第8話 出航!

 巡視船かみしまの周囲が慌ただしくなった。

 まもなく先に出航していた巡視船が帰ってくるのだ。その船と入れ替わりで、かみしまが出港する。

 第三バースに停泊していた巡視船かみしまは、まもなく離岸する。

 船橋ブリッジでは、航海長の由井克也が船内マイクを握った。


「総員、配置につけ」


 船橋では、船長をはじめ航海科が所狭しと準備をしている。甲板では前後左右に人員が当てられ、双眼鏡などを持ちながら周辺を確認している。出港と入港時は特に気を使うものだ。

 船長の松平は、船長専用の椅子に座りその時を待った。


 再び航海長の由井がマイクを握る。


「出港よーい、出港よーい」

「一番、二番、もやいはなせ」


 ―― ピッピッピッ


「かみしま。一番、二番はなれました」

「了解」


 アンカーに括られた舫が外れた。甲板先頭に立つ職員が、ガラガラと機械でその綱を回収する。そして、まだ錆の少ない大きな錨が、海底から引き上げられた。

 同時に左舷方向からタグボートが二隻やってくる。タグボートからワイヤーが放たれ、今度はそれを接続する。

 二隻のタグボートは航海長と無線連絡を取りながら、ゆっくりと岸から船体を引き離した。


「東向けて〜」

「ゆっくり、ゆっくり、よし。引いて」


 大型船になるとタグボートで離発岸する。日本の狭い港ではこのタグボートが大活躍するのだ。小回りのきかない大型船を、四方八方から引いたり押したりして進行方向に向けて岸から離す。

 その仕事のスピードと正確さは頭が下がるほどだ。


「はい、オッケーでーす。ではみなさん、いってらっしゃい!」

「ありがとうございました!」


 無事に巡視船かみしまはバースから離れた。


「出航!」


 ボーッ


 汽笛を鳴らした巡視船かみしまは、新たな任務へと向けて港を出た。漁船、国際貨物船、外国の海洋監視船が行き交うあの海域へいざ出発だ。



 ◇



 南国の青い空、青い海と思いきや、空に浮かぶ雲が増え白から灰色へと変わりはじめた。

 巡視船かみしまの初任務は、晴天下での船出とはいかないようだ。

 船長席に座っていた松平は空模様を見て、静かに立ち上がった。


「由井君。なんだか雲行きのあやしい出航ですね。気象予報が急にかわったかな」

「そうなんですよ。空も海も青々としていたんですがね。気象データの移行を注視しておきます」

「うん。よろしく頼みます」


 船は港を出てから順調に進み、安定した航行を続けている。気になるのは天気だけだ。

 実は船長と航海長の会話を聞いていた伊佐は、この天候の変化に心当たりがあった。


(歌川のやつ、どこに行った?)


「船長、自分が見回りをしてきます」

「そうですか。では、伊佐君に任せましょう。さて、初日の夕飯はなんだろうね。楽しみです」

「帰りに見てきます」


 伊佐は、制帽をしっかりとかぶり直して船橋を出た。天候変化の原因を確かめるためだ。

 伊佐の頭の中には、巡視船かみしまの見取図がしっかりとインプットされている。慣れた足取りで狭い階段をリズム良く降りた。

 まず、船尾にあるヘリコプター発着甲板に立った。風はまだ強くない。今の時点では格納庫は閉鎖されている。発着地点に描かれまだ汚れのない白を、伊佐は膝をついて触れた。


(試練は絶え間なくやってくるだろう。それでも、耐えてくれ……この美しき海のために)


 そのとき、後方で稲光が走った。

 数秒ののち、バリバリという何かが裂ける音が届いた。


「雷か。歌川のやつ、デッキに出たな」


 伊佐は再び階段を上った。ひとつ上の階、士官居住つ区を通り抜け、通信室、機関長室とさらに前方に進む。再び外に出ると、前部マストの前に出た。

 すると制帽のつばを押さえながら、前を向いて立つ歌川が居た。いったい何を真剣に見ているのか。


「歌川、中に入れよ。落雷にあいたいのか」

「伊佐さん。あ、鳴りました? 雷が」

「ああ。後方でゴロゴロいいながら、様子を見ているみたいだ。歌川は雨男ならぬ雷男だな」

「なんなんでしょうね。事の始まりは必ず天候不良ですよ。僕にはそういう神様がついてるんですねきっと。ありがたく拝んでください」

「なにが神様だよ。拝むなら船内神社だけで十分だ。それより、このままだと雨も来るぞ。中に入ってくれよ」

「おや? 僕のことを心配してくれたんですか。伊佐さんにしては珍しいですね」

「歌川の、というより初任務の職員のためだ。今回は短期間とはいえ、何があるか分からない。せめて海が荒れるようなことは避けたくてね」

「はー、そうですか。どうせ僕は雷に撃たれても死にやしませんよ」

「あの話は本当なのか」

「まあ、たまたまですよ。運が良かっただけです。さて、こう見えても僕は忙しいんですよ。訓練計画書に目を通さないと。今回はソマリアから帰還途中の護衛艦さんと補給訓練するんですから」


