二.

「琅果が、帰って来た!?」

「そうよー。知らなかったの?」

 翌朝、いつものように登城すれば、「ら~んぜ」と聞き慣れた艶のある声に呼び止められた。振り返ればそこには公主・雪晃の何かを含んだような嬌笑があり、その瞬間に背筋にぞくりとした嫌なものを感じる。眉の上で真っ直ぐに切り揃えられた木蓮色の髪――一部、蒲公英のような色をしているが――によく映える翡翠の瞳には、明らかに悪戯な色が浮かんでいる。できれば関わりたくない。しかし、昔からの古馴染とはいえ、今となっては公主という地位を頂く彼女の言葉を無視することは形式上許されることではなく、爛瀬は恐る恐るその手招きに乗った。


 一階とはいえ懸命に露台から身を乗り出しながら話しかける彼女は、しかし爛瀬に耳打ちをしたいらしく、「もっとこっち寄って」「そこじゃ届かないわ」「耳を貸すの!」などと注文が多い。ああだこうだ言われた末に告げられたのは「琅果、帰って来たわよ」というその一言だった。


「それも、神族と妖族の男を連れて、ですって」

「神族と、妖族……?」

「あら、そっちに反応するのね」

「そっちって?」

って方に反応するかと思ってた」

「別に、そこは……どうでもいいだろ……」

「ふ~ん、そう。そうね、どうでもいいかも。どうせ異種恋愛は禁止だし」

 雪晃はくすくすと笑いながら、頬杖をつく。露台の手すりに、年の頃にしては随分と豊満な乳房がたっぷりと乗っかる。今更目のやり場に困るなどといった仲でないことは互いに承知であり、爛瀬は特にどう反応するでもなく、変わらず雪晃の悪戯な微笑みを見ていた。

「椋杜がね、さっき来て教えてくれたの」

 椋杜、という名前を口にした際の彼女の顔は仄かに色づく。それは何も秘めたる想いなどという可愛らしいものではなく、彼女が幼い頃から公然と口にしていることだ。「椋杜と結婚したい」という想いだけで、霊力による身体強化の応用である肉体改造を主に胸部に使い続けていた――つまり、霊力の無駄遣いを続けていたことは皆、少なくとも仲間内の誰もが理解している。とはいえ、当の椋杜はそんな彼女に目もくれず、心が氷でできているのかと問いたくなるくらいに相手にしていなかったわけだが。


「昨日の騒ぎはそれだったのか……」

 昨晩の轟音や喧騒を思い出し、爛瀬は一人で得心する。ともあれ椋杜の身が無事であったのならそれでいいと、密かに安堵の溜め息を吐いた。

「で? 話はそれだけなのか?」

「う~ん、そうね、それだけかも」

 相変わらず頭の中が空っぽだな――とは口が裂けても言わないが、それゆえに呆れて物も言えなかった。その空気を感じ取ったのか、雪晃は慌てて弁明を始める。

「だって、だってね! 気になるでしょ? 神族と妖族! 琅果、人間界に行ってたのよ? 気にならない? 気になるわよね!」

「それは、気にならないって言ったら嘘になるよ」

「ほら、ほらぁ!」

 勝ったと言わんばかりに喜ぶ雪晃を見て、何をそんなに勝ち誇ることがあるのかと、爛瀬はまた一つ溜め息を吐く。

「だからって、俺にどうすることもできないだろ」

 今更会ったところで、また彼女に酷い顔をさせてしまうに決まっている。罵られることは構わない。その覚悟で行動を起こしたのだから。けれど、自分の存在が彼女を苦しめることを承知で、目の前に姿を出すことはどうしても憚られた。

「う~ん……でもぉ、琅果は多分、爛瀬に会いたいと思うわよ?」

「……は? そんなわけ」

 ないだろ、と続けようとしたところで、目の前に人差し指が一本。反射的に口を噤めば、雪晃は「ふふっ」と笑って、その人差し指を自分の口元に持っていく。

「だって琅果、きっと爛瀬のこと許さないもの」


 *


 断ろうと思えば断ることはできたのだ。けれどそれをしなかったのは、やはり彼女に会いたいという気持ちが勝ってしまったからと言わざるを得ない。


 金烏がその姿を隠し、空が紫紺の粧いを見せ始めた頃、雪晃が「そろそろ行くわよ」とでも言いたげに、今日のえきを終えた爛瀬の目の前に立ちはだかった。蓮の花のあしらわれた沓の高い踵ヒールをカツンと鳴らして自信満々に仁王立ちするその姿に、爛瀬は軽く蟀谷を抑える。

