古生物かふぇ 錨亭

渡来亜輝彦

【雨上がりのシーラカンス】


「そういえば、シーラカンスを見たらしいぞ」


 その日は雨の日だった。ひどい風雨で、離島に向かう巡航船も止まっていた。

 そんなわけで、船着き場にほど近い俺の店は、モーニングの時間に客がいなくて随分暇だったものだ。 だからこそ、俺は馴染みの橘伊作の戯言に付き合う気になっていた。


「シーラカンスって何?」

 バイトの芽衣子が無邪気に尋ねた。

「シーラカンスというのはな」

 質問を待っていましたとばかり、伊作が嬉々として説明を始める。機械工学の自称天才研究者の橘伊作だが、最近はどうやら古代の生き物やらなんやらに凝っているらしい。

 詳しく語りだす伊作の説明を俺は聞き流していた。

 流石の俺でも、シーラカンスがどういう魚なのかは、一応知っている。

 現物は見たことはないけど、深い海に古代からすむ生きた化石。

 青い海の中、濃い青か褐色の頑丈な鱗に包まれて、ひれをたくさんもっている、いかつい顔をした魚。

「伊作さんは、物知りね」

 俺がシーラカンスに思いを巡らせている間に、伊作は芽衣子に一通りの話を終えたらしく、芽衣子が無邪気にそんなことをいった。

「そうだろう。なんでも疑問に思うと聞いてくれればいい。色々な話ができるぞ」

 橘伊作はすぐに調子に乗る(といっても、あまり表情には出ないが)ので、俺としては無責任にほめたたえるのはやめてほしいのだ。話が長くなる。

「ついでに名前はイサクでなく、アイザックと呼んでもらえると嬉しいのだがな」

 案の定、感心する芽衣子に伊作はそう注文する。昔からこの男、イサクという自分の名前が気に入らないらしく、留学してからはやたらと英語読みしてもらいたがるようになってしまった。

 俺はいつものやり取りにややうんざりしながら、

「で、何がシーラカンスなんだよ」

「だから、シーラカンスの目撃の話だ」

「目撃って、どこでさ?」

「”ここ”の海でだ。ダイバーの奴から聞いたぞ。この間潜っていて大きな魚を見たのだが、それがどう見てもシーラカンスだったと」

「はあ? マユツバだろ」

 俺はげっそりとしてしまった。ただですら雨で気が重くなっているというのに、そんな嘘っぽい与太話はききたくない。

「確かにシーラカンスが見つかっているのは、アフリカかインドネシアだからこんなところにいるはずはないのだが……。だからといって絶対いないとは言い切れないだろう」

「それはそうだけど」

「いると思う方がロマンがあるじゃないか」

 普段は冷徹なほど現実的な科学者のくせに、伊作ときたら、こういうことに関しては妙に夢見がちな奴なのだ。

 いくら夢見がちな俺だって、シーラカンスなんてものが、この日本の海で泳いでいるわけがないってわかる話さ。

 伊作のいわんとすることもわかるけど、大きな魚を見間違えたのに違いない。クエなんかのハタの仲間にはとても大きくなるやつが多いし、そういう類の魚はこの周辺の海じゃあうようよ泳いでいる。

 伊作の言うロマンなんて成立する余地はないんだから。


 橘伊作はモーニングの常連客だが、彼が来るのは大体終了間近の時間である。彼がモーニングを食って帰る時間には、客はまばらになっているが、今日のような悪天候の日は、彼以外の客がいなくなる。今日もそうで、また昼めしを食いに来てやるという恩着せがましいヤツを見送ると、店の中は急にがらんとしてしまうのだった。