 海上保安庁はただ任せられた水域を守るだけではない。無人島の環境整備や灯台の点検、そして最近増えたのは警察や自衛隊との連携強化のための訓練だ。

 もっぱら海上自衛隊とは、時間さえ合えば合同訓練を行なっている。

 この合同訓練はとても重要で、他国の我が国への領海侵犯や、瀬取りの抑止力となるのだ。


「じゃあ、俺は調理室覗いてから操舵室に戻るよ。今夜のメニューを船長に教えないといけない」

「え、ずるいですよ僕も行きます」

「そう? 二人で行って邪魔にならないかな」

「覗くだけでしょう? それで気が散るくらいなら船を降りていただきます」

「厳しいな」

「行きますよ〜」


 歌川は忙しいと言っていたわりには、素早く船内に入ってしまう。歌川も伊佐のように船内図は頭に入っている。すました顔をして調理室へ一直線だった。


(調理室に一人で行かせやしませんよ。女性のほとんどが主計科なんですからね! とはいえ、機関科も侮れない。近頃はあちらこちらに女性がいます。良いことなんですよ! しかしっ、伊佐にはよろしくない)


 とにかく歌川は伊佐に女の接近を許さないと必死なのだ。それは物理的な距離ではない。心理的な距離である。


(まったく本人は呑気なもんですよっ)


 本人は未だ、モテる体質とは気付いていないのである。それは、歌川新汰の罪となるのか。



 ◇



 伊佐と歌川は食堂に掲示された今夜の献立を見て、にんまりとする。


 アグー豚の角煮丼

 わかめと豆腐のすまし汁

 サラダ


「アグー豚は初めてだな。さすが沖縄だよな」

「いい具合の脂が舌にのるんでしょうね」


 やはり、丼ものは惹かれるものがある。

 甘辛く味付けされた肉をひとかけら、そして白いご飯を口いっぱいにかき込むのがたまらない。そこにあっさり目のスープで喉を洗って、またかき込む。

 正直なところサラダはなくてもいい。しかしカロリーと栄養面のバランスを重視しているので、そこは目を瞑るしかない。


「腹減った」

「文字だけで虫が鳴りますね」


 口の中に唾液が勝手に溜まってくる。働き盛り、気を使いまくりのポジションの二人は、カロリー消費が半端ない。気を緩めると空腹を覚えるのである。


「あれ、歌川さん?」


 調理室から顔を出したのは、主任の虹富だった。


「虹富さん、お邪魔してすみません」

「やっぱり歌川さんだ。よかった。えっと、そちらは……」

「ああ、僕の上司になります。船長補佐の伊佐です」

「業務監理官の伊佐です。なにか改善すべきことがありましたら、意見を寄せてください」

「えっ、監理官! お疲れ様です。失礼しました!」


 虹富はビシッと、美しい敬礼を伊佐に向けた。船長の次にえらいと言われる人物が、こんなところにやってくるとは思わなかったのだろう。


「僕には敬礼いただけないのでしょうか?」

「あ、えっと」


 慌てた虹富を見た歌川は、眼鏡のふちに軽く触れて真顔の表情を緩めた。


「冗談ですよ」

「失礼しました。あの、なにかあったのでしょうか。お二人でいらっしゃるなんて」


 突然幹部がやってきたのだから警戒するのも無理はない。伊佐は虹富の緊張に申し訳なく思った。


「何もないんです。出航後の船内巡回を船長がやろうとしていてので、単にわたしが代わっただけです。それと、船長が夕飯のメニューを知りたいと言っていたので」

「そういうことだったんですね」

「はい」


 伊佐は「夕食の時間が楽しみです」と付け加えると、食堂から出て行った。歌川は伊佐の後を追いかけようとして、足を止めた。虹富が何か言いたそうなのに気付いたからだ。


「どうかしました?」

「あのっ、心を込めて作っています。味には自信がありますので、きっと満足していただけると思います」

「君のエプロンの匂いで分かりますよ。とても美味しそうな匂いがします」

「えっ、やだ……」


 歌川の言葉に顔を赤くして俯いた虹富。それを見た歌川は「ん?」と首を傾げる。


(伊佐さんのあの表情はやはり、女性には毒ですよね……気をつけなければ)


 あくまでも伊佐のせい。

 歌川は自分の勘違いさせるような言い回しのせいだとは、思っていないようだ。


「では、僕はこれで」

「はい。また、夕食の時に!」


 歌川は背中越しに軽く手をあげて食堂から離れた。

 ―― どうしよーう。歌川さん、かっこいい!


 迫りくる、恋の波……。

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