アイギョウ雨

猫に鬼灯

アイギョウ雨

 切っ掛けが何かは全くもって思い出せないのだが、気付いた時には雨天が一等に好きな天気だった。幼い頃は特にその想いが強く、多数意見と違うを排除する力が強い年頃の時は他の子等からイベントが無くなるから嫌いだの変わっているだのと散々に言われた時には、己の好きを馬鹿にされた事に腹を立てた子供の俺は、理不尽にも大人から説教を喰らう程までに感情に任せ猛烈に反言することもあった程だった。理由は分からない、一方の想いであったとしても只管に好きなのだ。しかしどうした事か、心酔するほど好きな筈の雨天が最近では少々嫌いになりつつある。馬鹿にされたら目くじらを立てる奴が何を吐かしているんだという話なのだが、そうなってしまった理由はどうした事かしっかりとあるのだ。


 人間誰しも好きな物に対してこだわりがあるだろう。俺も雨に対してこだわりがあるのだが、対人間などでよく耳にする好きな人にはこうであって欲しいという感覚に似た強いエゴを持ち合わせており、如何せんそれが自分でも面倒な奴だと思うほどに細かいのだ。先ずは雨を語る上で大切な雨量、多くはなくかと言って少なすぎず傘で雨粒を弾くと心地の良い音を奏でる程度の雨量が好みで、そのぐらいの雨量だと室内で聴いていて心地の良い眠気を誘ってくれるので大変に好ましい。次いで風は、強すぎて服を濡らしてしまうのは以ての外で無風過ぎるのも頂けない、雨特有の匂いが混ざり冷気を帯びていて撫ぜる程度のものが良い。最後に湿度は、あまり無い方が良いのだがそれでは雨特有の芳しい匂いが消えてしまうので、しっとりとしている程度のもの。この三条件が揃っている雨こそ一等良いのだと俺は思っている。


 その三条件が揃った雨は幼少の頃こそよく遭遇したが、ここ最近ではとんと出会わなくなくなってしまった。その原因が単なる気候の気紛れによるものなのか、或いは俺を含めた人間のせいなのかは分からない。雨量は霧雨か土砂降りかの二択、風もまた呆気なく傘が壊してしまう程の強いものか冷気すらも含まない無風かの極端な二択だし、湿気に至っては滴る程の濡れタオルが連想されるぐらいにジメジメとしている。こうも抱いたこだわり、描いた理想とは程遠い雨にばかりによく遭遇するものだから、悲しい哉幼い頃に雨が好きだと言った俺を馬鹿にしてきた彼らと似た気持ちを、欠片ほどでも持ち始めてしまった。








 本日は見事なまでの曇天にしてはやけに奇っ怪な天気。少しだけ焼けてしまったレースカーテンを開いて外を見ると、すぐ真上の空には鈍色で今にも雨が降り出しそうな雲がどっしりとした見た目とは裏腹に軽々と浮かんでいる。だが、少し奥にある空は鮮やかな白縹色に染まっていて、何処よりもうんと明るいせいか広い範囲渡ってに極光みたいな薄明光線が降り注いでいる。右に目を向けると真っ白な雲が満遍なく敷き詰まっているが若干白縹が見える薄い雲がちらほらと見えている。最後に左を見やれば光一つ通さない真っ黒な雲から細すぎる白線が何千にも重なって途切れること無く空から降り注いでいた。


 曖昧な空模様に首を傾げつつレースカーテンを閉める。一体この天気を何と表現して良い物やら分からず、どの天気に当て嵌まるかなんて素人目線ではどう頭を捻ったって解決できないので、床に転がっていたリモコンを手に取って適当にザッピングをする。


「・・・曇り一時雨、雨はパラつく程度ですので折り畳み傘を持って・・・。」


 プツッ


「・・・雨時々曇り、雨が強く降る地域もあるのでしっかりした傘を・・・。」


 プツッ


「・・・曇り、厚い雲に覆われますが、一部地域では晴れ間が見られるので傘は必要ないかも・・・。」


 画面いっぱいに映る、目に痛い程のビタミンカラーと跳ね返すほどに不自然な白が特徴的な朝のニュース番組は、頃合いだったのか何処も定期的に訪れる天気予報が流れていた。普段であれば多少の差はあれど似たり寄ったりな予報ばかりなのだが、今日ばかりはどこも意見が違うらしい。あくまでも予想の産物であり当たるも八卦当たらぬも八卦なのは分かってはいるが、こうもばらつきが目立つと何処の情報を参考にして外へ出るべきか少々悩みどころである。最近煩わしく思えてしまう傘を持つか、柔軟に対応できる折り畳み傘を鞄に突っ込むか、どちらも面倒なので思い切って傘を持たずに出るか。


