一幕 春の訪れ
一.
山から下りてくる僅かに湿気を含んだ風を受けて、「すっかり春だな」と
実際、山の空気はまだ冷たい。しかしながら、雪が解けたことで水分を多分に含み始めた空気は、冷たいながらも喉や鼻孔に心地よく、それこそが優しい春の匂いなのだと棠鵺は思っている。
幾度かの深呼吸を終えたあと、目の前に堂々と立ちはだかる山を見上げる。今日は
それほど標高の高い山ではないとはいえ、これから登山をすることになるのだ。それも雪解け水でぬかるんだ足場の悪い山を。生半可な気持ちで赴いては痛い目を見る――というのはこれまでの経験から痛いほど思い知らされた。軽く準備運動をしながら四肢を解し、「よし」と軽く頬をはたいて気合を入れる。
足元に置かれている里に住む人間たちからの大量の供物の入った籠を背に担ぎ、その重さに一瞬身じろぎしながらも今一度態勢を整える。
そうして下ろしたばかりの地下足袋で、今年になってから未だ誰も足を踏み入れていない山に最初の一歩を踏み出した。
ここはいわゆる禁足地と呼ばれる場所であり、一般の人間が立ち入ることは基本的には許されていない。女神の世話係として任命されている棠鵺ですら、今回のように特別な儀式のある日にしか中腹より上へ足を踏み入れることはまずなかった。
そんなヒトの手も足も入らない山中が整備されているなどということは当然ながらあり得ず、歩くのは自然と獣道になってしまう。
別に歩きやすいように最低限の整備をすることくらいは女神も許してくれるだろうが、棠鵺としては必要以上にヒトの手を加えたくないという気持ちが強かった。
それは棠鵺が動物の気持ちを感じ取ることに特化している妖族であるがゆえなのか、それとももっと別の理由があるのか。いずれにしても、自分一人のために動物の住処を必要以上に奪うような行為をする気にはなれない、というのが正直なところだ。
道中、未だ冬眠から目覚めていない動物たちに軽く声をかけながら、棠鵺は山頂より少し下に存在する山池を目指す。さほど大きな池ではないものの、中央には島があり、そこには大きな一本の桃の木が堂々とした出で立ちで立っている。今回の儀式はその木の洞に作られた祠に神饌を備え、その後に舞を奉納することだ。これにより、今後一年のこの山里の安寧と豊穣を女神に約束してもらうのである。
未だ空気は冷たいとはいえ、山中を数十分も登る頃には額や首筋に汗が滲み始める。一度立ち止まって上がった息を整えながら、棠鵺は額に張り付いた、あまり鮮やかとは言えない
人間で言うところの耳に相当する場所には橙色の――鳥の尾羽のような――羽があるが、こればかりは縛ることもできず、前髪と同じく軽く払うに留めておく。
そうして外気に晒された肌にひんやりとした空気が差し込めば、上がった体温もたちまち下がり、心身にひとときの癒しがもたらされた。
「やっと半分、かな……」
ほっと一息吐きつつ、背負った荷物を一度足元に下ろす。軽くなった肩を回しながら、周囲の鬱葱と生い茂る木々を見渡し、次に空を見上げる。少し前まで殺風景な枝しかなかったであろうその空には、青々とした鮮やかな緑の葉が風に揺れていた。
刹那、強い風が吹き抜ける。木々がざわざわとどよめき始めたかと思えば、小鳥たちが一斉に大空へと飛び立っていった。
春一番だ。
これが吹いたということは、今年の神界は随分と賑やかだということなのだろう。きっと今年は良くも悪くも騒がしい年になる――そんなことを思いながら、棠鵺は足元の荷物を今一度担ぎ上げ、再び山頂付近を目指してぬかるむ大地を踏みしめた。
*
神域というのは不思議だな――と、この場に足を運ぶたびにそう感じる。何がどう変わったのかと口で説明するのは難しいものの、足を踏み入れた瞬間に空気が変わるのだ。
山頂近くに存在する開けたその場所は、この山のどの場所とも違った独特の空気に包まれていた。山の空気はもともと美しいものだ。だが、その中でもこの神域においてはさらに清涼な風が吹いている――ように棠鵺は感じている。
実際、それは動物たちも感じているらしく、ここで動物たちが争っているのを見たことは一度もない。女神に「ここには血の穢れを持ち込むな」と強く言われているとはいえ、動物たちがそれを理解できるのかはいささか謎ではあった。しかしながら現にこうして誰一人――誰一匹としてこの場所では争うことなく平穏に過ごしているのだから、彼らもきっと何かしら感じ取っているのだろう。
池の正面には中央の島に続く小さな橋がかかっており、池の中にはその橋をまたぐようにさほど大きいとは言えない真っ赤な鳥居が建てられていた。誰がいつ建てたのかは知らないが、自身の物心がついた頃にはすでにあったのだから、随分と昔からあることは確かだ。記憶にあるだけで五十年は経っているだろう。
