5限目

永瀬鞠

 


「失礼します」

「はいはい、帰れ」


扉を開けて保健室に踏み込んだ一歩目で、こちらをちらりと見た先生に一蹴された。


2つあるベッドのカーテンはどちらも開いていて、ほかに誰もいないのだとわかった。よかった、と思いながら扉を閉める。


「本当に具合悪いかもしれないよ」

「具合悪そうな要素が見当たらないから言ったんだよ」


先生は机に向かって何かを書いていた。


2週間ぶりの先生の横顔を数秒間だけこっそり見つめてから、先生に近いほう、先生の真後ろに置いてあるベッドに向かう。


その途中、振り返った先生と目が合った。


「授業は?」

「自習になったから抜けてきた」

「ああ……じゃあいいか」


真面目な顔でそう言う先生に、思わず頬が緩む。


ベッドに腰かけて、ふと窓の外に目を向けると、校舎のわきに植えられている銀杏が黄色に色づき始めていた。


それを見てあたしと先生が初めて会ってからもうひとつ季節が過ぎたのだと気づく。


まだ高校に馴染めていなかった春の終わり、授業中におなかが痛くなって少し迷いながら保健室に来たのが最初。


―――あのころ、あたしのお母さんが水商売をしているとか、あたしが援交をしているという噂が校内でたっていた。学年主任にも呼び出される始末。


お母さんが水商売をしているのは事実だけど、あたしの援交はいったいどこからきたんだろう。伝わる間に尾ひれがついたんだろうか。


『噂ってすごいよねぇ』


2度目か3度目に保健室に来た時そうこぼしたあたしに先生は、『人の噂大好きさ加減なめんなよ』と笑ったあと、『やってないんだろ?』と確認するようにあたしを見て、『やってないよ』と答えると、『ならいい』とだけ言った。


今日と同じような適当さでこぼされたその言葉に、なぜかひどく安心したのを覚えている。


それから何かにつけてここに来るあたしを、先生はめんどうくさそうな態度をとりながらも追い返しはしなかった。


天然パーマらしい先生の少しうねった髪が、窓から入りこんだ風に柔らかく揺れる。


後ろ姿をぼうっと眺めていたら、黙り込んだあたしを不思議に思ったのか、先生が振り返ってあたしを見た。


「なに」

「なんでもないです」

「あっそ」

「……先生の頭わしゃわしゃしてもいい?」

「いいわけないだろ」


先生は机に向き直って、再び手を動かし始める。


仕事の邪魔をしていることを自覚しつつも、交わった視線が外れたのを寂しいと思った直後。


「おまえはいいね、きれいなストレートで」


先生はなんでもないような口調でさらりと言った。


それは先生が自分の天パを厄介なものだと思っている気持ちから純粋に発せられた言葉なのかもしれないけれど、こっちはそんなたった一言に鼓動が鳴って、舞い上がるほど嬉しくなる。


「あたしは先生の髪すきだよ」

「そりゃどーも」

「ほんとだよ」

「はいはい」


視線を落とすと、宙に揺れる自分の足が目に入る。


足に馴染んでいる茶色のローファーは、母が高校入学祝いだとプレゼントしてくれたもので、欲しいなんて一言も言わなかったはずなのにあたしが欲しかったブランドのものだった。


いつだってあたしのことをよく見ていてくれて、あたしを育てるために頑張って働いてくれているお母さんは、誰が何と言おうとあたしから見ればすごくいい母だ。


だから何を言われても、あからさまに避けられても、割と平気だった。


だけど。


「前にあたしをわかってくれるのは先生だけだって言ったら、そんなことないって言ってくれたでしょ」


いつだったか弱気になって、先生にそう言ってしまったことがある。


「あー、そんなことあったっけ?」


嘘。本当はきっと覚えている。先生はそういう人だ。


『この学校であたしのことわかってくれるの先生だけだよ』

『そんなことねーよ』

『そんなことあるよ』

『この高校の保健室の中では、だろ?』

『それ、あたしと先生しかいないじゃん』

『そうだな』


「ほんとだった」


水商売を汚いと言う同級生たちをこどもだなと思っていたけれど、あたしも彼らと同じようにこどもだった。とても狭い世界しか見えていなかった。


気にしないようにと気をつけて、無意識に周りとの間に自分で壁を作って、強がって生きていた。今だからわかる。


噂なんてちっとも気にしないで関わってくれる今の友人たちを、当時のあたしは見ていなかった。彼女たちがそんな人だと知らなかった。知ろうともしなかった。


「よかったな」

「うん」

「友達できたんなら教室戻れよ」

「それとこれとは別問題だもん」


先生の手の動きに合わせて、わずかに動く白い背中とくせ毛の黒髪。ずっと見ていられるとも思う先生の後ろ姿を見つめる。


「ねえ、先生」

「んー」

「こっち見て」


その大きな背中に小さく投げかけると、先生は手を止めた。


「見てるよ」


そしてあたしに背を向けたまま、ぽつりと答えた。


「……ほんと?」


問えば、さっきより少しだけ力強い声が返ってくる。


「ほんと」


じゃあ、いいや。今はそれだけで。


視線を動かして壁に掛かっている時計を見ると、チャイムが鳴るまであと10分と少し。


後ろに身体を倒して、ベッドに横向きになった。


薄く雲がかかった水色の空をぼんやりと視界に入れた後、ゆっくりと目を閉じる。


先生がペンを走らせる音がかすかに耳に響く。


体育の授業らしき声と笛が遠くから聞こえた。


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