第8話 弥助の命
霧のような雨が降っていた。
「弥助!」
弥助は九兵衛の腕のなかでかすれた声をあげた。
「お市さ……ま、は」
「秀吉とともに安全なところに去った」
「よかっ……」と言いかけて、彼は咳き込んだ。
ゲフとも、ゴボっとも、奇妙な音とともに泡のような胃液の混じった唾液を吐き出した。
「話すな、弥助」
私は青ざめた弥助の顔を見て、九兵衛に視線を移し、オババを探した。
「オババ、弥助が」
「アメ、小刀を抜くな」
オババが鎮痛な声をあげた。
「それは……だ。動脈が切れていたら、大出血をおこす」
この不衛生な環境ではできることが少ない。泥と血と汗にまみれた弥助の顔に糸のような細い雨が降りそそいでいる。
ヨシは体ごと弥助にぶつかった。左脇腹から入った刃は斜め下から上に向かって入り込んでいる。
あの瞬間、私が見た小刀の刃渡り、おおよそ20センチちょっとか。
弥助の左脇から肋骨を突き抜け、おそらく、刃折れもせずに、まっすぐに貫いている。
どこまで刃は入ったのか。
彼の臓器を刺し抜いたか、動脈を切ったか、わからない……。もし、心臓に達していたら終わりだ。しかし、よほどの手練れでなければ一撃で心臓まで刺すことは難しいと読んだことがある。
人は案外と死なない。
雨足が強くなっている。
頭のなかをさまざまな感情と思考が巡った。
ヨシは雨に濡れた土のうえで両足を開いて座り、呆然とした顔で口を開けている。自分のしたことがわかってない。彼女はなにもわかっていない。
私に何ができる?
「トミ! 盾だ!」
オババが叫んだ。
それまで、呆然としていたトミが動いた。
私たちが防御に使った盾を持つと、そこに刺さった弓矢を抜いた。盾にささった弓矢は抜きにくい。
「貸せ!」
正気に戻ったのか、九兵衛が加わり矢を刀で払った。
夏だった。
九兵衛は
「トミ、お前の着物を脱げ。盾に巻いて布団にするぞ」
「おお」
トミもサラシの姿になって着物を巻き盾を簡易ベッドにしている。
弥助をそこに横たえるとき、彼は顔をしかめたが声は出さなかった。辛いはずだが、じっと耐えている。。
身体を移動すると小刀の隙間、わずかな皮膚の切れ目から血が吹き出した。
頭のなかをさまざまな感情が瞬間的に巡っていた。有益なことをしなければと思いながら、慌てふためいていた。
私に何ができる?
外科手術ができる医者はいない。奇妙な魔術やほとんど根拠のない治療がまかり通る時代だ。ここでは輸血することも、刃が裂いたであろう腸や血管を止血するために縫合することも、消毒薬も、抗生物質も、麻酔も、そして、清潔な布すらなかった。
弥助の顔を見た。
苦しげに顔を歪め、言葉もなく、そして、小刻みに震えている。
「薬草が必要だ、止血する薬草なら、この時代でもあるはず」
「薬草か」
「わかった!」
誰ともなく声をあげ、盾を持った全員が動きはじめた。
ヨシだけが呆けたように動こうとしない。
「ヨシ!」と、オババが叫んだ。
「後悔は後でしろ! 今は全力で行くぞ。ここにいても敗残兵にやられて、死ぬぞ! ついてこい!」
ヨシがびくっとして私たちを見た。そして、盾を持って走りはじめた私たちの後に、ヨタヨタとついてきた。
山道を走ると盾の振動が激しい。
盾が揺れるたびに、弥助の身体が踊り、そして咳き込む。
「苦しいか?」と、聞くと、彼はかすかにうなずいた。
大正生まれの弥助は我慢強い。声を漏らさずに耐え難い苦痛を我慢しているのだろう。盾を掴んだ指が奇妙な形に固まり強張っている。
私は仲間の顔を見た。
「浅井はこれから2日間。まだ抵抗を試みる。だから、戦場は変わらない。戦いの場を走り抜けるのは無理だ。このまま運んで弥助がもつとは思えない」
「テンが行った」と、トミが言った。
そういえば、テンの姿が見えない。仲間など全く関心がないテンだ。早々にどこかに消えたのか。
「逃げたのか」
「いや、あれは無闇に我らを見捨てることはないんや。怖い女だが、そこは違う」と、トミが言葉を噛みしめるようにうなずいた。「きっと薬草を探しに行ったんや」
「薬草を」
「そうや。薬師が止血用の薬草を持っとる。それがあれば、弥助の傷にきくやろ」
テンはサイコパスだ。人の気持ちなど気にしない。しかし、テンなりの方法で仲間を大事に思っているのかもしれない。
「テンを待とう。盾に乗せて走っても振動で弥助の身体が衰弱するだけだ」
私たちは小雨をしのげる大木の下に避難した。
弥助は苦しげに、ただ耐えている。
通り雨は地上に降り注ぎ、弥助の血をただ洗い流すだけに続いていた。
(つづく)
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