第3話 少年とワダツミと俺

 出航してしまえば半月は陸に上がれない。船乗りならば、当たり前の話かもしれない。だからこそ、乗船の日まではのんびりと過ごしたい。しかし、そうはいかないのが海上保安庁である。

 陸上での勤務は決して楽とは言えない。デスクワークは山ほどあるし、講習会に広報活動、そして欠かすことができないのが訓練だ。

 とくに、危険な任務を任されているのが特別警備隊や機動救難士、潜水士だ。他の部隊より比較的年齢層が若いのも特徴である。それは肉体勝負という理由が大きいと思われる。

 訓練に訓練を重ねて、体力作りのために己の体をいじめ抜く。


 ―― 失敗と諦めは死。


 ミスを許さない過酷な現場で、手を離せばときに仲間の死に繋がり、ときに助けを求めている弱き人を見殺しにしてしまう。


 ―― 死んでも掴んだら離すな!



 そんな彼らも地域住民と一緒に海を守る活動も行なっている。

 『私たちの海を守ろう! ビーチクリーン大作戦』というボランティア活動が定期的に行われていた。

 小さな子供たちや学生たちも加わって、海岸に流れ着いたゴミを拾うのだ。

 そのビーチクリーン大作戦の中に、着任間もない伊佐の姿もあった。



 ◇



 ポロシャツにカーゴパンツ。いつも来ている制服や作業後は脱いで、ボランティアの人々と浜辺を歩く。キャップを被り軍手をつけて、ゴミ袋を手に浜辺に目を凝らす。このボランティア活動は行政も民間も一緒になってやっている。もちろん普段から散歩がてらに毎日ゴミを拾ってくれている人もいる。

 今回は役場、海上保安部、消防署、サーフ協会、保育園、子ども会など多くの団体が参加している。総勢300人で、美しい青き海を守るために開催した。


 伊佐も幼い頃から家の近くの浜に出て、遊びついでにゴミを拾っていた。それは当たり前のことだったのだ。

 違うことといえば、南国の太陽のと海の透き通る青さが伊佐の胸を弾ませた。


(くそぉ、泳ぎたくなるだろ〜)


 色のない透き通った海水が、沖に行くにつれて色づいていく。白からエメラルドグリーンへ、そしてスカイブルーにかわり、群青色と変わる。


「なんて美しいんだ」


 つい手を止めて、見惚れてしまうほどだ。


「おじちゃん、あたらしい人?」

「うん?」


 振り向くと、小さな男の子が伊佐を眩しそうに見上げている。緑色の帽子に日除けの布が肩まで伸びている。おそらく、今回参加した保育園児だ。


「よく分かったね。新しくこの町にお仕事で来たんだ。よろしくね」

「やっぱり! 先生たちがね、おじちゃんすっごくかっこいいから近くで見てきてって。どこでお仕事してるの?」

「おじさんはね、石垣海上保安部というところで船に乗る仕事をしているよ」

「あたらしいお船、かみしまに乗る人?」

「船名まで知ってるのか。すごいな。そうだよ。その船に乗って、海のお巡りさんをするんだよ」

「ぼくのお父さんとちがうのかぁ」


 大きな目をした、可愛らしい男の子だ。表情が豊かで言葉をたくさん知っている。話すたびに黒目がくるんくるんと動く。今どきの保育園児はいろんな意味で侮れないなと伊佐は心の中で思う。


「お父さんも海の仕事をするのかな?」

「お父さんはねオレンジ色のゴリラさんだって、お母さんが言ってた」


(オレンジ色の……ゴリラ?)


「強そうだね」

「うん!」


 伊佐がそう言うと、男の子は嬉しそうに笑みを浮かべて、身振り手振りで自慢のお父さんの事を話しだす。


「あのね、ヘリコプターからおりてきて、ひとを助けるんだよ! でも、いまはオレンジの服をきてないんだ……もうやらないんだって。年にはかてないんだって。どうしてとしには、かてないのかなぁ」

「そうか! 君のお父さんはおじさんと同じだ。海と人を守る人なんだね。君、お名前は?」

「ぼく、五十嵐海優いがらしかいゆうです。ひまわり組です」

「ありがとう。おじさんの名前は伊佐渚です。お父さんによろしくね」

「はいっ!」


 彼の父親はおそらく航空基地の勤務者だろうと思った。今は着ていないオレンジの服、そしてゴリラという野性味あふれる単語。


(間違いなく、機動救難士だ。現役ではないようだが)


「ああっ!」

「どうかした?」


 急に海優という男の子が、沖を指差して叫んだ。

 その方向を見た伊佐は心臓が大きく跳ねた。男の子をもう一度振り返ると、さした指は伊佐が見たものをとらえている。


(まさか、見えるのか!)


「うみの神さまだって」

「えっ?」


 目を輝かせて海優は確かにそう言った。伊佐はもう一度、沖を振り返った。波の飛沫を飛ばしながら、その姿が見え隠れする。跳ね上げた尾っぽは大きな鱗がキラキラと光り、再び海に消えたと思った瞬間、長くて大きな体が海面に立ち上がった。


(ワダツミ……!)


