第10話 アグー豚のいざない
【本日の献立】
アグー豚の角煮丼
すまし汁
サラダ
※お茶は各自にてお願いします
船長の松平と、航海長の由井は二人で食堂にやってきた。出航してからしばらくは由井が操舵していたが、忙しい海域を抜けたところで部下と変わった。出航してすぐは気をつかうし、緊張する。
「おお、伊佐くんから聞いた通りだ。うまそうだね」
「船長。お茶、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
当直勤務者以外は、順に食堂に入っていく。幹部たちは士官食堂へ。それ以外の職員は准士官食堂へと入る。これは格差ではなく、一般職員たちへのきづかいなのではないかと思う。せめて食事の時くらいは、上司の顔色を伺わずにリラックスして食べて欲しいという配慮があるのかもしれない。
隣の食堂からは若い職員たちの楽しげな声が聞こえて来た。
携帯の電波は繋がらない。繋がったとしても家族や友人と連絡を取ることはできない。娯楽というものも、ほぼないに等しい。だからこそ、いちばんの楽しみが食事になる。
「若い子たちはずいぶんと楽しそうだね」
「とくに女性陣の休憩中なんて、我々がお邪魔すべきじゃないですからね。ほんと、針の上のむしろですよ」
「男子禁制状態ですか」
「ええ」
あははと、おじさんたちは笑ってトレイに夕飯を乗せて席に座った。
「入港時のかみしまのカレーはどんなだろうね」
「新しい船ですからね。カレーの歴史もこれからですから……
「楽しみだね。それまでに、無事に任務を終えなければ」
「はい。二週間、よろしくお願いします」
カレーといえば海上自衛隊のイメージが強く、金曜日に食べるものという固定概念が浸透している。しかし、カレーは海上自衛隊だけの名物ではないのだ。海上保安庁もそれぞれの船のカレーがある。海上自衛隊と違うのは、金曜日ではなく入港するときの最後のメニューということだ。
海上自衛隊は一度出航すると、任務の期間は長く月単位であろうか。一方、海上保安庁は大型巡視船でも平均して二週間前後である。よほどのことがない限りは、警戒監視の任務は他の船と交代することになっている。
「うまいな! これはいかん。食べ過ぎてしまう」
「船長。これ、かなり贅沢ですよ。アグー豚は沖縄のブランド豚です。一般に流通している豚より数量が少ないんです。霜降り肉で甘みがあってて…しゃぶしゃぶにしたら最高ですよ」
「ほう。そんな貴重な豚が今夜の献立にねぇ」
「景気良過ぎませんか? 怖いなぁ。飴と鞭手法だったりして」
「予算内で組んでるはずだよ。地元だから手頃だと思いたいね。しっかり味わっておくか」
「ですね」
アグー豚は沖縄に古来からある貴重な豚である。一般的な豚と比べ体は小さく、黒毛だ。成長もゆっくりで肉質はとても優れていると評価されている。
一般的な豚が二百キロから三百キロだとすると、アグー豚は百キロを少し超える程度だ。
「お二方、しっかり味わってくださいね」
噂をすれば食事の責任者でもある我如古レナがトレーを持ってやってきた。
「これはこれは料理長」
「由井さんってば、何が料理長ですか。私は直接手を出していません。今回は主任になったばかりの虹富が献立を作っています。初陣を飾るためにアグーで勝負とか言ってましたよ」
「初陣って、とんでもない例えだな」
若手に、少し能力より上の責任を持たせることにした巡視船かみしま。これも伊佐が仕掛けたものである。
全ての責任は船長にある。しかし、現場で動くのは若手保安官たちだ。言われた通りに動くのも大事だが、自分で考え、責任をもって任務に当たることはもっと大事だと考えている。
上司の命令に従うこと、それを自分の頭で考えて、確実に実行することを短期間で養うのが目的である。
船長、航海長、機関長にベテランを置いたのは、やはり、お試し航海ではないからだ。
「そういえば、伊佐くんは?」
「ああ。歌川さんとあちらで食べています。このメニューを作った虹富に捕まってるみたいですよ」
「へぇ。イケメンはいいな。我如古は行かなくていいの? 若手に負けてるじゃないか」
「え? あはは」
◇
伊佐と歌川はレナが言っていたように、入り口付近のテーブルで夕食をとっていた。調理責任者でもある主計科主任の虹富まどかと共に。
「いかがでしょう」
「美味しいですよ」
「えと、それは一般的な感想ですか? もしそうであれば、歌川さんの個人的な感想が欲しいのですが」
「ですから、美味しいですよ」
「うーん……」
伊佐は二人のやりとりを黙って聞きながら、箸を動かしていた。
歌川と食堂に入ってきたときに、待ち伏せでもしていたのかと思うくらい、絶妙なタイミングで虹富が現れた。自分たちを見るや虹富は満面の笑みを見せて、手際よくトレーに食事を載せた。そして歌川に渡す。
伊佐は食堂のルール通りセルフサービスで取った。