 たかが天気相手に傘を持つか持たぬべきを長考していると、総天然色のテレビから時刻を告げる声が聞こえる。あと少しで出なければいけない時間になっていた。結局は柔軟に対応できる折り畳み傘を雑に鞄に突っ込んで、重く立ちはだかる玄関の扉を開けた。


 一歩外へ踏み出すと、毎年決まって訪れる時節による高い気温と濡れ手で遠慮なく触られているような濃い湿気、冷涼感の欠片もない熱を帯びた風が容赦無く襲いかかってきた。気温と湿気が綯交ぜになっている粘ついた空気は、吸い込んで仕舞えば地上で溺死できるぐらいに肺腑が圧迫されるような苦しさがあり、本来であれば一等嫌いなはずの刺し殺すようなカラリとした炎天下の晴れ模様がとても恋しくなってしまう。そんな中で熱を帯びた風を受ければ、更に暑さを感じとってしまい不快の二文字以外に言葉はなかった。


 着慣れているスーツは徐々に湿気を取り込んでしまい平生よりも重く感じる。少しでも涼しさを求めようとした体は汗を作りだし次々と体から溢れ出したが、湿度の高い空気の中では上手く蒸発できずに、べたりと体に纏わりついて別の不快感を生み出した。許されるのなら踵を返して帰りたい、だが悪天候につきお休みしますだなんてどこかの国の王様でもあるまいしできる訳が無いので、渋々空気に首を締め付けられ風に全身を殴られながら会社へ向かった。








 うまく膨らんでいるように感ぜられない肺腑に無理矢理空気を送りつつ歩くと、道を進むほどに綺麗にした身形は本日の気候によって乱されていく。整髪剤で整えた癖っ毛はクルクルと元の形に戻り、湿気を取り込んでしまったスーツは次第に水と汗の匂いが混ざり不可抗力で嫌な匂いが発生してしまう。そんな自分の状況を他人に悟られたくなかった俺は、周囲の人に向かって頼むから気付いてくれるなと届きもしない願いを乞うた。


 しかし願わずとも誰も俺のことは気にも留めてはおらず、寧ろ他の人等も同じ様にこの名状し難い天気に苦しめられていた。時間をかけ自分の為に着飾ったであろう女性は想像を超えた湿気によって崩された髪に落胆し、逃げ場のない暑さに苦しむ恰幅の良い男性はハンドタオルで仕切りに汗を拭き、傘を持たぬ学生は鈍色の空をチロチロと不安げに見上げ、強風に揉みくちゃにされる小学生は転びそうになりながらも力強く足を動かして学校に向かっている。


 刹那、腕が何かを掠める。同時に俺の右背後から濡れネズミの自転車乗りが颯として現れた。恐らく何か別の事で頭が一杯になり、つい余所見をして仕舞いあわや僕を轢きそうになり掠ったのだろう。もしも自転車乗りが俺に気づかなかったらと肝が冷えたがそれは自転車乗りも同じ、いいや俺以上に重く受け止めたらしく、彼はすぐ近くに止まり自転車に乗ったままドリンキングバードよろしく何度も頭を下げてきた。大丈夫だという意思を伝えるため軽く手を挙げて一度だけ頭を浅く下げると、再度深く頭を下げて俺から視線を外し自転車に乗ったまま顔をタオルで拭き始めた。ずぶ濡れで気持ち悪かったのだろう。


 お気を付けてと心で投げかけて自転車乗りと別れる。大惨事を免れ一安心したのも束の間、暫く歩くと旋毛にトンッと軽くて大きい粒が当たる。チラと空の機嫌を伺えば、あの光一つ通さない真っ黒な雲が頭上に浮かんでいた。ここまで流れ着いたらしい。幾重にも重なる細い白線を思い出し、鞄に無造作に突っ込んだ折り畳み傘を取り出して慌てて広げると、瞬きが終わらないうちにバケツでもひっくり返した様な雨が降ってきた。傘を広げるのには間に合ったので濡れる事は無かったかの様に思えたが、先刻より吹きつける強い風のおかげで傘なんぞ顔から胸元と鞄を守れたら御の字ぐらいの効果しか発揮せず、胸から下はすっかり濡れて了い、足元に至ってはは滴るほどまでの水浸しになった。


