第3話 目覚める
九月八日。
天記は夢を見た。
背の高い男が、横たわっている自分に向かって何かを語りかけている様子だった。けれど、何を話しているのかも、暗くてそれが誰なのかもわからなった。
開け放たれた部屋の窓から、そよそよと心地よい風が吹き込んでくる。とても懐かしい、優しい風の匂いがした。
「はっくしょんっ!」
くしゃみをして目が覚めた。
夢は夢。
天記は、夢というものに意味があるかどうかなどということには関心がない。くしゃみをしたその一瞬で、夢見たことはすっかり忘れてしまっていた。むしろ、この後起きる出来事で、思い出すのも難しいくらいになってしまった。
昨夜は暑くて、どうやら窓を開けたまま寝てしまったようだ。寝る前にはベッドの上にあったはずの肌掛け布団が、いつの間にか床に落ちている。天記は、上体を起こして布団を拾おうと手を伸ばした。そして次の瞬間、天記はあり得ないものを目にした。
今、自分の目に映っているものは現実なのか?
目は開いている。決して夢の続きではない。自分の部屋のいつもの景色に、見えるはずのないものがあった。
十二年間の人生で初めて目にする、それは妖怪か化け物か、それともモンスターとでも言うべきものか。
毛むくじゃらで一つ目のクマのようなものが、大きな口でニヤリと笑っている。
小さくてコロコロした緑色の丸いものが無数にポンポン飛び跳ね、細長くて白い餅のようなものは、尺取り虫のごとく床を這っていた。
かと思うと、長い髪の青白い顔をした女が、黒い着物を身にまとい天記のベッドの足元に正座してこちらを見つめている。
「わーっ!」
天記は思わず大声をあげて布団を頭からかぶった。ぎゅっと目をつむり、これが夢であるなら早く覚めてほしいと願った。
数秒して、トントントンと階段を駆け上がる音が聞こえてきた。その音は天記の部屋の前で止まり、それから勢いよくドアが開いた。
「どーしたの?大きい声出して」
朝食を作っている途中だったのか、真記がおたまを片手に入ってきた。ベッドの上にうずくまる天記を見つけると、頭からかぶっている布団を容赦なくめくる。
天記は目をつむったまま、部屋のあちこちを指さして、見て見てと訴えたがしばらくしても反応がない。
「いったいなんなの?」
真記が冷静な口調で言うものだから、恐る恐る目を開けた。しかし、そこにはいつもと同じ景色があった。
さっき見たものはなんだったのか。部屋の中をキョロキョロ見回す天記に、変な子とつぶやきながら真紀は部屋を出ていった。
やっぱり夢だったのか、それにしてはあまりにもはっきりとしていた。気になって仕方がなかったが、その日はそんなことに構っていられない大事なイベントがあった。
岳斗、希々、天記、他に道場の仲間も参加する剣道の試合である。
天記は、今見たものをとりあえず頭から振り払った。
* * * * *
一年間に幾つも試合はあるのだが、今年は出場する試合のほぼ全てで、天記と岳斗のチームが優勝している。
特に岳斗は強い。五年生になった頃から個人戦では負け知らずだ。なので、二宮岳斗といえば、知らないものがいないほど剣道の試合では有名であった。
天記はというと、決して弱いわけではない。個人戦なら、たいがいベスト8以内に入るくらいの実力は持っている。だが、岳斗と対戦することになれば、まずその時点で負けてしまうし、運よく決勝まで残っても、結局岳斗に当たることになるのだ。
今日は地方の小さな大会だが、結構な強豪が集まってくる予定だ。
それでもたぶん、岳斗が優勝するんだろうな、と岳斗と同じ学年でいることを、この時ばかりは不運だと感じる天記だった。
会場は、市の武道館の大道場。
今日の試合は、一・二年生、三・四年生、五・六年生と三部門に分かれて行われ、それぞれ八十人位が参加する。全ての試合が終わるのに、夕方までかかる予定だ。
開会式が終わるとすぐ、一・二年生の部からはじまった。
岳斗と天記は並んで、同じ道場の一年生の試合を応援していた。小さな子供達の、甲高い気合いの声を耳にしながら、必死に打ち合う動きに視線の先を移動させる。
ふと、横に立つ天記の顔を見ることなく岳斗が声をかけてきた。
「今日は個人戦ですから、天記さんも敵ですよ。この組み合わせだと、決勝までいかないと天記さんとは当たりませんね。ま、せいぜい頑張ってください」
敬語で話すくせに、かなり上からものを言う岳斗にカチンときて、天記は眉をひそめた。
「待ってろよ!ぜったい決勝までいってやるからな」
「おや?ヤル気ですね。いいですよ、決勝までこられても優勝は俺のものです。そう言えば、今日は天記さんお誕生日ですね。おめでとうございます。今のうちに言っておきます。俺が優勝したら、おめでとうは俺に対する言葉になりますからね」
まったく口が減らない。
普段は、めったに腹を立てたりすることのない、おだやかな性格の天記なのだが、なぜか今日はやけに気が立った。
「ぜったいに勝ってやる!」
そう言って岳斗をにらんだ時、なぜか岳斗が驚いた顔をして天記を見た。
試合は低学年から順調に進み、男女別に行われる高学年の試合では、五年生である希々が女子の部で準優勝した。
しかし、希々は全く喜んではいなかった。
「ヤーマーダーッ!デカすぎんだよ。ぜんっぜん面に届かない!」
