風邪を引いた日に…
私のことを【彼女】と称する彼女と友人になったことは私の中では大きなことだった。
まず新しい友人というだけでも新鮮だった。私はこれまで碌に新しい人間関係も作らず、閉じた世界の中で生きてきたから。
ほとんど決まったルーチンを繰り返すだけの日々の中で、彼女との時間は刺激的だった。
彼女は良くも悪くも普通とは違っており、退屈だった私の日々に少しだけ起伏をもたらしてくれる。
もしかしたらいずれはそれにも慣れてしまうのかもしれないけれど、少なくても今は彼女と友人になれたことは私にとって幸福なことに思えた。
今はまだその程度の認識。
けれど、これからがどうなるかはまだまだ未定の二人の物語。
◆
土曜日の昼下がり。
この日はまだ六月も上旬だというのに日差しが厳しく、外に居ればじっとしているだけでも汗が滲んてしまいそうなそんな陽気。
図書館の中から見える外の木々は青々と眩しく夏の景色を思わせた。
(まぁ、暦の上ではとっくに夏だけれど)
季節の移ろいを感じると、その分時が経ったのだと自覚せざるを得ない。
彼女、すみれと出会ってから一つの季節が過ぎたということを。
「文葉、なにぼーっとしてるの?」
受付窓口で友人のことを思っていた私の耳に正面からそんな声。
「いくら人がほとんどいないからって仕事中にそういうのはよくないな。まして、これからさぼりに行くんだし」
カウンターに肘をつきあまり大きな声で言って欲しくはないことを言ってくる、数少ない友人の一人。
「さぼりじゃなくて休憩。というか、あんたには言われたくないんだけど」
不穏当な発言に訂正を加え早瀬に厳しい視線を向ける。
「うーん。まぁ、それは言いっこなしということで。ところで、そろそろ行ってあげた方がいいかもしれないよ」
「すみれがとの約束までには三十分くらいはあるけれど?」
「あぁ。もう来てる」
「え?」
「さっき偶然会ったんだけど、文葉に会いたくて早く来たんだって。ここは代わってあげるから行って来たら?」
「サボりはよくないんじゃないの?」
「私的には綺麗な女の人を悲しませる方がよくないことだし」
会話をしながらも早瀬はカウンターの内側へと周り、私の背を叩いては席を譲るように促してくる。
私の為なのか、それとも面白がっているのかはわからないけれどとりあえずは引くつもりはないらしいことを察して「わかったわ」と席を立った。
「それじゃ、おねーさんによろしくね」
そして、私は本人の前で口にしたら怪訝な顔をしそうな言葉を受けて彼女の元へと歩き出していく。
もう説明するまでもないけれど、今早瀬と話題にしていたのは自称私の恋人で、友人のすみれのこと。
ちゃんとした友人になってから、こうして図書館で密通をすることが常になっている。
理由としてはやはりなかなか会えないからということ。
図書館は業務の性質上、一般的な休みである土日にも開館しなくてはならない。当然ながらすみれと休みが合うことはなくて、それでもすみれが会いに来たいということで土日にはこうして業務中に少し抜け出し密会をすることになっていた。
場所は、図書館の三階、奥まった場所の本棚の間。袋小路にもなっていてあまり利用者の近づかない場所。
その性質もあって、早瀬なんかはよく逢引きに使っている場所。
さすがに早瀬みたいな用途にはならないけれど、場所としては都合がよくて私も利用させてもらっている。
「………?」
その場所へとまっすぐに向かっていた私は目的をあと少しのところにして思わず脚を止めた。
「……………」
意外なものが見えるわ。
すでに私は目的の場所も、目的の人物も視線に捕らえている。
相も変わらぬ美しい姿。通路から見るすみれは私に背を向けており後ろ姿と横顔くらいしか見えないけれど、それでもここからでも映える黒髪と不思議なほどに惹かれてしまう肩。
と、見惚れているわけじゃないわ。
私が気になったのは彼女の手にしているもの。その端正な横顔が見つめるもの。
(本を……読んでいる?)
