第17話 エンジン停止
巡視船かみしまのエンジンが完全に停止した。
「船長! 予備エンジンもダメです。ブリッジ内、予備バッテリー稼働します」
「エンジンは全てダメか……」
航海長の由井は機関科と何度も連絡をとっているが、メインエンジンも予備のエンジンも再開の目処が立たないと知らされる。
「機関長と伊佐さんが、機関室に篭っているらしいですが、彼らの指示がないとエンジン再スタートはできないと」
「佐々木さんと伊佐さんが? なにか原因を掴んだのでしょうか」
「船長どうしますか。このままでは操舵不能、潮に流されるだけ。最悪は民間船と衝突です。 SOS発信しますか!」
船長の松平は、顎髭を親指のはらで弄りながら考えた。小型船ではないため、オールで方向を変えるなんてできない。なにしろこの巡視船かみしまは、石垣海上保安部で最も大きな船である。助けを呼ぶにも相応の大型船か、
(自分たちで、何とかするしかない……最悪の事態はこの船だけで終わらせるしか、ない)
「日の出までの時間は?」
「えっと、約三時間です!」
「錨を下ろせ」
「え! 錨を、下ろすんですか!」
「潮に流されるのはまずい。エンジンスタートできるまでここで待つ。歌川くん、二人のところに行って状況確認を頼む。由井くん。総員に連絡を。全員、ライフジャケット装着せよ」
船長の命令は絶対である。
歌川は松平に素早く敬礼をすると、ライフジャケットを手にして船橋を飛び出した。航海長の由井は船内マイクを手に取る。
『緊急連絡、緊急連絡。総員、ライフジャケット着用しそのまま待機せよ。繰り返す! 総員、ライフジャケット着用し、そのまま待機せよ』
「巡視船かみしま、錨を下ろせ」
「錨をおろせーっ」
由井のマイクを握る手は震えていた。工作船らしき船や、こそこそ瀬取りする船、排他的経済水域に侵入しようとする船に遭遇したことはあった。しかし、今回のような原因不明で操舵不能な事案が、自身の船で起こるなんて今日の今日まで想像していなかった。
「航海長」
通信長の江口が入ってきた。
「なにかありましたか」
「いろいろと繋がらなくなりつつありますので、通信にモールスも考えなければなりません」
「しかし、電気が……」
「万が一のために、バッテリーを何台か積んでいます」
「なるほど」
「いつまでこの状態が続くのか分かりませんので、最小のエネルギーでやりたいのです。まあその前に、通信する事があればですが」
「我々も予備バッテリーは最低限の使用にとどめます」
レーダーもモニターも消えた。それでも船橋は妙に明るかった。空にはチカチカと光る星、遠くには満ちようとする月が雲を抜けてこちらを見ている。淡い光が海面に反射して、船内は青白い光に照らされていた。
白い船体に紺色のラインが走る巡視船かみしま。
外から見ればまるで、広い海に浮かぶ幽霊船のようであろう。
「由井くん、航空科を呼んでくれ」
「はい」
船長の松平はそう言うと、腕を組んだまま夜明け前の海を見つめていた。
船長は最悪の状況から最良の案を出さなければならない。この巡視船かみしまが持つ能力を、生かすも殺すも船長しだいなのだ。
◇
一方で歌川は、ライフジャケットを身につけながら船内を急ぎ足で進んでいた。虹を見たときから歌川はずっと落ち着かない状態だった。嫌な予感がすると言ったものの、自分自身その嫌な感触をうまく説明できなかったのだ。
虹とともに姿を現した
(このおかしな現象を説明してくれよっ。ワダツミもなんかメッセージくらい残せよ。嫌なんだよ、あいつ以上の怪奇現象なんてさ!)
