1.神様のウチのおとなりさん
第1話
遠藤
亜彩希は1歳で言葉を話し始め、2歳で平仮名を書いた。4歳には九九の7の段以外をすべて覚え、小学校に入学する頃には、中学受験用の問題集を解き始めていた――もっとも、こんな田舎町では、中学受験ができる学校なんてありゃしないんだけど。
亜彩希は、私が物心つく前からの「親友」で、家も隣同士だった。だから、彼女の噂話は、しょっちゅう耳に入った。
「亜彩希ちゃんは、もう歴史の勉強がほとんど終わっているんですって」
「亜彩希ちゃんは、この間ジュニア算数オリンピックで銅メダルを獲ったんですって」
亜彩希の母と、私の母は、とても仲が良かった。だから、我が家では「亜彩希神童情報」には事欠かなかった。
「アンタも、ちょっとは亜彩希ちゃんを見習いなさいよ」
そしてこれは、お決まりの言葉。
「私と亜彩希は、元々の頭の出来が違うんだから、比べたってムダ」
「それにしたってアンタ、1日に1時間も勉強してないじゃないのよ」
別に、亜彩希と比較されても落ち込むことは無かった。断じて無かった。悔しいとすら思わなかった。母親だって分かっている、彼女は特別だ。
「あーあ。そんなに勉強勉強ってうるさくするのなら、亜彩希と友だちやめちゃおっかな」
「ちょっと、やめてよ。ご近所さんよ? 亜彩希ちゃんとは仲良くしておきなさい、その方がアンタの為にもなるし」
母はいつだって、こう言うんだ。――頭の良い子と、性格の良い子を友だちにしておきなさい、と。それがアンタの為になるんだからって。
まあ実際、亜彩希はある程度都合のよい友人ではあった。彼女は頭が良いのに加えてお人好しだった。小学生の頃から、質問をすれば勉強を教えてくれた。
「亜彩希、この間の算数の宿題分からないんだけど」
「文章題だよね」
いつだって彼女は、嫌がる素振りも見せず、バカにもせず、淡々と教えてくれる。本当は、こんなバカに付き合ってらんないよ、なんて思っているのかもしれない。
「……ってことは、どんな式が立つと思う?」
「30÷3」
「そう。あとは計算できるよね」
「……」
意気揚々と鉛筆を走らせ始めた私のことを眺めていた亜彩希は、顔を曇らせた。
「えっと。……それを筆算で計算することに、なんか意味があるの?」
「え?」
「……いや、その方が解きやすいっていうのなら、別に止めないけど」
ただ、たまにこういう含みのある言い方をする亜彩希のことはほんの少し、嫌いだった。
中学生になってからも、私と亜彩希の関係はそれなりに続いていて、彼女は相変わらず天才で、私は相変わらずバカだった。バカはバカなりに、新しく始まった英語だけでも頑張ろうって思ったけれど、それもそんなにうまく行くはずもなく。
「あ、
中学時代は一度たりとも同じクラスにはならなかったけれど、廊下ですれ違うと彼女は挨拶をしてくれた。
「あ、亜彩希。あのね、これ見て」
私は偶然手にしていた英語のノートを渡した。
「私ね、英語の勉強めっちゃ頑張ってるんだ」
「えー、すごいじゃん」
本当はすごいだなんて思ってもいないくせに、彼女は口先だけで私のことを誉め、ノートを開いた。
「……こことこことここ、誤字ってる」
そして、ノートを開いてたったの10秒で、誤字を大量に指摘する亜彩希のことが、やはり好きではなかった。
総じて、私は亜彩希のことが好きか好きじゃないかで問われれば確実に「好きじゃない」寄りで、でも「居た方がいいか居ない方がいいか」で問われれば、やっぱり「居ないと困る」といったような、なんとも儘ならない存在として、彼女のことを捉えていたのだと思う。――だから、高校2年生の冬、「東京の大学へ行く」と口にした亜彩希の言葉に、漠然と「それは困るなあ」と感じてしまったのだろう。
そもそも、彼女みたいな天才と、私みたいな生粋のアホが同じ高校に通っていること自体が間違いといわれればそれまでであった。でも、私が間違っているか、彼女が間違っているかと問われれば、間違っているのは確実に、「近いから」という理由だけで高校を選んだ亜彩希の方だと思う。
「遠藤さんは『神童』だから、ウチラとは話が通じないよね」
亜彩希はクラスメイトから、「神童」と揶揄されて、話が合わないと決めつけられ、笑われていた。亜彩希のことを呼び捨てにするのはやはり私くらいのもので、皆、「遠藤さん」とどこか遠慮がちなふりをして距離を置く。
彼女が、ただの頭の良い子であれば、こういう扱いは受けていないだろう。亜彩希は勉強はよくできた一方、生活面というか、人間関係構築能力というか、そういったところにやや劣る面があった。
女子同士特有の、グループとか、ヒエラルキーとか、そういうのを感じ取って行動するのが苦手。自分が話したいと思えば、クラスのリーダーみたいな女の子にも臆すること無く話すし、いじめを受けているような子にも分け隔てなく接した。それだけ聞くとただの良い子だけれど――確かに亜彩希は良い子ではあるのだが、同時に酷く気まぐれなのだった。つい先ほどまで一緒に話していたかと思えば、自分の興味のない話題になると、ひとりで本を読み始めたり、宿題を片付け始めたりする、そういうとんでもない自由人。
そして、極端に頭が良く、割りきった行動をとる彼女を疎ましく思う人間は、少なくなかったのだ。
「ねえ、夏子はどうして遠藤さんなんかと付き合ってるの?」
他の友人からそう問われることに、一種の安心感を覚えていた。私と亜彩希が、あくまで別の人種であることが、ちゃんと周りに伝わっているのだ、と思うと、内心ホッとする。
「幼馴染みなのよ。親も仲良くしろって言うし、それに彼女、めっちゃ頭良いから、勉強も教えてもらえるし」
「話していて、楽しいの? ほら、夏子と遠藤さんって、全然違うじゃん」
「……そういうこと、訊いちゃう?」
意味ありげな笑みを浮かべれば、相手は大体納得する。皆だって絶対にあるもんね、そういう関係。
私と亜彩希は、違う。オツムの出来も違えば、興味のある話題も違うし、好きなテレビ番組も、本も、なにもかもが違う。
見た目だって違う、亜彩希は別に、不細工なわけではなく、――特に造作に難があるわけでもないので、むしろおしゃれを覚えればかわいくなれるとすら思うのだけれど、残念なことに本人に全くその気がなかった。ぼさぼさの髪、ノーメイクに中途半端な丈のダサいスカートで平気な様子を見て、やっぱり亜彩希は私たちとは違うと安心するのだ。
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