そう彼女は文庫本を手にしていた。
(あの、すみれが……?)
最初に会った時には、面白い本を紹介しろなどと無茶苦茶な要求をしたうえ、こちらが進める本には一切興味を示さなかったあのすみれが本を?
「……………」
何とも言えない気持ちが胸に湧く。何事かという戸惑いは大きいし、私が勧めた時には興味ないとか言っていたくせになんて考えてしまうことは多いけれど、それでも今一番大きな気持ちを述べるのなら、
(嬉しい、かもしれない)
やはり私は司書で、興味ないと言っていた人間が本を読んでくれるというのは喜ばしいことだった。
(どんなものを読んでるのかしら?)
すみれの興味を引くものというとまるで思いつかない。これまで様々な小説や、時には学術書なども勧め、そのすべてを無視してきたあのすみれが読む本、それはどんなものなんだろう。
(いっそ哲学書とかある意味らしいわね)
なんて思いながら私はふとした好奇心からのぞき見をしようかと、足音を立てずにすみれの背後に迫っていって肩越しに手にした本を覗こうとすると
「人の本を覗き見するなんてあんがいいい趣味をしているのね」
「っ」
こちらを見ずにすみれの冷静な声が響いた。驚きつい固まってしまう私の前で本を閉じて、こちらへと向き直る。
「気づいてたの?」
そう問うとすみれは細長い指を鼻に当てる。
「文葉のいい匂いがしたから。そのくらいわかって見せるわよ」
「っ……」
すみれがこういうことを言うのはよくあることなのだけれど、早瀬に言われるのとは違い妙に照れてしまうことがある。
「そ、それよりその本どうしたの?」
「あぁ、これはあなたのお友達に押し付けられたのよ」
「お友達って……早瀬?」
「そ。さっき偶然会って話してたの」
「へぇ」
実はこの二人は意外と話すことが多くなっている。彼女と友人になった日には、犬猿の中かとも思ったけれど私がきちんとすみれを友人と見なしてからはたまに話をしているみたい。
そのこと自体はわるいことではないのだけど
「……私が勧めた本は読まないくせに、早瀬からのは読むんだ」
「ん? やきもち?」
「別にそういうわけじゃないけど、そうなんだって思っただけよ」
「心配しなくたって浮気したいなんかしないわよ」
「だから、違うって言ってるでしょ」
……少しだけ面白くないのは本音だけど。
「照れなくてもいいのに」
噛み合わない会話にため息をつきそうになる私は次のすみれの一言に首をかしげることになる。
「これは勉強にってもらったのよ。確かに言われてみるとその通りだと思って見てたってだけよ」
「勉強?」
とすれば、何かの指南書? でも文庫サイズでそういうものってあるかしら? などと益のないことを考えていた私にすみれは本をぱらぱらとめくると
「こういうの」
何故か楽しそうな声をあげて私に開いたページを突き付けてきた。
「……………」
反射的にそのページを読む私は……
「っ……これの、どこが勉強、なのよ」
少女じゃあるまいし顔を染めたりはしなかったが、そこに書いてあった内容に顔をしかめる。
まぁ、平たく言えば官能小説だ。それも女同士の。
「必要でしょ? 私たちは付き合ってるんだからいずれはこういうことだってするでしょうし」
「……本当に恋人、ならね」
「だから、恋人だって言ってるじゃないの。盲点と言えば盲点だったわね。確かに勉強というか、知識は得ておくべきかもしれなかったわ。そういう経験はないし、文葉は?」
「ノーコメントで」
それはなるべく避けたい話題で私は口元を手で隠しながらすみれから一歩距離を取った。
それが失敗だった。
すみれは意外に目ざとくその動作の裏を探ろうとする。
「ふーん。経験はありそうね。まさかあの女じゃないでしょうね」
それはもちろん、早瀬のことだろう。
「………………だから、ノーコメントで」