「芽衣ちゃん、天気も悪いし、いったん家に帰っててもいいよ」

 と、俺は芽衣子に声をかけた。

「大丈夫かな」

「どうせこんな天気じゃ、お客さんも来ないしさ。また忙しそうになったらお願いするかもだけど」

 芽衣子の家はすぐ近くで、その辺の融通は利く。

「そうねえ、それじゃあお言葉に甘えようかなあ」

 芽衣子が帰ってしまうと、狭い店が異様に広く感じられるぐらいにがらーんとしてしまった。

 テレビやら音楽やらを消してしまうと、激しく屋根を叩きつける雨の音だけが聞こえてくる。

 外では何やら防災情報の放送がスピーカーから流れているが、正確には聞き取れない。大方警報でも出たのだろう。

 となると、客の入りはいよいよもって絶望的であり、暇になりそうだった。

「掃除でもするかなあ」

 そんなことを呟いて、大あくびをした時、不意に店の扉が開いた。

 カランカランとベルの音がなり、同時に外から雨が地面を叩きつける激しい音が聞こえた。風が狭い入り口から、わっと吹き付けて来た。

 奇妙なことに、それは爽やかな海の香りがした。いや、海の近くにある店だから、潮風が吹き込むことはよくある。けれど、海の匂いにも色々あって、不快なほどそれが強ければ磯臭いって表現になるだろう。強すぎる波の日の海の香りはけして心地よいものじゃない。今日みたいな荒れた日のものは、大体それのはずなんだけど、不思議とそれは心地よい方の海の香りだった。

 どこか遠い穏やかな海の、ノスタルジックなふわりとした香。

 意外だったのは、その香りを運んで来たのは、風ではなかった。

 扉の前に立っていたのは、一人の初老の男だった。

 白髪交じりのロマンスグレーに、何より目を引くのは、濃紺色の上等な長いコート。古びているけど上等なものらしく、鱗みたいな模様がある。顔は眼光するどくて、ちょっと強面なのだが、知的な感じもした。その額に何か金属でひっかけたような古傷がある。

「あ、いらっしゃい……」

 流石の俺もちょっと気圧されつつ声をかけると、男は言った。

「モーニングは食べられるかな?」

「あ、時間は過ぎてますけど大丈夫ですよ。どうぞ」

 強面の割に、意外と物腰が柔らかい感じだったので、俺は思わずホッとして、老紳士をカウンターに案内した。

 準備をしている間にも、雨は激しく降りつけているらしく、ざあざあと音がする。

「それにしてもよく降るなあ」

 半分独り言のつもりでそういうと、老紳士はふっと笑って、まったくだといった。

「折角旅行に来たのに、こんなに大雨に降られるとは残念だよ」

「ご旅行ですか?」

「ああ、船で離島に渡るつもりだったのだがね。しばらく船着場で待っていたが、雨が止みそうにないので諦めた」

「それは災難でしたね」

 俺は珈琲を注ぎ、彼の前に差し出した。

 その時になって、老紳士がコートを脱いでいないことに気づいた。そのコートは上等なものには違いないが、雨に濡れているだろうし、脱がないのかなと思ったのだ。

 けれど、よく見るとそれは濡れている様子はなかった。ただ、不思議な光沢があって、妙に引き込まれるような色だ。

 老紳士自体も、ちょっと不思議な男だったので、奇妙には思いながら俺は追及しなかった。そういう者なのかなと思ったのだ。

「いつ再開するかわかりませんが、良かったらここで休んでいってください」

「それはありがとう」

 老紳士はそういって微笑んだ。瞳が照明で緑色に閃いている。

「しかし、雨も悪いことばかりではないのだがね。特にね、もう少し小降りの時は」

 彼は珈琲をすすりながら言った。

「雨が降る日の水面はとても綺麗だよ。特に太陽の光が差し込む時は、光が水面で歪むのだけでも綺麗だが、無数の水滴が水面をに作り出す波紋の美しさといったら言葉もないよ」

「水面? ということは、お客さんは潜水夫かなんかだったんです?」

「まあ、そういうものかな」

 きいてみると、彼は謎めいた笑みをうかべた。

「深い海の中も良いところだが、私は本当は浅い海の方が好きでね」

「浅い海。良いですよね。俺もたまにダイビングするんですが、本当に綺麗です」

「ああ、そうだね。私はね、普段は、仕事柄、深い海の洞窟にいることが多いのだよ。深い海の洞窟は、それはそれで静かで暗くて、心の落ち着くところでね、けれど、思い出したように少し寂しくなるのだ」

 彼はつづけた。

「いや、深い海が孤独な場所というわけではないんだよ。君たちは知らないかもしれないが、深い海も本当は生命力にあふれたにぎやかな場所なのだ。けれどね、やっぱり私は浅瀬が好きなんだ。若い頃、浅瀬を泳いでいたせいかもしれないがね」