 なぜこの少女はここまで後先を考えないのだろうと思わずにはいられないのだが、結局そこに理由などあるはずもなく、それゆえに考えれば考えるほど出口の見えない迷宮に迷い込んでしまう。長年の付き合いによってそのことを熟知している爛瀬はもはや考えることを止め、早急に衛兵を呼ぼうと声を上げる――が、それは両手で口を塞がれるという形で阻止されてしまった。

「お願い! 一緒に行きましょ! ね!」

 困ると涙目になるのは彼女の常套手段だ。いや、そうではない。そんな演技ができるほど雪晃が器用な人物ではないということを爛瀬はよく知っている。単に彼女は生来の泣き虫なのだ。だからこそ厄介でもあるのだが。誰が言い出したか、涙は女の武器とはよく言ったものだと思う。実際、この顔をされてしまうとどうにも断れない。爛瀬は本日何度目かも知れない溜め息を――口は押えられているので心の中で――そっと吐いたのだった。


「そうは言ってもお前、アイツの居場所を知ってるのか?」

 閽人こんじんの目を盗み、そそくさと皇宮から飛び出せば、そこから雪晃は「もう自分を追う存在は居ない」とばかりに堂々と前を行く。しかしその迷いのなさが逆に不安になるのは、やはりこれまでの彼女の行動が原因だろう。

「知らないけど~……」

 ほら、やっぱりな――とは言わない。言っても無駄なことを知っている。

「でも琅果が頼るならやっぱり颱良でしょ? だったら、とりあえず白虎門の方を目指せば良いんじゃないかしら?」

 言っていることは間違っていない。間違ってはいないのだが、白讃家の管轄だって決して狭くはない。しかもこの時間は仕事帰りの買い物や外食をする者たちで一際賑わっている時間帯でもある。流石にそんな大衆の中に琅果が紛れているとは思わないが――そもそも神族と妖族がいる時点で難しいだろうが――、しかしそれにしたって範囲が広すぎるのではないだろうか。もう少し対象を絞った方が良いのでは――との進言をする間もなく、雪晃はずんずんと前に進んでいく。その自信は一体どこから来るのだろうかと、そう思わずにはいられなかった。しかしここで負けてはいけない。

「いや、っつーか、今から白虎門とか、何時間かかると思ってるんだ?」

「え~と、今回は西側の門から出てきたから……一時間くらいかしら?」

「ばっ、おま……」

 思わず言葉を失うが、一度深呼吸をして平静を取り戻す。

速度ペースを落とさずに歩いたとしても、一時間で精々五キラベイト。ここから白虎門は最低でも十二キラベイト以上だ」

「へ?」

「しかも、白虎門の付近ったって広いし、どこに居るか分かんないんだろ? そこから探すとなれば、見つけられるのは今から五時間後とか、そういうことだって十分に……」

 考えるだけでも疲れてしまう。爛瀬はまた一つ、大きく息を吐く。溜め息を一つ吐くごとに幸せが逃げていくという話を思い出すも、そもそも自分の下には既に逃げられるような幸せは存在していないのだから、いくら吐いたって問題ない。そう思って開き直れば、もはや彼女に遠慮して溜め息を我慢する必要もないような気がしてくる。

「え、でも、だって、じゃあ、どうしましょう?」

「俺が知るわけないだろ。公主様・・・が勝手に飛び出して来たんだから。まだそんなに進んでないんだから、帰るなら今のうちだと思うけど?」

「それは嫌!」

「何でだよ!」

「それは、だって、その……神族と妖族、見たいの!」

「はぁ!?」

 ふざけているのか――そう言おうとして、その言葉は喉元から胸の内へと落ちていった。ぎゅっと唇を噛みしめ、眉根を顰め、今にも泣きそうなその表情に爛瀬は困惑した。そして気付く。あぁ、そうか。これは意地っ張りな彼女の精一杯の素直さなのだと。ぎゅっと握りしめた拳をふるふると震わせる彼女の姿に、これ以上は言っても無駄かと、遂に諦観の念を抱く。

「分かったよ……でも、日が変わる前には皇宮に戻れるようにするからな」

「分かったわ! 私の護衛、よろしくね!」

「はいはい、分かってるよ」

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