心に浮かべた相手の名を出され、一瞬動揺してしまうものの変わらず表情を読み取られぬようにもう一度それを繰り返すのだが。
「ねぇ、なによ。今の沈黙は。まさか、本当に……?」
「…………………………すみれの考えるようなことじゃない。今はそれだけで勘弁して」
「………ふーーん」
すみれには珍しくないことだけど不満を一切隠すことなく告げる姿に考えされられないでもないけれどいくらすみれが粘ろうとそのことを告げるつもりはない。
陳腐な言い回しだけれど、誰にだって思い出したくない過去はあるということ。
この後、明らかに不審を持たれたままではあったけれどとりあえずこの日はそれを追求されることなくすみれとの逢引きの時間を終えることが出来たのだった。
◆
「あっはっはっは。それは大変だったねぇ」
仕事の終わり。いつものようにあおいちゃんのいるバーで食事をしながらすみれのことを話すと、対面の早瀬はそう下品に笑った。
早瀬ならまだ許される仕草かもしれないが私にはとても真似できないような笑い方だ。
「……笑いごとじゃないんだけど」
すでにアルコールを取りご機嫌な早瀬とは対照的に私はテンション低めに返す。
「私からしたら笑いごとでしかないなぁ。というか、むしろおねーさんの方をからかおうと思ったんだけど、そんな感じだったんだぁ」
「……あんたの趣味最悪ね」
早瀬がろくでもない人間だということは知ってはいるが、新しい友人をからかわれたのもこちらまで被害をこうむったのも気に食わず冷たい視線を送りながら目の前のカクテルに口を湿らせ、これ以上の言葉を飲み込む。
これが早瀬でなければ許せないところだ。早瀬だから許せないところもあるけれど。
「で? 言ったの?」
「これ以上この話続けるなら……殺すわよ」
私が不機嫌なことをわかっているくせにそれでもこうできるのは早瀬だからこそだけど。
「えっと……そのお二人って……」
険悪ではないけれど、穏やかでもない雰囲気の中カウンター越しにあおいちゃんは恐る恐るそれを口にしていた。
軽々しく口を出していい話題ではないのはわかっているのだろうけれど、それでも興味が勝るらしい。
「あ、知りたい? そういえばここに来るようになる前の話か」
「早瀬? 人を言ってることがわからないの?」
今度は冗談ではなく瞳に力を込めて威圧するように声を発する。
「………はーい。というわけでごめんねあおいちゃん。この話はなかったってことで」
「あおいちゃん、好奇心は猫を殺すわよ」
「……はい」
事の重大さ(深刻な意味ではないが)を理解したのかあおいちゃんは神妙に頷いた。それでも何か探るような瞳をで私と早瀬を交互に見た。
(……まぁ、この反応を見れば経緯はともかく事実は想像できるでしょうね)
それはすみれも同じか。
一応あの場は収められたけれど、すみれがそう簡単に引き下がるとは思えない。
何かしら対策を考えなければいけないのだけど。
(それよりも)
「あおいちゃん?」
「っはい」
「おかわり、もらえるかしら?」
まずは余計なことを想像しているであろうあおいちゃんへとプレッシャーをかけてから、
「あと、今日はあんたのおごりで」
「…………文葉の分、半分ってことで勘弁して」
精神的な被害は、物質的な報いで早瀬に責任を取ってもらうことにした。
◆
私と早瀬との関係というと少し妖しく聞こえるかもしれないけれど、当事者の私達からすればそれほど深刻なものじゃない。
軽率に他人に話せるものではないけど、どうしても忘れたいというほどでもないし、それも私の歩んできた人生の一部なのは認めている。
……消せるものなら消したいが。
と、私の心情をともかくもやはり外から見れば気にしないわけにもいかないのかもしれない。
まして、自称とはいえ恋人であるのなら。
「すみれからね」
あの事を話してから数日後、翌日が休みということで羽を伸ばしてゆっくりと湯船につかっていた私はお風呂上りにベッドの枕もとで充電していたケータイを確認して呟く。
