸評論の才能も無い。

「で、なんの話だったかな」

「板ヶ谷くんが文芸評論家だという話です」

「いや、そうじゃなくて」

「同人の話でしょ」

「ああ、うん、それ」

 やっと話が元に戻った。

「高遠さんの同人誌は」

 板ヶ谷は口を開く。

「うん?」

「エロなの?」

「違います」

 速攻で否定された。

「エロなの?」

「違います。同人がエロしか無いとか思ってる?」

 繰り返し質問したが、同じ答えが返ってきた。

 彼は「エロだったら良かったのに。少なくとも僕が得する」と思ったが、口には出さなかった。当然である。

 もっとも、女子に「エロなの?」と聞いている時点でアウトなのだが、それはそれ、これはこれだった。

 それを尻目に、跡見が話をまともな方向に掘り下げる。

「そういえば、高遠の同人活動については、あまり聞いたことがなかった。どんなの?」

「私も跡見にはあまり話していなかったっけ。そうね、まずは……」

 言うと、スマホを操作しだした。

 エロでない時点で興味を失った板ヶ谷は、適当に場をしのいだ。

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