協和会道場の
「デカイのになんであんなに動きが早いのよ。もうっ!」
これは家に帰ったら荒れる。きっと大荒れだ。岳斗も天記も同じ道場の仲間たちも皆、希々の性格をよく理解している。
この状況で希々に話しかける者は誰もいない。たとえ準優勝だとしても、おめでとうすら言えないほどの、恐ろしく重い空気を感じていた。
そうこうしているうち、高学年男子の試合が始まった。一試合目、二試合目と、岳斗も天記も順調に勝ち上がっていく。途中、天記は強豪チーム協和会道場の大将、
「お兄ちゃん、よくやった!」
希々は少し気が晴れた様子で、うれしそうに天記の頭をぐりぐりと撫でた。
* * * * *
決勝戦。
結局、岳斗も天記も勝ち残って、二人はそろって大舞台に立った。
試合会場には、勝敗を見届けようとする人たちが大勢集まってきて、決勝戦のコートを囲むように座って見ている。
三人の審判員がコート内に入り、紅白の旗を持ってそれぞれの立ち位置に着いた。
天記の背中には紅のタスキ、岳斗の背中には白のタスキ、審判の正確な判断で勝敗は決まる。
コートの外側で出番を待っていた岳斗と天記が、主審に促されコート内に入る。すると、それまでざわついていた観客が鎮まり、空気がピンと張り詰めた。
礼をして竹刀を構え、
天記は、岳斗の顔をぐっと睨んだ。
天記は全身に鳥肌が立つのを感じた。背筋がゾクゾクし、竹刀を持つ手に異常なほど力が入った。
「始め!」
主審の掛け声で立ち上がり、二人が気合を出すと、コートを囲む観客が、応援のための大きな拍手の音を響かせた。
互いが互いを知り尽くしている。
得意な技も、間合いの取り方も、癖すら知り合った仲だ。どのタイミングで仕掛けてくるのかも解っているから、二人とも全く動くことができないでいた。
静まり返った会場に、カチャカチャと剣先が触れ合う音だけが響く。
しばらくして、仕掛けたのは天記のほうだった。今日の天記には、なぜか自信があった。いつもなら、岳斗に対して真正面から向かっていくような無謀な真似はけっしてしない。天記よりずっと早く、強く、鋭い岳斗の打ちには歯が立たないことを、身をもって知っているからだ。
しかし、天記は何のためらいもなく、まっすぐに岳斗の面を目指して竹刀を振った。
届いた!と思った。
けれど、岳斗の反応が一瞬早かった。天記の打ち込みを見抜いた岳斗は、正眼に構えたまま動かなかった。岳斗の竹刀は天記の胸元にぐっと入り、押されて天記の技は一本にはならなかった。
すぐに間合いを取りもう一度面を打ったが、打ちが浅く有効な打突にはならなかった。
攻防の末、二分の試合時間が終わり、延長戦で決着をつけることとなった。延長戦は時間無制限で、先に一本取った方が勝者となる。
二人は急に打ち合いを激しくさせた。お互いの隙をねらう作戦だ。岳斗が容赦なく打ち続け、天記も負けまいと必死に応じて打つ。
小手、面、引き胴、そしてまた面。タイミングを計って面のすぐ後に体当たり。
天記は、出せる技をこれでもかと出し続けた。しかし、反対に岳斗の力に押され、天記は後ろに飛ばされて尻もちをついた。
「
主審の掛け声で開始線に戻らなければならないのだが、なぜか天記はすぐに立ち上がることができなかった。
岳斗が気遣い、天記を立たせようと手を伸ばした。天記がその手に気づいて、岳斗の顔を見上げた瞬間、今まで感じたことのない感情が、体の奥底から湧き上がってきた。悔しさで、どんどん体が熱くなってくるのを感じる。頭の中が真っ白になっていった。
天記は岳斗の手を取るこなく立ちあがり、ゆっくりと開始線に立った。
「始め!」
「メーンッ!」
掛け声のかかった瞬間、天記は岳斗に鋭い打ちの面を決めた。
今までの天記には、これほどの面を決めることはできなかっただろう。あまりにも早く、強く、鋭く、重かった。そしてその衝撃に、今度は岳斗の方が大きく尻もちをついた。
「面あり!」
主審の声が響き、紅の旗が三本、パッと上がった。一瞬間が空いて、会場から歓声が上がった。
天記の勝利だ。
岳斗は呆然としていた。尻もちをついたまま、全く動かなかった。面を打たれた衝撃よりも、その瞬間に自分の目で見た天記の姿が、信じられずにいたのだ。
そして天記もまた、自分自身が勝ったことに驚き、手立ち尽くしていた。
なかなか立ち上がろうとしない岳斗を心配し、主審が近づいてきて声をかけた。
「君、大丈夫か?」
その声で、二人は我に返った。
天記は、尻もちをついたままの岳斗を起こそうと手を差し出した。気づいた岳斗も、その手をつかもうとした。しかし、二人はまたしても驚いて、お互いの手をひっこめた。なぜなら、天記の小手の内側が、ボロボロに引き裂かれていたからだった。
二人は一瞬顔を見合わせ、どうしたものかと動きが止まってしまった。
しかし、試合を終わらせないわけにもいかない。天記は気を取り直して、岳斗の腕に手をまわし立ち上がらせた。
開始線に戻り竹刀を構える。
「勝負あり!」
主審が天記に旗を揚げ、試合は終わった。
会場で見ていた人々が次々に声をかけてくる。
「おめでとう」
「おめでとう天記」
しかし、その声は二人の耳には入らなかった。
つづく
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