(……本の続きを読もうかと思っていたけれど)
休み前の入浴後は眠気が来るまで本を読むのが常だった私だけれど、恋人からの連絡を無視するわけにも行かない。
私は充電器から外したケータイを取るとベッドに上がって壁を背にしてすみれへと電話をかけた。
メッセージアプリでやり取りをしてもいいのだけど、すみれは電話がお好みのようで連絡はなるべく通話をするようにしている。
「……………」
つながるまでの間、クローゼット以外にはテレビと本棚くらいしかない部屋を眺めていると十秒ほどですみれは電話を取る。
「すみれ? 悪かったわね、お風呂入ってて」
素直に返事をしたすみれに取れなかった理由を説明する。それは何も問題ない発言であったはずだけれど
「ふーん、あの女と一緒にいるから取れないんだと思ってた」
開口一番に不機嫌さを伝えてくる。
やれやれ。
とため息でもつきたいところだけれどそんなことをしていたら余計に不愉快にさせるだけだ。
「あのね、言っておくけど早瀬とはすみれが想像してるようなのじゃないから」
「どうだか」
「意外に根に持つというか、嫉妬深いわね。すみれって」
「好きな相手に嫉妬をしない方がおかしいと思うけれど?」
「それは否定しないけれど……まぁいいわ。ところで何か用?」
本当にやれやれと言いたいところ。ただこれ以上話していても建設的な方向にはならないと話題を変えることにする。
「あぁ、そうだわ。デートをしましょうって言おうと思ってたのよ」
「デート?」
「えぇ。確か文葉が見たいって言ってた映画明日から公開でしょ。一緒に行ってあげるわ」
「それは……まぁ、ありがたい話だけれど」
確かに以前、すみれと話しているときに今度映画を見たいという話はしたし、一人で見るよりは誰かと見た方がいいのも事実だ。
ただ別にどうしてもというわけではなかったし、公開日が明日だということも今言われて思い出したくらいなのに。
「何よ、歯切れ悪いわね。私と一緒なのが嫌なの?」
「違うわよ。すみれがわざわざ映画に誘ってくれるなんて意外だって思ってただけ」
「別に映画に興味があるわけじゃないわ。文葉が見たいっていうから付き合ってあげるだけ。それに、どうせあいつとは映画デートくらいしたことあるんでしょ」
「っ………」
やれやれというか、今度は思わず笑ってしまいそうになった。
ううん、表情はついにやけてしまっている。
独占欲は強い上に子供みたいな嫉妬をするというのはわかっていたけれど、
すみれがこうしたところを見せるのは中々面白いものだ。
いや、可愛らしいと言ってもいいかもしれない。
「文葉?」
「っ、あぁ。ごめんなさい。それじゃ、デートをしましょうか」
我ながら少しはすみれのことを理解してきたかなと思い快諾するもののこのデートの約束は思わぬ結果を招くことになる。
◆
そして、翌日。
以前、すみれに選んでもらった服と眼鏡をしながら駅ですみれを待っている私は、本人ではなく電話から声を聞くことになる。
曰く、体調を崩したそうだ。
(昨日の電話じゃなんともなさそうだったけど)
まぁ、急にそういうこともあるか。
(チケットの予約はしてしまったけれど)
事前に映画のチケットは取っているし、すみれにも気にせず行ってこいとは言われている。
それはおそらく正解の道なのだろうけど。
こう見えて恋人の体調が悪いというのにそれを無視できるほど薄情な人間ではない。
私はそれを思うと映画館へと向かう方向とは別のバスに乗り込んでいった。
(すみれは……どう反応するかしら)
バスの振動に揺られながら私はこれからすることに対するすみれの反応を想像する。
わざわざ説明するまでもなく、お見舞いにいくということなのだけどすみれはそれに対してどう思うかわからない。
付き合い始めてすぐの頃であれば、自分の言ったことを無視して見舞いにくるなと怒る姿も想像できたし今もその可能性が高い気もする。
