四.
「また、随分とすごいものを拾われましたね……」
「えぇ、その、はい……」
棠鵺は思わず苦笑する。
男を運んで山を下ったとき、屋敷には既に里の長が到着していた。彼は棠鵺の状況を見るなり顔色を変え、大至急怪我の処置に当たってくれた。
そうして一通りのことを終え、ひと息吐いたところで開口一番に言われたのがそれだ。
「あの、彼は助かるんでしょうか?」
罅が入っている――と言われた右腕の鬱血痕の手当てをしてもらいながら、棠鵺は男の容態について詳しく聞く。長――ショウブ・チシマはその言葉に眉を顰める。どう答えたものかと髭を軽く撫で、一呼吸置いて口を開いた。
「もしも彼が人間だったなら、まず確実に助からない……いや、もうとっくに死んでいる、と私は答えたでしょう。もしも棠鵺さんと同じく妖族の方であっても、助かったら奇跡だと言ったと思います」
その声にはどこか困惑の気配が含まれており、彼自身も未だ状況をよく理解できていない様子である。棠鵺はそんな彼の言葉を黙って聞き、次の言葉を待つ。
「しかし幸いにして彼は神族だ。私は神族と会うのは初めてなので分かりませんが、神族の生命力は他のどの種族よりも強いという。何せ、人間の怪我や病気を一瞬にして治癒する力を持っているくらいですから、本人たちもそれなりに治癒力が高いのでしょう。加えて、どうにも彼には死の気配を感じない。いや、これはあくまでも医者としての勘に過ぎないのですが……」
「そうですか……」
「実際、脈も呼吸も弱くはあるが落ち着いています。棠鵺さんのおかげで出血も止まりましたし、このままいけば数日後には目を覚ます可能性は高いかと」
「良かった……!」
その言葉を聞いた瞬間、棠鵺の胸にずっしりと圧し掛かっていた重石が取り除かれた。
「とはいえ油断は禁物です。患者の容体はいつ急変するか分からないものですからね。もしも呼吸が乱れたり、体温が急激に低下したり、そういうことがあったら危ないと思った方が良いでしょう」
「わ、わかりました」
——と思ったのも束の間で、胸の内には次なる不安の種がまかれてしまった。ショウブに怪訝に思われないように小さくひと息吐き、次には意識を切り換えるべく、心の中で「よし」と呟いた。
「一応、殺菌作用や解熱作用のある薬も出してはおきますが……果たしてこれが神族に効くのかどうか、いささか疑問ではありますね」
あとで調合して持ってきます――と一言添えて、ショウブは棠鵺の右腕を見た。
「ついでなので棠鵺さんの痛み止めも持ってきましょう」
「あ、ありがとうございます」
「あと、その腕では仕事もままならないでしょうから、しばらく誰かをここに使わせましょうか。ユウか、カイリか……まぁ、適当に暇そうな方に頼みますよ」
「あぁ……なんか、本当にすみません……」
色々と世話を焼いてもらうことに恐縮する棠鵺を見て、ショウブはふっと頬を緩ませた。しかし直後にどこか不安の色を漂わせる。どうしたのかと、俯き気味の彼の顔を覗き込めば、「あぁ、すみません」と、やはり不安の気を孕んだ声で口を開いた。
「いえ、その……もしも彼が目覚めて、棠鵺さんに何かあったらと思うと……やはりどうしても気になってしまいましてね」
なんとなく予感はしてはいたが、やはりそのことか――と、棠鵺は苦笑する。確かに、あの恐怖を忘れたわけではない。実際、彼が何者か分からない以上、不安があるのは事実だ。しかし何故かそこに恐怖はもうなかった。
「それなら、きっと大丈夫だと思います」
根拠などどこにもない。
「彼は悪いヒトじゃないですよ」
それでも確信をもってそう告げることができたのは、きっと彼が助けられたからだ。自身があの場に居たことも、たまたま祈年の日で玄冬扇がそこにあったことも、そして普段は決してヒトが足を踏み入れることのないあの場所に、異界からの訪問者があったことも――その全てが、彼が助かるように世界に仕向けられたもののように棠鵺には感じられた。
「きっと、大丈夫です」
そう言って微笑む棠鵺に、ショウブは納得したように頷いた。「それなら……」と重い腰を上げ、部屋を後にしようと廊下に足を一歩踏み出す。しかし目の前に堂々と聳え立つ山を見上げ、足を止めた。そしてやはりどこか重い声音で「しかし――……」と口を開く。
「神族ですか。神界で何かあったのか……こちらに何もないと良いのですが……」
それだけ言うと、しずしずとした足運びで、今度こそその場を後にした。
神族の男が文字通り落ちてきてから既に七日ほど経っている。彼が目を覚ます気配は未だ微塵も感じられなかった。その間にも何度かショウブに診察に来てもらってはいるものの、依然として棠鵺にできることは何もない。傷口の清潔を保つことと、たまに姿勢を変えさせることくらいが精々だ。