 美しい南国の淡いブルーの水の中から、青とも緑とも言えない色の海獣がこちらを見ている。立ち上がった勢いで大粒の滴が弾け飛んだ。もちろんその滴は浜までは届かない。いや、こちら側にいる人間にはあの光景が見えていないのだ。

 伊佐は大人になってからは綿津見ワダツミを見たのは初めてだ。まさかここで、綿津見の全容を見るとは思わなかった。


「うみには神さまがいてね、ボクたちのことを見ているんだよ」

「海の神様を知っているのかい? 見たことあるのかな?」

「うん。ほらあそこ!」


(やはり、見えているのか。怖がらないんだな)


「でも、お父さんもお母さんも見えないんだって。すごくかっこいいのに。あのね、リュウみたいに長くてね、おヒゲがびょーんて……おじちゃん、信じてくれる?」

「あ、ああ。羨ましいな、海の神様が見えるなんて。そうだ、その神様の名前はねワダツミっていうんだ」

「ワダツミ⁉︎」


 海優は嬉しそうにワダツミに向かって大きく手を振った。「おーい、おーい」と何度も叫ぶ。

 するとワダツミはその呼びかけに答えるように、大きく口を開けた。


「かいちゃーん、お水のんでって、せんせいが言ってるよー!」

「はーい」


 そして、海優は友達に呼ばれて戻っていった。


(ワダツミが見えるのは俺だけじゃなかったのか……)


 伊佐は海優の背中を見送って、再び沖を見た。

 ワダツミは長い髭を宙で泳がせながら、今もじっとこちらを見ている。伊佐はその視線をただ受け止めた。

 目を逸らしてはいけない気がしたからだ。


(あの日の、約束は忘れていない。こうして海上保安官として石垣に来た。俺はあなたのことを忘れていない。日本の海は俺が守る)


 伊佐が何度か瞬きをしたそのあと、気づくと目の前にワダツミが迫っていた。音もなく、波もたてずにグンと近づいて伊佐の顔を見ていた。

 綿津見の長い髭がひらりと泳いで、伊佐の後頭部を掠めた。


「っ!」


 そして、霧となって消えた。


 ひんやりとした感覚を首筋に残して……。




 ◇



「監理官……伊佐監理官?」

「は、はい!」


 伊佐を現実に引き戻したのは、主計長の我如古かねこレナだった。

 伊佐が慌てて振り向くと、レナは怪訝そうな顔をして近づいてきた。彼女の背丈は伊佐より少し低いくらいで、一般女性よりは高い。視線は伊佐とほとんど変わらなかった。


「どうかしました? 監理官。なんだかぼんやりしていましたけど。着任してすぐにビーチクリーンは、過酷ですよね。休まれます?」

「あ、いや。すみません大丈夫です。海が……海があまりにも美しかったので、つい。実家の海とはやはり違いますね」

「監理官は関東の方でしたね」

「伊佐でいいですよ。あまり堅いのは苦手です」

「じゃあ、伊佐さんと呼ばせていただきます」

「よろしくお願いします。我如古さん」

「あ、レナでいいですよ。みんなそう呼んでますし。我如古は堅苦しくて嫌です」

「なるほど」


 我如古レナ。巡視船かみしまの主計長として乗務してもらうことになっている。主計長は企業で言えば総務や経理、庶務を務める科にあたる。海上保安庁ではこれらに加え、船内調理と看護の業務があり、なかなか多忙な科である。

 レナは調理師免許はもちろん、救命士の資格も保有し、英語も操る優秀な保安官の一人だ。

 彼女のこれまでの活躍は、伊佐の頭にしっかりと入っている。

 彼女の語学のお陰で、外国船の立入検査や事故などの救難活動がスムーズに行われていた。常に現場は人手不足のため業務管轄を越えて、いろいろな任務にあたっている。


 第十一管区が担任する水域は、中国と台湾と接続しているため漁場争いで衝突することもある。また、違法操業もたびたび行われているため、海上保安庁は国民の安全だけでなく、貴重な日本の資源を詐取されないよう昼夜監視を行なっている。

 そして、近年いちばんの懸念は尖閣諸島周辺の動きだ。


「なんでしたら、私も伊佐さんのこと名前で呼びますよ。えっと……渚さん、でしたよね」

「私の名前は、よく女性と間違えられるんであまり……」

「あー、なるほど。あはは」


 我如古レナの見た目は手脚の長いモデルだ。瞳の色はグレーに近いブルー。日焼けのせいか頬にそばかすが少しある。髪は母親譲りか、艶のある黒髪だ。


「とりあえず、伊佐でお願いします」

「りょうかいでーす」


 彼女の性格はサッパリしているようだ。




 ワダツミは伊佐になにを言いに来たのか。

 今日見たワダツミと、子供のときに見たワダツミはなんら変わりはなかった。

 あのとき、伊佐は海の中でワダツミに抱かれ、海を守ると約束をした。

 あれは夢ではなかったのだと、伊佐はようやく受け入れる気になった。


 いや、受け入れざる得ないのだ。

 その首筋に残る感触が、あらがうことのできない証拠なのだから。

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