ただ、意外に可愛いところもあることは知っているしもしかしたら見舞いに来てくれたことを喜んでくれるかもしれない。
少女みたいなすみれも悪くはないし、それを見てみたいかしら。
いつの間にか目の前にいるときよりも彼女を気にかけている自分をおかしく思いながら彼女の家の傍までつくと。
「……ここ、よね?」
彼女が住んでいるはずのマンションを前に私は思わずつぶやいた。勝手に言葉が出てきてしまった。
「……お金持ちなんだろうなとは思ってたけど」
目の前にあるのはこのあたりの建物としてはかなり巨大なマンションだ。そういった事情に詳しいわけではないが、恐らく私の薄給では家賃を賄うことができないであろうほどの。
自分より年下のすみれが住んでいるというのは信じられないというよりも受け入れがたい事実だ。
なんともむずむずと嫉妬というか面白くない感情が湧いてはしまう。
とはいえ、それを表に出すほど子供でもない私は驚かせようと部屋の前で行こうとしてそれ以前に入口のオートロックに足止めされる。
さすがというか。
調度品までもが存在するホテルのロビーにも似た豪奢な入口。そこに設置されているモニターから部屋に連絡をし開けてもらわなければならないものらしい。
(とりあえず電話かしらね)
ここでのモニターよりもおそらくは気づいてもらいやすいと携帯を手に取り、すみれへと連絡をする。
(よく考えたら寝てたり病院行ってるかもしれないのよね)
そんな可能性も考えていたが、それは杞憂らしく数コールですみれと繋がる。
「何か、用?」
少し掠れ、消耗を感じさせる声。
(辛そう)
素直な感想を抱くものの、それに反して
「今、どこいると思う?」
普段はしないような明るい声で告げた。
「……ん? 何」
「今すみれのマンションの入り口にいるの」
「……わけ、わからないんだけど?」
「お見舞いに来てあげたのよ」
「……映画行けって言った、でしょ」
(こっちの反応か)
まぁ、すみれならこういう方が似合っているかな。素直に感動されてもそれはそれで心地が悪い。
「というか、なんで私の部屋を知っているのよ。教えてないはずだけど」
「…………企業秘密ね」
「……だから、それ犯罪なんじゃないの?」
「さて、なんのことかしら?」
すみれは情報の出所が司書として入手した個人情報悟るがそれを口にするのはまずいため言葉を濁す。
「……文葉がそこまで不真面目な人間だとは思わなかった」
「褒め言葉として受け取っておくわ。それよりもうここまで来ちゃったんだからお見舞いさせなさいよ」
「……わかったわよ」
そうして私はまんまと恋人の家に初めてお邪魔することになる。
◆
マンションは内部も隅々まで清掃が行き届いており、本当に高級マンションだという印象を強くさせられたがすみれの部屋に入った時にはまた別の衝撃を受けた。
「悪い、けど……もてなす余裕なんてないわよ」
出迎えてくれたすみれはそういうと通されたすみれの寝室のベッドに横になる。
それを見送ってから部屋を見渡すと、その殺風景さには驚いてしまう。
余計なものが何もない。
この寝室なんてベッドと化粧台とクローゼット程度。
部屋を装飾するものはなく、フローリングの床がほとんど見えてしまっている。殺風景というよりは生活感がないと言えるかもしれない。
「人の部屋、じろじろ見てるんじゃないわよ」
ベッド脇に立ちながらそうしていると部屋の主からもっともな小言を頂く。
「どうせ、何もなくてつまらない部屋だって思ってるんでしょ」
すみれはベッドの上で頬を赤くしながら少しいじけたように言って見せる。
元々の顔だちのよさともあいまり劣情を誘う姿にも見えなくはない。
(……早瀬じゃないんだからそんな無差別に思わないけど)
それでもすみれのこの姿を見られたというだけでも貴重な瞬間だろう。