 折り畳み傘なので多少の犠牲はしょうがない、ただ問題はオフィスに着いた後だ。濡れた服を乾かす機械なんて置いている訳ないし、着替えも持って来ていない。


---一日中濡れっぱなしは困るなぁ。はぁて、どうしたものか。---


 益々帰りたくなる憂鬱感に苛まれてしまいそうになり、ため息を漏らして何も考えずに黙々と歩く事だけに努めた。








 まだ寝る時間では無いけどベットに潜って掛け布団を頭まですっぽりと被る。目を力一杯強く瞑って、手を使って耳を痛くなるぐらいに塞いでしまう。お外の音が絶対に入らない様に、ちょっと暑いけどそれから逃げるにはこうするしか無い。真っ暗な視界、ザァザァと何かが流れる音とドクドク動く心臓の音だけが聞こえる。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」


 ひたすらに言い聞かせて息を潜める。しかしアイツはぼくの事を馬鹿にするかの様に、隙間無く塞いだ耳の隙間からその音を蹴り込ませてくる。大きな動物が出す唸り声よりもうんと大きくて鋭く、近くなれば大きな風船が割れてしっまったような音を出す、ゴロゴロ様だ。


 雨は嫌いだ、偶にだけどゴロゴロ様を連れてくるから。「くるなくるな」とどれだけお願いしても雨は必ずやってくるし、ゴロゴロ様もいるときは大きな声でぼくを怖がらせる。そして今もお外の音はどんどん大きくなって、掛け布団も押さえつける耳もあんまり役に立っていない。ぼくはただ小さくなってヤツラが過ぎ去るのを待つしかないのだ。


「いなくなれ、いなくなれ。」


 ひたすらに祈っていると、強く瞑る目の隙間から薄らと光が見えて被っていた布団がばさりと宙を舞う。そろそろと目を開くと、不思議そうにぼくを見るお母さんが布団片手に立っていた。


 ドォンッと遠くでまた一つお空が唸る。びっくりして縮こまるぼくを見たお母さんは、ベットの端に座るとにっこり笑って両手を広げた。目を強く瞑りすぎたせいで少しだけボヤけた視界でそれをみたぼくは、飛ぶように起き上がってお母さんに抱きつくと流れる様な仕草で暖かな腕がぼくを包んだ。遠くから聞こえるゴロゴロ様と天井から聞こえる雨の音はあれほどまでに怖いと思っていた筈なのに、すぐ近くから聞こえる緩やかな心臓音のおかげで少しだって怖くなくなった。


 安心したぼくは今度は目を弱く瞑って、何も考えずに腕の暖かさ感じながらぼんやりとしていた。するとお母さんが突然「あっ」と嬉しそうな声を出した。何だろうとその声につられて顔を上げると、雨とゴロゴロ様がまだいるのにも関わらずお外が晴れている時と同じぐらいに明るくなっていた。不思議に思って「あれなぁに」と問うとお母さんはぼくを抱えたまま窓に向かった。ほら、と短く言って空を見つめ出したお母さんに倣ってぼくも空を見る。そこには青いお空から雨が降ってくるという不思議な景色があった。まだまだ遠くでは鋭い唸り声が聞こえるのを気にせずに、キラキラと輝く雨をぼくはただじぃっと見つめた。








 何も考えていなかった筈だが、俺の頭の隅っこにあったらしい最古の記憶が目を醒まして長く脳内上映されていたようだ。気づいた時には、通勤で使う鈍行電車の壁に凭れ立っていた。改札を通り抜け、階段を使ってホームに行き、毎日使用する電車に間違う事なく乗ったという記憶が朧げだ。慣れとは凄いものだ、目的の駅まで辿り着こうとして無意識でも体が勝手に動くのだから。窓の外に目をやると未だに雨が降るものの、先刻よりも遥かに勢いの無い雨が降っている。その下で傘を開けば軽快で可愛らしい雨音が楽しめるだろう。


 今まで埃被って動かなくなっていたらしいあの記憶は、雨が好きになった理由のものであった。そうだ、きっかけはあの時に母と一緒に見た日照り雨だ。無色透明の水が光を受けたことで、破れたガラス片の様に輝く様を見て好きになったのだ。あれ以来、嫌いだった雷もころっと平気になったし一度雨が降れば窓にへばりついて飽きる事なく外を眺め続け、酷いとよっぽどの事がない限り窓から離れないなんてこともあった。母の持ち合わせる時間に余裕があれば、雨の中を散歩したこともあったっけ。・・・屹度彼女も雨が好きなのだろう。


 無条件に雨が降るだけでも好きだったんだ。しかし歳を重ねるにつれて俺は、好きな雨に対して無礼にも勝手な理想を描いてこだわりを押し付けたのだ。何が降る雨の量だ、何が冷気を纏った風だ。湿気なんて雨を語る上での必需品で芳しい匂いの素だというのに、無ければ無い方が良いだなんて何様のつもりなんだろう。