曰く、傷自体は膿もなく壊死もなく、順調に回復に向かっているし、容体は完全に安定しているとのことだ。ただ、もしも落ちた際に頭をぶつけたりしたのなら、このまま目を覚まさない可能性もある――という話を聞いた。
この数日間、ほぼほぼ付きっ切りで彼を見ているものの、彼は全くと言って良いほど動かなかった。神族は他の種族よりも長寿であるため、人間や妖族に比べると代謝がゆっくりである、という説もあるにはあるそうだが、だからといって目を覚まさないことには心配で仕方がない。
「このまま目を覚ましてくれなかったらどうしよう……」
縁側に腰かけ、沈みゆく夕日を眺める。山から下りてきた狸や狐や諸々の動物たちに軽くご飯を与えながら、棠鵺はここ数日間のうちに何度したかも分からない溜め息を吐いた。
今日はショウブの娘のカイリが夕食を作りに来ており、炊事場の方から美味しそうな匂いが漂ってくる。今日の夕食はアラ汁と煮びたしだろうか、菜花だったら嬉しいな――なんてことを考えながら、構って欲しそうにこちらの脚を掻いてくる子狸を抱き上げた。
「早く目覚めてほしいなぁ……」
「ね?」と子狸に同意を求めても、彼は不思議そうに首を傾げるだけだった。
「分からないよねぇ」
そう言って子狸を膝の上に寝かせ、おもむろに背や頭や尾を撫でる。不安ばかりが増える現状、動物たちと触れ合えるこの時間だけが棠鵺にとっての癒しだ。
「それじゃあ帰りますねー!」と声がしたのを聞いて、棠鵺は子狸を抱いたまま慌てて玄関の方へと向かう。そうして軽くお礼を告げたあと、今度は集まっていた動物たちにそろそろ帰るように語り掛ける。
さて、いよいよもって一人の時間だ。いや、これまでもずっと一人で暮らしてきたのだからそれ自体は何も問題はない。しかし、不安がある状況を一人で過ごすというのはどうにも慣れなかった。
結局今日も目覚めなかったな――と、橙の空を見上げながら、軽く伸びをした時だった。奥の部屋からひどく咳き込むような音が聞こえてきたのは。
「まさか!」
胸の内に蔓延していたもやもやとした霧がすっと晴れる。いや、まだ目覚めたと決まったわけではない。しかし、何かしらの動きがあったというその事実だけでも喜ばしいことだ。
棠鵺は廊下を走って奥の部屋へと向かい、部屋の前に着くと同時に礼儀も行儀も何も忘れ、勢いのままに障子戸を思いっきり引いた。
「良かった! 目、覚めたんですね!」
軽く上がった息を整える間もなく、棠鵺は弾んだ声で男に呼びかける。未だ気怠そうではあるものの、棠鵺の目線の先にはしっかりと起き上がっている男がいた。その姿に密かに胸を撫で下ろしながら、唖然とした表情で棠鵺を見つめる男をさっと観察する。
歳の頃は人間で言えば二十代半ばくらいなのだろうか。眠っているときにも思ったことではあるが、随分と端正な……というよりは精悍な顔立ちの男だ。
先ほどまで咳き込んでいたためか、それとも寝起きのためか、あるいはやはりまだ体調が良くないのか――男の目尻にはうっすらと涙が滲んでいた。そのとき、棠鵺は初めて男の瞳に気づく。あの血よりも濃い緋の瞳は左側にしか存在していない。その対となる右の瞳は、儀式のときに用いる首飾りについている宝玉のような黄金色をしていた。
切れ長のその目を呆気にとられたように大きく見開く男の姿に、棠鵺は「あ」と声を出して、どこか気恥ずかし気に腰を下ろした。そして軽く居ずまいを正し――
「えっと、初めまして。僕は
そう言って軽く会釈をする。男は相変わらず状況を呑み込めていない様子で――当然ではあるが――ぽかんと口を開きながら、「えっと……」と掠れた声を発した。声が上手く出ないことを気にしてか一度咳払いをし、もう一度「その……」と口にするが、結局先ほどと声の調子に大差はなかった。そうして今度は軽く溜め息を吐き、諦めたのかそのまま口を開く。
「えぇっと……トー、ヤ? ここはお前の家か?」
「はい、そうですよ」
どこかたどたどしい口調に聞こえるのはおそらくは寝起きだからだろう。縺れた舌でそれだけ聞くと、男は何かを考えるように視線を下げる。
「あ、えぇっとですね。その……先日、いきなり落ちて来られたので、それで随分ひどい怪我もされているようだったので、えっと、勝手ながら運ばせていただいてですね……?」
起きていきなり見知らぬ家に寝かされていたら誰だって困惑する。当たり前だ。そこに思い至らなかったことに少々の申し訳なさを感じながら、棠鵺はことの成り行きを話す。
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