二.

 ***



「この度は遠路遥々このような場所までご足労頂き、感謝の念に堪えません」

 廃屋に戻り、一通りの確認を済んで後、レイは棕滋から改めて深々と頭を下げられる。

「いや、俺は本当についででついてきただけだから、感謝ならトーヤに……」

「えぇ、もちろん。棠鵺様にも感謝しております」

 言いながら、棕滋は今度は棠鵺に向かってそっと微笑み、同じように頭を下げた。

「いえ、そんな……僕はまだ何もしていないので……」

 そのように頭を下げられるのは畏れ多いと、棠鵺は必死に手を振るが、「そのようなことはありませんよ」と棕滋に制止された。

「貴方がこの狼を連れ戻して下さったこと。それだけでもこの桃李京……いえ、精霊界にとっては本当に有難いことなのです。そもそも、人間界から、わざわざこの折り合いが悪い精霊界まで来て下さった。それがどれだけ幸甚たることであるか……」

 そう述べる棕滋は困ったように眉を顰める。その顔にどこか寂莫としたものを感じるのは何故だろうかと不思議に思いながらも、棠鵺は「いえ、でも……」と口籠った。それ以上を言うのは無粋な気がして、その先の言葉を見失ってしまう。

「なぁ、琅果は、大丈夫なんだよな……?」

 僅かな沈黙を見逃さず、言葉を発したのは颱良だった。颱良は未だ目を覚ますことなくすやすやと眠り続ける琅果の隣で、心配そうにその顔を覗き込む。

「あぁ、本当にただ寝てるだけだからな」

 その質問に答えたのは当然ながらレイだった。

「早くて夜中、遅くても明日の朝には目が覚めるだろ。とはいえ、普段の寝つき具合にもよるから、何とも言えない」

「そうか、なら良いや……」

「ただ、目が覚めた時に暴れることはあるから、それは気を付けないといけないと思うけど」

「暴れる……?」

「さっきも言った通り、本当にただ寝てるだけだ。記憶の書き換えとか、そういうことをしたわけじゃない。アイツ――ランゼと会ったこと自体は覚えてるわけで」

「あぁ、なるほど……」

「起きてから、冷静に話すことができれば良いのですが……」

 二人の会話を聞きながら、棕滋がふとそんなことを漏らす。その言葉に、レイも颱良も、そして棠鵺もまた、静かに頷いた。


 僅かの間を置いて、レイが「それにしても分からないな」と呟いた。「何がですか?」と棕滋が問えば、レイは少し考える素振りを見せた後、ほとんど自分の思考を整理するために訥々と話し始める。

「その、謀叛を起こしたのはお前たち五家、全ての意思だった……んだよな?」

「はい、一応は……もちろん内部で反発もありましたし、納得してない部分もありました。ですから私と颱良くんはこうして此処に居るのですが」

「そうか。まぁ、それはともかく。で、さっきの――ランゼって奴はまだ当主にもなっていないどころか、元服すら終わっていない子供……っつっても、ロウカとは同じくらいではあるわけだが、ともかく子供だろ?」

「そうです」

「分からないのは、何でロウカが他には目もくれず、アイツだけにそこまでの憎悪を持っているのかってところなんだが……」

「それは……」

 棕滋は口を噤む。言うべきかどうか迷っているようでもあった。しかし、そんな彼の考えを知ってか知らずか、颱良が口を開いた。

「爛瀬が、琅果を助けたからだよ」

「助けた?」

「あぁ。当然だけど、俺たちは全員、あの日に皇宮に火の手が上がることを知っていたわけだ。でも琅果だけはそれを知らなかった。それも当然なんだけど」

 知られていたら謀叛なんてできるわけないし、と付け加えつつ、レイ――と、棠鵺――が話についてきていることを確認して、颱良はそのまま言葉を続けた。

「爛瀬は琅果の婚約者だった。いや、公式には今も婚約者ってことになってる。当たり前だけど、琅果はそんなのご破算だって言ってるし、その意思表示として髪もこんな風に切っちまったんだけど」

 曰く、高貴な身分の女性は元服の際に婚約者に自らの鬢を切ってもらうのだそうだ。そしてだからこそ、絶対に嫁になど行くものかという確固たる意思を示すために、鬢以外の部分を自ら切り落としたのが今の琅果の髪形なのだ――と、颱良は寝ている琅果の頭を優しく撫でて言う。


「ともかく、そういう事情もあったし、そうじゃなくても普通に好きだったからな。色々と葛藤があったんだと思うぜ。言うまでもないけどさ。で、謀叛当日、爛瀬は火が放たれると同時に琅果の手を引いて逃げようとした。でも、琅果はそれを許さなかった。なんたって両親がまだ中にいる。それで急いで本殿に向かったが、間に合わなかったんだよ。ギリギリな。上帝も皇后も、あと一歩で助けられたのに、その一歩が届かなかった。二人は琅果の目の前で焼死した。茫然とする琅果を無理やりその場から引き摺って、助けたのが爛瀬だ」