苛立ちを抑えられないまま、階段を駆け下りた。
「歌川さん! 歌川さん!」
食堂付近で歌川を呼ぶ声がした。
「誰です? 何かありましたか!」
「歌川さんっ」
ドンとぶつかる勢いで現れたのは、主計科主任の虹富まどかだった。慌てふためいた声色で、歌川の両腕をがっしりと掴んだ。
「虹富さんじゃないですか。待機しろとの命令でしたが」
「電源が落ちたから、冷蔵庫が心配で! 中、ダメになってしまう。どうしよう。みんなの食事が」
「ああ、もう。こんな時に食事の心配ですか。僕は行かなければならないところがあるんです。止めないでください」
「こんな時だから心配するんですよ! だって、私たちは皆さんの命と健康を預かる主計科です! じっと寝て待て! と仰るんですか」
「冷蔵庫は開閉しなければ数時間は持つでしょう。主計長にご相談いただけまんか!」
「もう、もう、もう! 歌川さんの、ばかー!」
虹富は歌川の掴んだ腕を上下になんどか振り回し、ばかと吐き捨ててどこかに消えてしまった。歌川は虹富の衝動を突然ぶつけられて、唖然とした。
「は? ばか? 誰が……」
もっと他に掛けるべき言葉があっただろうか。いや、自分は決して間違った対応はしていない。主計科の職務は主計科で解決すべきだ。「うん」と、歌川は自分を納得させて再び機関室に向かった。
「まったく、僕は忙しいんだ。伊佐さんを支えなければ僕がこの世界にいる意味がなくなる。明日の食事なんて心配している暇はないんですっ」
歌川は虹富の乙女心など知る由もないのである。
―― 歌川さんの、ばかー!
それでも彼女の声は、歌川の心に小さな刺し傷を残していた。
◇
「バッテリーは使えそうですか」
「通信長、大丈夫です。でも、この時代にモースルなんて理解できる船舶がありますか。日本国内ならともかく、外国船ともなると……」
「信号灯なら万国共通だ」
「でもそれって、もうSOSしかないですよね。この状況ですと」
「巡視船かみしまの現在地、どこか分かっていますか。海図を広げて、分かる人は指をさしてください」
通信長の江口は眼鏡のふちに触れ、部下たちの指の動きを見ていた。彼らは迷いなく全員が同じ場所をさした。潮の流れもきちんと読み込んだ適切な場所である。
「うんそうだね。先ほど錨が下されました。しばらくはここに留まることになるでしょう。このラインの先は明後日、海上自衛隊佐世保基地の護衛艦と訓練をする場所です」
―― 沖大東島
海上自衛隊佐世保基地が管轄している、実弾訓練も可能な海域である。
「護衛艦はソマリアの任務を終え、ここを通過して……」
「江口通信長! 彼らは我々のすぐ近くを!」
「はい。おそくとも、明日の昼過ぎには通過します」
「海上自衛隊となら、なんらかの通信が可能ですね。しかも護衛艦は、我々の船よりはるかに大きい」
「もっともこのSOSは、最後の手段です。海上保安庁のプライドにかけて、ギリギリまでもがきます。佐々木さんを信じて」
「はい!」
通信科は通信科で、あらゆる場面を想定していた。
巡視船は船長だけの力では動かせない。機関科だけでも操舵できない。航海科、通信科、それらをサポートする主計科と全ての職員の力が必要なのだ。
それぞれにプロフェッショナルとしての誇りがある。
どんなに難解な事件でも、どんなに過酷な現場に遭遇しても、全員で乗り越える。
それが巡視船かみしま乗務員の使命なのだ。
「とりあえず、周辺警戒です。見張りはストロボを付けてくださいね。とはいえ、落ちないことが肝心です」
ストロボは海に落下した時にオレンジ色に点滅し、落ちた位置を救助員に知らせることができるアイテムだ。
「はい。では、行ってきます」
錨を下ろしたからといって安全ではない。危険水域から脱した後ということもあり、他の船も航行が可能な場所である。怪しげな灯火が海に浮かんでいるとはいえ、それが消えたら暗闇と化す。
巡視船かみしまは今、電灯が消された状態だ。他の船舶との衝突事故を起こしてはならない。
今は人の眼が、何よりも重要なのだ。
十分ごとに見張員は交代することにした。緊急事態であるため、普段の当直勤務では危険すぎる。短い間隔で船外の様子を確認し、報告をさせる。それは、見張員の安全確認にもなるからだ。
万が一、海に落下した場合はいち早く発見し救助しなければならない。
誰一人として、欠いてはならない。
全員で、家族のもとに帰るのだ。
『かみしま前方、異常なし』
『かみしま右舷、異常なし』
『かみしま後方、異常なし』
左舷だけは立ち入りが許されていない。
あの光りはまだ、
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