 遠い日の思い出に浸りながら自己嫌悪に深く落ち込んでいると、会社の最寄り駅到着のアナウンスが電車内に流れる。降車するとそこもやはり、高い気温と濃い湿気と粘り気のある風に支配されていた。その中を誰も彼も浮かない顔して其々の目的地へ足を運んでおり、俺もそこの一員に加わった。駅の出入り口で傘を開き、いつも以上に距離を空けてゆっくりと人混みの中を歩く。雨の量はあんなにも拘っていた条件の一つに合致していて、「これがいいんだろうお前は」と責められている気になった。


 勤め人が多く歩く道を少しだけ進むと俺はその流れから外れて、少しだけ狭い静まり返っているシャッター街に入った。ここを通勤に使うには遠回りになるのだが、人混みを避けるのにはもってこいの場所なので甚く気にいっている道なのだ。似た様な考えのものが何人かいるらしく、俺の前には三人の男性と二人の女性が無感情に歩いていた。








 随分と静かになった雨は、耳痛い静けさが支配するシャッター街に並ぶ建物を打楽器に見立てて音を出したり、経年によりへこんでしまったコンクリートを使って自らの体を使って音を鳴らしたりと好きなように落っこちる。足元を掬う様な強い風も、ここでは鳴りを潜めてしまい緩く頬を通りすぎる。シャッター街に響く雨音の合奏と両手で余る人数が奏でる革靴の合唱はここいら一帯の寂しさをより強調し、空気感に同調した俺もそこをひっそりと歩いて行く。バケツを返したような雨のせいで水を多く含んだスーツはやけにずっしりとしており、特に足は一歩踏みだす度に耳触りの悪い音を立てる。濡れて鉛の様に重たい、暑くてたまらないのにとても寒い。 


 シャッター街の真ん中ほどまで歩いた頃、全ての色に灰色ががっていた景色が鮮やかな色にじわりと変わっていく。とは言えこの寂れた場所ではどれほど鮮やかに映ったとしても、殆どが掠れて錆び付いているので表立つ程の華やかさは丸でない。晴れたのかなと一瞬だけ思ったが、俺が差す折り畳み傘からは依然ボタボタと大きな雨音が聞こえてくる。


 覚えのある感覚は俺の体に弱い雷を打ち込んだ。まさかそんなはずはないと俄には信じられず思わず歩みを止めた。だってあの雨は遭遇する方が難しい天気公演なのだ、しかし今、一番古い記憶と全く同じの晴れみたいな明るさの中でしっかりと雨が降り続いている。狐にでも摘まれたような気分で、頭をすっぽりと隠してしまうほどに深く差していた傘を傾けて空を仰いだ。


 黒と灰の影が落ちる分厚い白雲が疎らに散らかる空に、ポッカリと姿を見せたみ空色。雨の正体は散っている雲からのものだが、じわりと流れ込んだ光はそのみ空色からのものだろう。雲から未だ途切れることなく落ちてくる水滴。彼らは流れ込んでいる光を飲み込むだけ飲み込んで了うと、ただの無職透明だった己の身をプリズム色に変え、一級品と謳われるどんな宝石よりも美しく輝いて見えた。色を纏った水滴の落ちる様はやけに鋭くて硝子片にでも化けたみたく、地面に落ちて仕舞えば割れることなくそこらに転がり、傘に落ちれば簡単に布を引き裂いて人の体に深々と突き刺さり、勿体無くもプリズム色のその身を鉄赤色に染め上げてしまいそうに見えた。


---こんなにも美しい物が突き刺さるのならそれも本望だ。---


 今以上に濡れてしまうのも厭わず空いている左手を傘の屋根の外へ。一つだけガラス片を手に取ると、パツンと弾けて無色透明ただの水に戻ってしまった。名残惜しく掌にある水滴を拇指で撫でると、小さな水滴は俺の手に広がり存在すらも無くなって了った。


 出勤時間のことをすっかり忘れ幼い頃のように日照り雨の空をじっと眺める。俺の左手は未だに傘の外に放ってガラス片を受け止め、手に落ちたガラス片達は雨水に姿を戻してゆく。掌に溜まった雨水は、皮膚を突き破って溢れる血液の様に地面に向かって再び落ちてしまう。気が済むまで手で雨を受け止めると、ふるい落とさず包む様に雨水を握り締める。往来の真ん中だというのを気にせずに平生人と話す時ぐらいの音量で奇っ怪な空に向かって


「すまなかった。」


 一言だけを伝えてまた前を向いた。

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