 一度言葉を切って、話している間に棕滋が用意してくれたお茶を啜った。

「俺は、琅果は実は謀叛自体をそこまで恨んでるわけじゃねぇと踏んでる。それも時代の流れ、国民の意思であるのなら受け入れるだけの覚悟を、アイツは昔から持ってるよ。だけど、それを知りながら、自分だけを助けて両親を見殺しにした爛瀬は許せないんだ。自分を助けて良いのなら、二人だって死んだことにして助けてあげられたはずなのに、ってな。もちろんそうはいかないことは分かってるし、まぁ、半分は八つ当たりだよ」

 ははっ――と力なく笑いながら、颱良はそこで言葉を終わらせた。


「なるほどな。琅果側の事情は大体わかった」

 そうは言いつつも、レイはまだ納得がいかないようで、視線を宙に投げる。

「――だが、それなら今になって殺意が湧いてくるのは、随分と遅いんじゃないか?」

 大寒の大火などと言われているだけあって、謀叛自体は立春を迎える前に起こっている。しかし今は既に春分を終え清明に入った時期であり、その間、人間界の暦にして二カ月近く経っているのである。琅果が本当にその時点で彼に対する殺意を抱いていたのなら、その二カ月の間にどうにかすることもできたのではないか――というのがレイの主張だった。


「俺たちが人間界で聞いた話は、千年桜の力が弱ってるから、その治療をしたい。そのためにもトーヤの力が必要で、一緒に来て欲しい、というものだった。ロウカの願いはあくまでも千年桜の延命にあったように思う。だけど、いざ精霊界こっちに来てみれば何やら事情が微妙に違うらしい。もちろん千年桜の治療も目的の一つではあると思うけど。ただ、ここに来てからの短時間で何かがあったようには、少なくとも俺には思えないんだが……」

 何せ、ここに戻って来てから琅果が直接関わった人物というのは椋杜と颱良だけだ。あとは遠巻きにこそこそと何かを言われたり、ただ睨まれたり。とはいえ、本人もそのくらいの覚悟はしていたはずなので、それが原因とも思えない。そもそもそれが原因だとすると、琅果の殺意が真っ直ぐに爛瀬に向く理由が更に分からなくなる。

「あ、でも……」

 と、声を上げたのは棠鵺だった。

「琅果はレイさんが落ちてきた日には、既に人間界に降りてきていましたから、最低でもひと月は人間界で過ごしていたと考えられると思いますよ」

 棠鵺のその言葉に、レイは「それもそうか」と考えを改める。

「それに彼女は、精霊界ここに戻ってくる直前、僕に『嫌いにならないでね』って言ったんです。多分、きっと、あの時点で既に何かしら心に決めていたことはあったんじゃないでしょうか?」

 あぁ、確かに――と、レイは密かに耳に届いていた二人の会話を思い出す。言われてみれば、元々何か隠している様子ではあったし、そういう可能性もないとは言い切れない。だが、元々彼に殺意を持っていたとして、それでもやはり二カ月もの空白があることが気になってしまうのだが。


「その辺は、流石に私たちにも計りかねますが……」

 何せ自分らとてこの二カ月は琅果とほとんど会っていなかった――と、棕滋は語る。

「私が最後に琅果に会ったのは、彼女が爛瀬と彼の父親の前で、自らの髪を切り落とし、啖呵を切った時でした。いえ、その現場にはいませんでしたが、それが起きたのは皇宮ですから、その後に宮中を走り去っていく彼女を見て、それが最後です。あれは、確か……謀叛からちょうど五日が過ぎた辺りでしたか」

「俺も、琅果に会ったのはその辺が最後だな。とすると、啓蟄の頃に人間界に行ったとしても、その前に二十日ほどの空白があるのか。そこで何かがあった……?」

 一同はそこで黙した。しかしそこで今一度、棠鵺が「あれ?」と声を上げる。

「でも、琅果はあの時、春分に儀式を行ってもダメだった――って言ってましたよね?」

 言われてレイは、先日琅果から聞いた話を思い起こす。

「……――あぁ、言ってたな」

 ということは、琅果は少なくともその時期に精霊界に戻っている、ということになる。

「春分の時期……少なくとも俺は、白虎門付近で琅果を見たという話を聞いてない」

「恐らくは椋杜くんも、琅果の姿を見たのはあれ以来・・・・だと思いますよ。今朝方、私に報告に来た彼の反応は、ここ最近に姿を見ている者のそれではありませんでした」

 桃李京に入るためには、四方の門のいずれかを通る必要がある。そして、実質的に門としての機能を果たしていない玄武門は除外するべきである。逆に言えば、それ以外に侵入する手立てはない。下水道を通るか、壁を乗り越えるかすればできないことはないのだが、しかしそれよりも可能性があるのは――

「その時に、朱雀門を通って中に入ってる……?」

 棠鵺のその言葉に、颱良と棕滋は頷いた。

「爛瀬は、そこで琅果と会ってたのか……」

「では、やはりその時に何かがあったと考えるべきでしょうね」

 そこまで思い至って、行き詰まる。流石にその先は本人たちに聞かなければ分からない領域だ。これ以上の憶測は無駄な混乱と先入観を招くとして、一同はこの話を一度保留にした。

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