「らしい部屋だって思っただけ。いいじゃない、今はまだ何もないだけでしょ。何かあった時にはすぐそういう部屋にできるし。私の部屋なんて本の置き場がないくらいなんだから」
「……そういえば、私だけ部屋を見られたのは不公平ね。今度、文葉の部屋行かせなさいよ」
「構わないけど、まずは体を直しなさい。ご飯は食べてる?」
「……食欲ない」
「真っ赤な顔をしてるし、でしょうけどでも何も食べないのはよくないわよ。少ししたら消化にいいもの作ってあげるわ」
「……文葉、料理できるの?」
「これでも働き出してから五年以上自炊してるのよ。一通りはできるわ」
「……ふーん。まぁ、恋人の手料理っていうのも、悪くはないわ」
ベッドの上からすみれは意外にも素直に言ってくれた。
乱れた髪と、少し潤んだ瞳。艶っぽいみてくれ。
体調を崩していても態度自体は普段とそれほど変わらないように思える。
それでも素直に感情を吐露してくれるというのは彼女が少しは私に心を許しているということかもしれない。
勝手にそう思いながら私はすみれに寄り添うと軽く顔の汗を拭く。
「ちょ、っと……どうせまた汗はかくんだしいいわよ」
「それでも、そのままにしておいていいことはないでしょ」
「はい。それと水分も取らないとまずいだろうから、これ飲んでね」
「っは、ぁ……わかった、わよ」
熱っぽい吐息をと実際に触れた火照った頬。一人でいてどうにかなってしまうことはないだろうが、それでも来たことを肯定できる程度には調子を崩していることに、不思議と安堵する。
「それじゃ、私はここで本でも読んでるから。何か食べたくなったり用があったら呼びなさいな」
言って、ベッドから少し離れたところに化粧台のイスを置くとそこに座って持ってきておいた本を広げた。
「…………ありがと」
病気で弱気なのか強がらずに行ってくれるすみれのその言葉は嬉しかった。
◆
お見舞いということで当然ながら基本的にすることはない。
自分の横に控え無心に本を読む私にすみれは最初は居心地悪そうにしていたものの少しするとなれたのか大人しくベッドに横になっていた。
たまに声をかけられることはあっても積極的な会話をすることはなく、時間は経ちそろそろお昼になっていた。
「さて、そろそろ何か作るわね」
手にしていた本を閉じ、椅子から立ち上がりながらそれを告げる。
「……食欲はないんだけど」
「その気持ちはわかるけど多少は食べないとね。おかゆか雑炊ならどっちがいい? ご飯は朝炊いたのがあるって言ってたわよね」
「…………雑炊」
「了解したわ。キッチン借りるわよ」
あっさりと納得してくれるすみれに多少は扱いもうまくなったなとキッチンに向かうと、これも明らかに一人暮らしには広いダイニングキッチンを使い事前にある程度買ってきておいた材料を使ってすみれご要望のわかめ雑炊をこしらえていく。
さっきすみれにも言ったけれど、料理は手慣れたもので初めての場所で器具の場所に多少戸惑いはしたもののそれ以外は特に手間取ることなく料理を行っていく。
(あんまり使ってなさそうね)
途中そんなことを考えながらついでに多分すみれはあまり料理をしないのだろうと勝手な想像をしつつ一通り二人分を作り終えると、すみれの元に運んでいく。
「辛いのなら食べさせてあげるけどどうする?」
「……そのくらいは自分でできるわ」
「そう」
ベッドの上で体を起こすすみれにおぼんと茶碗を渡すと私も隣で膝に雑炊を置く。
「あ、また汗かいてるわね」
「んっ……ちょ、っと」
すでに何度かしていることもあって抵抗はしないもののすみれは居心地悪そうに私に汗を拭かれている。
「思ったよりも汗かいてるわね。ご飯食べたら体拭いてあげるから着替えなさいな」
「……っ」
その一言にガタっと震えるすみれ。
「?」
心なしかさっきよりも顔が赤くなったようにも思えるけれど……
まさか恥ずかしいとでも言うの?
