第27話 生きて帰れ

 護衛艦つるみに職員を移送したヘリコプターうおたかは、すぐに巡視船かましまにコンタクトを取った。


「こちらうおたか! 航空長の角倉です。かみしま応答願います」

『え? こちらかみしま通信長江口です。感度良好。どうかしたのですか!』


 いつも冷静で淡々と仕事をする江口が珍しく焦っていた。それもそのはず、今頃うおたかは護衛艦つるみでお世話になっていると思い込んでいたからだ。

 まさかこの期に及んで海上自衛隊は、うおたかの受け入れを断ってきたのかと慌てていた。


「江口さん、勝手にすみません。船長に我々をかみしまに戻してくださいとお伝え願えませんか」

『まさか、受け入れを断られたたのですか!』

「いえ。職員は護衛艦つるみにおろしました。私たち航空科は、まだ役目が残っていると判断しました」

『なんだって! 戻ってきている人はどなたですか』

「私以外にパイロット二名、機動救難士二名、整備員一名の六名です!」

『えっ、あ、はい! すみません、角倉さん。少々お待ちください!』


 巡視船かましまの船橋も慌ただしさの真っ只中だった。必要最低限以下の人員で船を操舵し、最大級の警戒を行いながら、機関砲の準備をしているところだ。

 江口のもとには各担当者からの無線が、あちこちから飛びこんでいた。


「はい、江口」

『平良だ! 伊佐管理官のおよその位置確認。我如古主計長が救助に飛び込んだ』

「まさか応援よこせという話ですか。人造人間はどうなったのですか」

『人造人間については不明。いつ上がってくるかわからん。我々は警戒を解けないため、ここから離れられない』

「こっちも人員ギリギリで、応援をよこすなんて無理……ああっ!」

『おい、どうした』

「また連絡します!」


 江口は頭の中を整理した。

 船長にうおたかの件を話し、うおたかには平良の要請に応えてもおう。

 幸い、うおたかには機動救難士が乗っている。彼らに救助を任せ、状況によっては護衛艦つるみに退避させる。


(確か、つるみには俺の同期が派遣されていたな。医官も乗っているはずだ)


 海外派遣からの帰還途中である護衛艦つるみは、半年にもわたる任務を行なっている。そういった長期にわたる場合は医師免許を持った自衛官も乗っている。そして、海上保安庁からの数名の保安官が護衛艦つるみに派遣されている。海上警備やテロ対策上で逮捕権を持たない自衛隊の補佐をするためだ。


「よし、なんとかなるぞ」


 江口はすぐに無線を握った。

 船長の松平に報告と許可をもらうために。




 ◇




「伊佐さん!」


 レナは伊佐の姿を見つけたのだ。白い波飛沫のあいだに、鯨のような大きな尾鰭おひれが跳ねた。

 黄色の海上保安庁の潜水服は、間違いなく伊佐だ。そう確信したレナはもう飛び込んでいた。


海神ポセイドン……いるよのよね? 私のもとへ伊佐さんを送り届けてくれたのよね!)


 レナは必死で手をかいた。大きな波が邪魔をすると、レナは迷わず体を海面に沈めた。レナも泳ぐのが得意だ。初めて泳いだのは父親の故郷、ハワイの海だ。たくさんの魚や海亀に見守られながら、泳ぎを覚えた。

 海はいつだってレナの味方だった。

 全ての生命は海から生まれたのだと父から聞いた。海は偉大なる母と同じ。海は私たちを愛してくれた。だからレナも海を愛している。


(もう少し、あと少し……)


 しかし海は命を与えてくれるけれど、ときに残酷に奪ってもいく。約束を違えたときに、それは起きる。


(でも、伊佐さんは連れて行かないで。彼はあなたを愛しているから。約束はまだ、違えていないわ)


 海を守る者たちにはそれぞれに交わした約束がある。レナは幼い頃、この美しき海を穢れなき青色に返すと誓った。国は違えど、海は繋がっている。

 ここで終わりになんてできない。約束を果たすため、自分はまだスタートラインにたったばかりだから。


「伊佐さんっ」


 レナは伊佐の手を握った。

 不思議なことに、伊佐の体は海に浸かっていない。その伊佐のそばに、先ほどレナが見つけたエアーボンベがあった。よく見るとそこに丘でも現れたのかと思うほど、しっかりとした地盤があったのだ。

 白くて硬い、でも暖かいような妙な感触だ。

 レナは不思議に思いながらも、その陸地に上がった。


「こんなところに、陸? そんなことより、伊佐さんっ! 伊佐さん!」


 伊佐の瞼は固く瞑ったまま、唇は紫を通りこして白くなっていた。レナはとっさに鼻の下に指を置く、耳を胸に当てる、そして首の脈を探した。


(動いて、ない!)


「伊佐さん! 逝っちゃダメ! 戻ってきて、伊佐さん!」


 レナは伊佐の頬を叩いた。されるがままの伊佐に反応はない。救急救命士でもあるレナに迷いはなかった。

 伊佐が着た潜水服のジッパーを下げて、心臓マッサージを開始した。一定のリズムをたもちなが、組んだ両手で力いっぱい胸を圧迫した。


 ―― いち、にっ、さん、し、ご……


 一分間に百回するくらいの速さで、休まずに三十回。胸が五センチは凹むように強く。そして、素早く気道確保して人工呼吸を開始。


 ―― ふぅー、ふぅー


 とにかく、力いっぱい息を二回吹き込んだ。そしてまた、心臓マッサージを施す。

 これを五回繰り返してから、伊佐の胸に耳をあてた。


「まだ、戻らない。もう一回!」


 一人で心臓マッサージと人工呼吸を繰り返すのは、かなりの体力を消耗する。しかも、ボートから泳いできてすぐの事だ。


「まだまだ! やめないから! 戻ってくるまで、やめてあげない!」


 彼は生きて戻ると言った。約束を違えることは許さない。その約束は絶対に守らせるとレナは手を動かし続けた。


(お願い! お願い! お願いっ。戻って、こい!)