 急におしゃべりになって、彼はふと水面を見上げるかのように、店の天井に目をやった。

「私が若い頃の浅瀬は、それはそれは美しくにぎやかな海だった。温度がとても高くて、恵みの豊かな海だった。差し込む強い太陽の光は、水面で虹色に輝いていた。とても懐かしいよ。今では見かけない海藻や珊瑚がひしめきあっていてね……。やがて私は深い海を目指したが、今でも、時々浅い海の美しさを忘れられなくて、こうして時々旅に出ているんだよ。浅い美しい海を求めてね」

 老紳士は、まるで夢見るようにうっとりとそんなことを言った。

 彼の語り口は何故か俺にまで作用して、目の前に不思議な淡い青色の、虹色に輝く海の光景を思い起こさせた。かすかに爽やかな海の香りが鼻を撫で、むやみに懐かしい気持ちにさせられた。

 

 深い海の青く黒い洞窟。

 浮かんでいく泡と音。頭上を泳ぐ大小の魚たち。彼らを追いかけるようにして浮上すると、徐々に見えてくる虹色の水面。

 たゆたう水面に、いつの間にか波紋が広がる。

 ああ、そうだ。雨だ。”上”では雨が降っているんだ。


 ざああああ、と不意に雨の音が強くなり、俺は我に返った。

「世界中の美しい海を見ているんだよ」

 老紳士は話の続きのひとことを告げた。

(なんだろ、さっきの)

 まるで自分が魚になって深い海を静かに泳いでいたみたいな、そんな白昼夢めいたもの。

「そうなんですね。羨ましいです」

 老紳士が話の続きをつぶやき、ようやく俺はそれだけ答えた。

 いつの間にか、老紳士はモーニングのトーストと目玉焼きを食べ終え、ゆったりと珈琲を飲んでいるところだった。

 さっきのことは一瞬だと思っていたが、俺が思っていたよりも、時間が経過しているのかもしれない。わからない。なんだか、時間の流れが不思議な気がする。

 でも、嫌な感じはしなかった。俺は引き続き彼との会話を楽しむ気になっていた。

「それでは、ここにもそういう目的で?」

「ああ、そうだね。しかし、天気が良くなくてどうも水が濁っているようでね、期待通りの美しい海を見られていないんだ」

「地元びいきみたいですが、ここもなかなかきれいな海なんですよ」

 と俺は言った。

「だから、もし、時間があるなら、是非晴れの日の海を堪能していただけると俺も嬉しいです。この周辺も浅い海ですが、とてもきれいなんです。南の国ほどじゃないですが、それでも、色とりどりでね」

