【短編】老夫婦
榎本奏江
老夫婦
この暖かな春の日差しが懐かしいものだからつい、久々に出かけたくなってみただけさ。
意味などない。
ただ、なんとなく思い出しただけさ。
「暖かいわね――」
ふと、隣で君の声が聞こえたような気がした。
「ああ、そうだ。温かいかい。今日はいい天気だ――」
答えたが、その
なぜなら隣に君が居ないから。
でも、確かに君の声が聞こえた。
私の腕を組み、微笑む姿が見えた。
堤防から階段を降りて、川沿いに一本だけ立つ桜の木を見上げる。
ここは君が好きな場所。
「ああ、今年も満開だ。とても綺麗だ」
――君のようにね。
その次の言葉は出さなかった。
懐かしい場所を独りで歩く。
君と何度も歩いたこの堤防と、何度も見た桜の木をいつも昨日のことのように思っているよ。
目を閉じて、春しか味わえない、穏やかで暖か日の光を浴びる。
思わず、どこかに連れて行ってもらえそうだ。
だが、それはまだ、叶わぬことだと分かっているよ。
「お父さんっ!」
後ろで声が聞こえ、振り向けば一人娘が立っていた。
「なんだ、お前か。どうしたんだ」
「もう、「なんだ」じゃないわよ! 玄関も窓も開けっぱなしでどこに行っていたのよ! 心配したじゃない!」
「はて、なんのことかな?」
「もう、そんなこと言うのやめてよね! 実家に帰ったら誰も居ないし、お父さん独り暮らしなんだから!」
「心配するな、少し散歩をしていただけだ」
「散歩するならちゃんと鍵ぐらい掛けてよね。ほら、帰るわよ」
「はいはい」
そう言うと娘は私の手を引き、歩いてきた道を戻り還された。
姿や態度、話し方は違うくせに、手の形だけは本当に若い頃の君にそっくりだ。
私は振り返らず、小さく言う。
「また、くるよ」
「なんか言った?」
「いや、なんでもないさ」
『また、来てねあなた』
そんな声が聞こえた気がした。
ただ、来てみただけさ。
君に会いに来ただけさ。
【短編】老夫婦 榎本奏江 @kanae_0113
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