 海上保安官は必ず生きて帰らなけばならない。なにがなんでも。


「伊佐、さんっ……伊佐さん」


 いつのまにかレナの瞳から大粒の涙がぼたぼたと落ちていた。その涙は伊佐の頬や鼻、唇へと落ちている。

 レナの体力も限界を迎えようとしていた。体も心も追い込まれて、レナの感情は不安定になっていた。

 泣きたいわけではない、泣いている場合ではないのに、勝手に涙が溢れてくる。

 思い通りにならない歯がゆさ、思い描いた結果にたどり着けない焦り。そういった気持ちがレナを追い詰める。


(私が諦めたら、伊佐さんが死んでしまう。いや! それは、いや!)


 波が押し寄せて、横たわる伊佐の顔にかかった。慌ててレナは伊佐の上体を起こして抱きしめる。すると伊佐の肩がわずかに揺れた。


「伊佐さん⁉︎」


 目は瞑ったままだが、確かに呼吸を再開している。さっきまで真っ白だった唇は赤黒い色まで戻ってきた。自発呼吸の再開だ。


「よかった……よかった! 伊佐さん、伊佐さん!」


 レナは伊佐を抱き抱えたまま、頬を撫で、腕を撫で、背中をさすった。どうにかして体温を上げなければならない。自分もずぶ濡れで冷え切っているのに、レナは構うことなく伊佐の体をさすり続けた。

 そのとき、二人が座る地面が波打つように揺れた。白くて硬いその地面が、なんとなく暖かい。


「えっ、なにこれ。えっ――」


 硬かったはずの地面がだんだん変化を始める。布の表面が毛羽立ったような感触に変わる。手のひらで地面を撫でると――


「なにこれ、獣の毛みたい……キャァ」


 海中から真っ白なロープのようなものが二本現れて、伊佐とレナに巻き付いた。その白いロープのようなものは波打つように振動し続ける。


(気持ち悪い!)


 程よい強さの絞め具合で、そのロープは動き続けている。気づくとレナの体はホカホカと体温が上昇していた。レナだけではない。伊佐の体温も上がっている。そう気づいたたき、白いロープは離れていった。


『安心せよ。イサナギサは死にはせん。おまえたちには、まだまだやらねばならぬ事がたくさんある』

「だれ!」

「ワダ、ツミ……おま、勘弁してくれ」

「伊佐さん!」

「レナさん、すみません」

「もう、バカー!」

「えっ」


 レナは嬉しさのあまり伊佐を罵った。バカと叫んでおきながらぎゅうぎゅう抱きしめる。レナのバカ、バカという声は涙声に変わり、最後はなにも言わなくなった。

 伊佐は目覚めてすぐのこの状況にとても驚いていた。


「レナさん」


 伊佐は宙に浮かせたままの腕をゆっくりとレナの背中に置いた。そして、ゆっくりとその背中をさする。

 自分のせいで彼女が泣いているのは聞かなくてもわかる。彼女がどんな思いで救命措置をしてくれたのかを思うと、申し訳なさでいっぱいになる。


「あなたに二度も助けてもらいました。ありがとうございます」

「もう、ダメかと思ったの。諦めなくてよかった」


 突然、二人の足元が揺らぎ始めた。


『イサナギサ、ヤツが上がってくる。私はこれからヤツをもう一度闇に沈める。さすがに流されていくおまえを見捨てるわけにはいかなかった。また、会おう!』

「ワダツミ!」

『そうだ、コレはいらないのか? 眼鏡の男が怒るのではないか』


 綿津見が髭で持ち上げたのは海上保安庁のエアーボンベ。伊佐が海中で脱ぎ捨てたものだ。綿津見言う眼鏡の男は歌川のことであろう。


「レナさん、エアーボンベ回収すべきですか? 歌川がいちいち煩いから」

「えっ……要らない!」

「ワダツミ、アイツの重石おもしにしでもしてやってくれ」

『承知した。だが、とどめはお前たちがさせ。よいな』

「きゃぁっ、伊佐さん沈むっ」


 実は伊佐とレナが座っていたのは、綿津見の鼻の上だったのだ。力尽きて海流に流される伊佐を放っておくことができずに、綿津見は海底から戻ってきたのだ。

 神様は気まぐれというが、綿津見は伊佐に対して特別な感情があるのかもしれない。わざわざ引き返してくるなど、普通はありえない。


「レナさん、俺から離れないで」

「伊佐さんっ、体は」

「俺はもう大丈夫だから。レナさん、力抜いて」

「うん、ひやっ」


 伊佐はレナの腰に腕を回すと、その場で立ち泳ぎを始めた。レナも始めはバタバタしていてが、次第に伊佐と動きを合わせられるようになった。


「レナさん、お上手ですね。まるで人魚だな」

「え、なに言ってるんですか。あ、そういえば歌川さんたちが近くまで来ているんですけど」

「うん。でも、かなり流されたみたいだよ俺たち」

「え、そんな。ずっとこのままじゃ、体力がもたないわ」


 いくら海水で浮遊力があるとはいえ、二人とも体力は使い果たしてほぼゼロに近い。レナはせっかく助かったのに、また遭難者になってしまうと絶望感にかられた。


「あーでも、大丈夫みたいです。ほら、あれ」

「どれ? うそ、戻ってきてくれたの!」


 伊佐とレナに見えたのは、巡視船かみしま搭載のヘリコプターうおたかだった。


 ドドドド――


 確かにうおたかが、二人を目指して飛んできていた。



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