「はは、君が言うならきっとそうらしい」

 そういって、老紳士は珈琲を優雅に飲み終えた。


 いつの間にか、屋根をたたく雨音が聞こえなくなっていた。

 ふと、外からまた放送が聞こえてきた。今度のものは、どうやら、巡行船の再開予定を告げるものらしい。三十分後に船がでるというような内容だった。

「あれ、今日はてっきり雨やまないと思ったのにな」

 俺は素直にそう呟いた。

「でもお客さんにとっては良かったですね。これで島にも渡れますし」

「ああ、本当に良かったよ。ここで君と話せたのも楽しかったし、そのおかげで雨がやんだのかもしれないね」

 老紳士はそういうと、俺の手に勘定分の硬貨を握らせた。

 そして、ふと俺の顔を見た。

「君にはもしかしたら、私が見た美しい海が見えたかな?」

「え?」

「食事も珈琲もとても美味しかったよ」

 一瞬意味を把握し損ねたが、ふと普通の会話に戻ってしまった。聞き返そうとしたが、すでに彼は扉の前に立っている。

 幻聴でも聞いた気持ちだった。

 ありがとうございました、というのが俺には精一杯だった。


「何だか、不思議な人だったな」

 俺は、彼の去った後の店をぼんやりと眺めていた。まだ彼の運んできた海の香りが爽やかに漂っていた。

 と、俺はふとテーブルの上に、ハンカチがあるのを見つけた。そういえば、彼は入ってきたとき、頭や服をそれでぬぐっていたのだ。忘れてしまったのに違いない。

 時計を見る。確か、船は三十分後だと放送は告げていた。

「今ならまだいるかな?」

 俺はそう思ってハンカチを握って慌てて外に飛び出した。

 既に雨は止んでいたが、あちらこちらに水たまりができていて、サンダル履きだった俺の足を濡らした。

 桟橋の方に向かったが、どうやら彼らしい人影は見ない。と思ったら、その向こうの角で彼らしい人影が見えた。

「あのっ、忘れ物……!」

 声をかけるが届かなかったのか、彼はその向こうを曲がっていく。

 向こうは殺風景な堤防しかないはずだが、と思いながら俺は後を追いかけた。

 しかし、角を曲がって堤防を眺めると、そこには人の姿はなかった。

「あれ?」

 おかしいなとあちらこちらを見回す。

 その時、不意に向こうで水柱が立った。ザバーンという音に、俺は驚いて駆け寄った。

 が、人が飛び込んだようではなかった。

 ただ、俺ははっとして目を見張っていた。

 大きな波紋が広がっていく中、少し濁った海面の下に、黒い大きな影がみえていた。

 それがすーっと底の方に泳いでいくのが見えていた。それは人間などよりもよほど大きな魚影で、ざざ、とかすかに海面を騒がせた後沈んでいく。

 濁っているとはいえ、その魚影が見慣れた魚と違うことを俺は気づいていた。見慣れないところに大きな鰭があるし、全体的なフォルムも違う。

 それはまるで、伊作からきいたあの魚のようでもあった。


 結局、船着き場も見たが、彼の姿は見当たらなかった。

 俺は店に戻って洗い物をしながら考えていた。

 確かに、あの老紳士の客は存在していた。それは間違いない。なにせ、今洗っている食器は彼がつかっていたものだからだ。

 あの老紳士、船に乗らずにどこか別の場所にいってしまったのか、それとも、あの魚が彼だったのか。

(いやいや、いくら俺が夢見がちだからってそんなことはないだろう)

「いや、凄い雨だったなあ」

 と、俺が考え事に浸っているのもお構いなしに、いつの間にか橘伊作が店に戻ってきていた。

「おいおい、ランチの時間にはちょっと早いだろ。っていうか、お前さっき食ったばかりでは? それより、お前いつの間に?」

「何やらぼんやりしているので、勝手に入っていた。それにもう十一時を過ぎている」

「あ、本当だ。ありゃあ、いつの間にそんなに時間が……」

 やっぱり、今日は時間の感覚が変だ。

 とはいえ、先ほどの不思議な客のことを伊作に話すのは面倒な気がした。根掘り葉掘り聞かれるのが面倒だという気持ちと、俺自身もうまく整理できていないからでもある。

「あ、そうだ。雨が止んだんだから、芽衣ちゃんも呼び戻さなきゃ。ランチの準備なんてあんまりしてないよ」

 電話でもかけるか、と俺がタオルで手を拭いていると、伊作がカウンターに置いてあるハンカチを目ざとくみつけた。 

「これはなんだ?」

「あー、いや、さっきのお客さんの忘れ物さ」

「何か入っているぞ」

 伊作が勝手にハンカチを広げると、何かがそこから転がり出た。

「おいおい、勝手に」

 といいかけて、俺はきょとんとした。

 かすかな懐かしい海の香りがする。

「鱗?」

 手に取ってみると、少し硬い。

「ただの魚の鱗ではなさそうだな。なんだ」

 そんなことは俺も分かっている。手触りだって普通の魚と随分違う。

 第一、あのひとが持っていたものなんだ。俺の頭にはある可能性が浮かんでいた。

「もしかして、もしかするかも……」

 俺は思わずぽつりとつぶやく。伊作が解析したがるだろうが俺は答えを知るのがちょっと怖い。

 

 まるで故郷のような海の香りだ。

 虹色の水面に降り注ぐ雨。温かく穏やかな浅い海。悠久の時の向こうにいなくなった、あでやかな生き物の色彩。

 あの時見た白昼夢の中に、もう一度入りそうな気持ちになった時、不意に扉が開いた。

「あ、伊作さんもう来てたの? ランチには早いよ。でも、雨やんでよかったね」

 芽衣子の声が耳に入った。電話しようとした矢先だったが、向こうの方が気にかけてくれて来てくれたらしい。

「まあいいや。もらっておくことにしようかな」

 俺はため息をついて仕事に戻ることにして、その鱗をカウンターに立てかけた。


 今頃、”あのひと”は、雨上がりの海を楽しんでいるのだろうか。


                              終


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