虹富は歌川の隣をキープしながら、献立の説明を行い、いまに至る。
この船の献立は主任である虹富まどかが作っているのだ。
「あの、美味しいものに美味しい以外なんと言えばよいのでしょうか」
歌川は眼鏡のふちを上げながら、少しムッとした表情で虹富に言い返した。
「歌川さん、私のこと嫌いですか?」
「どうして僕があなたのことを嫌いだ、に結びつくのですか。美味しくて食が進みます。この後のワッチで眠くならないといいなと思うくらいに。これでよいですか」
「ありがとうございますっ。ふふっ」
虹富の嬉しそうな笑顔を見た伊佐は気づいてしまう。
(恋愛スイッチ入ってるだろ、これ)
気づいたとたん、この席で食べていることがバカらしく思えてきた。当の歌川は全く気づいた様子はなく、淡々と食事をすすめている。一方、虹富はというと、歌川の正面で食べもせずに、頬杖ついて歌川が食べているところを見ている。
とてもキラキラした眼で。
(何があったんだよ……)
「歌川さん。これもう一つどうぞ」
虹富は手付かずの自分のどんぶりから、アグー豚のかけらを歌川に譲った。
「どうも……いや、あなたも食べてくださいね。栄養のバランスがあるでしょう。いくらワッチがないからと言って、任務中のダイエットは厳禁です。我々公務員は……」
歌川の説教じみた長い言葉ですら、虹富は嬉しそうに聞いている。しばらくこのやり取りが続きそうだ感じた伊佐は、トレーを持って静かに席を立った。
(別室でコーヒーでも飲むか……)
「ごちそうさまでした」
食器を返却した伊佐は、歌川たちを残して食堂を出た。娯楽室とは名ばかりの休憩室でコーヒーをカップに入れる。
カップを片手に窓から外の海の様子を見た。波は穏やかで、揺れもない。
伊佐はコーヒーを一口飲んで、近くにあったソファーに座った。
「あれ? 伊佐さんお一人ですか?」
声をかけてきたのは我如古レナだった。
「はい。一人です。あ、先ほどはどうも」
「写真の件ですか? よく分からないままでしたけど、楽しかったです。隣、いいですか?」
「どうぞ」
レナもカップにコーヒーを注ぐと、伊佐の隣に腰を下ろした。レナは窓の外の海を見てからコーヒーを口に含ませる。たったそれだけの仕草に、伊佐は新鮮さを感じた。レナが海を見るときの瞳は美しく、そしてその視線は優しかった。
米国人の父親を持つレナの瞳の色は伊佐とは違う。それにしても光の具合だろうか、昼間はグレイがかった薄い青だったのに、夜を迎えようとしている船内の明かりの下では深い青だ。
「海のようだ」
伊佐は思わずそう口にしていた。
「え?」
「すみません。レナさんの瞳の色です。海のように色が変わるんだなと」
「色が変わる? 私の目の色がですか?」
「はい。昼と夜とでは違います」
「色が変わるなんて言われたことなかったな。そうなんですね。私の目ってそんな感じなんだ。父親譲りなんで、色素が薄いんですよね。小さいときはお人形さんみたいって褒められて、大きくなると外人の子どもってからかわれてたから。鏡でもあんまり見ないようにしてたくらい」
後ろ姿は日本人なのに振り向くと外国人。しかも一般的な日本人女性より背が高い。上から見られている気がして嫌だ。そんなことを言われたこともあった。
特にこの目に関しては、散々言われてきた。今は外国人との間にできた子は珍しくない。けれど、田舎で育ったレナは目の色が違うだけで変な噂をされた。
『米軍に捨てられた子』
アメリカ海軍の父は、
だからレナは母親の実家の近くで生活をしていたのだ。
「父はいつもいなかったから。お前は父親に捨てられたんだろって。田舎らしい嫌味でしょ」
「いろいろ、大変だったんですね。でも、間違いなくいえますよ。レナさんの瞳はとても美しい。まるで海から生まれたみたいに」
「海から生まれただなんて。そんなロマンチックな話じゃないですよ。アメリカ人とのハーフだから、これ。あはは」
レナは笑ってごまかした。自分の目の色を、そんなふうに見ている人がいるとは思わなかった。心臓がギュッと掴まれたように、ほんの一瞬だけ痛くなったのだ。
「今夜はこのまま平和だといいな」
「もしかして、これからワッチですか?」
「はい。午前零時まで」
「頑張ってください。明日の朝食を楽しみにして」
「そうですね。この船は食事が美味しいので、支えになります」
「伊佐さん」
「はい」
「やっぱりなんでもない! 何かあったら叩き起こしてくださいね。お疲れ様でした」
レナはつい自分の過去を話してしまった。伊佐に「誰にも言わないでください」と言うつもりだった。でも、その言葉は飲み込んだ。
伊佐がどんな男なのか試してみたかったのだ。
お付きの歌川に話すだろうか。そうならばこれ以上、この男にプライベートは明かさない。
少しだけ、レナの中の女が顔を出した瞬間だった。
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