橋を渡って中島にある祠を目指しつつ、棠鵺は池の周囲に集まっている動物たちに「何があるか分からないから一応離れておいて」と軽い指示を出しておく。これまでに危険な事態になったことは一度もないとはいえ、これまで大丈夫だったから今回も大丈夫とはならない。
多少水面が荒れたり風が吹き荒んだりすることはあり、不用意に近くにいるのはやはり危険だ。たとえ血の穢れ云々という決まりがなかったとしても、やはり彼らが怪我をするような事態はできれば避けたいと思うのが当然だ。
動物たちが一定以上離れたことを確認しつつ、里の人間たちから預かってきた神饌を祠に備えるための準備をする。酒と米、そして数々の野菜や果物をできる限り見栄えよく盛りつけて、祠の中の台座に置く。
次にやや太めの長い蝋燭を一本取り出した。衣服の袂から取り出した朱色の扇で蝋燭をひと扇ぎすれば、直後には真っ赤な火が灯っていた。きちんと点いていることを確認しつつ、火が消えないように、そして蝋が垂れないように慎重に祠の中央に配置する。
祠から少し離れて全体のバランスを確認したあと、「こんなものかな?」と言いながら先ほど結んだ髪を解いた。
先ほど取り出した扇を一度畳んで足元に置き、袂から新たに三把の扇を取り出す。それぞれを開いて東西南北――島の決められた位置に設置して、最後に金にも近い黄色の宝玉がついた首飾りを首にかける。
あとは祝詞と舞を奉げれば今年の祈年も無事終了という次第だ。実際のところ、この儀式にどれだけの意味があるのか、棠鵺自身はいまひとつよく分かっていない部分もあるのだが、女神が「こうしてほしい」と言うから何も考えずに執り行っているだけというところはある。それでも、たったこれだけのことをするだけで少なくともこれから一年間の五穀豊穣を確約してもらえるというのなら安いものだ。
祝詞の書かれた書を広げる。一度小さく深呼吸をしたのち、今度は静かに息を吸い込み、
――刹那、全身に怖気が走った。
どすん、とした重苦しい空気に息ができない。神域全体、否、おそらくこの山全体にビリビリとした緊張が走っている。指一本動かすにも、皮膚に無数の針が突き刺さるような感覚を得る。
何が起きたのか。
周囲を見渡せばこれまで穏やかに休んでいた動物たちが逃げまどい、あるいは全身の毛を逆立てて警戒態勢をとっている。
これは明らかに神気だ。しかし、山の女神のものではない。彼女の神気は常にこの山全体を覆っている。それは棠鵺やこの山の動物たちにとってそれこそ生まれたときから感じてきたものであり、たとえ彼女が怒りにその身を焦がしたとしても、これほどの違和感を覚えることはないだろう。
一体、何が起きたのか。
徐々に重さを増していく山の空気は、それの正体が少しずつ近づいてきていることを示唆しているのか。
どこだ? 四方八方に視線を巡らせてみるも、その根源が分からない。 ——どこだ? 全神経を研ぎ澄まし、周囲を探る。棠鵺は上を見た。
――そう、上だ。
そう思った次の瞬間、何かが叩きつけられるような音と共に、池から大量の水飛沫が上がった。
何が起きたのか。水の壁が視界を遮り、状況を把握できない。まるで雨のように降り注ぐ飛沫から目を守るように手を翳しつつ、事態が収まるのを待つ。
飛び散ったそれらはばしゃばしゃと音を立て、水面に無数の波紋を生み出しながら自らの在るべき場所へと戻っていく。次第に鮮明になる視界、静かになる水面。そこに見えてきたのはこの穏やかな春の神域に到底似つかわしくない深紅と漆黒のコントラストだ。
漆黒を中心に、深紅は靄のように無色透明の水を穢していく。冷たい風が頬を切る。その瞬間、鼻腔をついたのは生臭い――血の臭いだった。
「まずい……!」
この場所を血で穢してはいけない。いや、そうではない。そんなことよりもずっと大切なことがある。
あれは
「早く助けないと……」
棠鵺はなりふり構わず池に飛び込む。
その人物は溺れる素振りも見せず、かといって泳ごうという意思も感じられない。おそらくは気を失っているのだろう。一刻も早く岸に上げなければいけないと、棠鵺は徐々に沈みゆくその身体を掴み、抱き寄せた。黒い衣服に紛れて白銀の髪が揺らめく。
顔を水面に上げるように態勢を整えつつ、つられて溺れてしまわないように慎重に、しかしできる限り迅速に岸へと向かった。
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