子供じゃあるまいしその程度のことで動じるのは少し意外だ。
「い、いいから食べさせなさいよ。せっかく作ったのに冷めるでしょ」
この時すみれが言ったのはどういう意味なのかよく考えればわかり切ったことだったかもしれないが、私はそれを勘違いして、彼女のスプーンを手に取ると
「はい、どうぞ」
と一口掬ってすみれの元へと差し出した。
「っ。ちょ、っと何よ」
「? すみれが食べさせろって言ったんじゃない?」
「さっきのは、食べるから汗ふくのをやめろって言っただけよ」
「……あぁ」
なるほど、それは確かに私の勘違いだ。
「まぁ、いいわ。とりあえずせっかくだから一口くらい食べなさいよ」
と、口元へと近づけるとすみれは、照れるというよりはばつの悪そうに私をにらんでから前に照れていた髪をかき上げて整った形の唇を開けると雑炊を流し込んだ。
「んっ……ん」
「どう?」
「……んっ……こういう時にそれを聞かれてまずいなんて答えるほどひねくれてはいないわよ」
「すみれなら言いそうなものだけど」
「……普通においしいわよ」
「そう、良かった」
「あとは自分で食べるからスプーンは返しなさい」
こんな時でも強い口調のすみれを可愛く思いながらも素直にそれを渡して後は穏やかに食事を取る。
その間はあまり会話がなかったが、ちらちらとすみれはこちらを見てきて何かしら言いたそうな雰囲気は感じたもののこちらからいうことではない気もしておとなしく食事を終えた私は軽く片づけをしてから、
「……ちょっと、ほんとにする気?」
すみれをベッドの上で脱がせていた。
「ほんとも何もするって言ったじゃないの」
整ったラインをした綺麗な背中。沁み一つなく瑞々しい肌。
汗のせいで湿り気を帯び、熱を持った体はどことなく艶っぽくもあるが、早瀬じゃあるまいし軽率に欲情することなんてなく私は冷静にタオルを持ってすみれの体に触れた。
「ひ、ぁ」
「………」
くすぐったような声にも特に感想を漏らすことなく、私は冷静に彼女の背中の汗を拭きとり、一通り背中を終えると
「ん、と」
「っ!?」
今度は正面に回ってお腹や胸周りにタオルと当てる。
「ふ、みは……」
(結構、らしい下着ね)
黒でレースの入った下着。病気で寝ているのにわざわざ飾り気のあるものにする必要があるのかとも思ったけれど、もしかしてデートということで気を使ったのかと思うと可愛らしく思える。
(……?)
何故か白かった肌が赤みを帯び、汗が浮かぶ。
(熱が上がったのかしら?)
それなら大変だと、私はしやすいように体を固定するためにすみれの腰に手を回すと
「きゃ!」
と、可愛らしい悲鳴と共に体を引かれて距離を取られた。
「ま、前は自分でできる……から」
顔が赤い。
それはおそらく風邪で体が火照っているからじゃないんだろう。
(あぁ、なるほど)
遅まきながらすみれの反応の理由を察する。
すみれは本当に処女なのね。……おとめ、と振り仮名を振らせてもらうわ。
もしかしたらこれまで誰にも肌を晒したことがないのかもしれない。
「このくらいで恥ずかしがってたらいくら勉強したってとても恋人のすること、なんてできないんじゃないの?」
「っ……さ、最低!」
私としては品のないからかいのつもりだったのだけれど、すみれは軽蔑するような表情と声色で私をにらむ。
(……確かに今のはちょっと軽率だったわね)
ただでさえ早瀬との関係を疑われているときにこんなことをすべきではなかったかもしれない。
「ごめんなさい。私が悪かったわ」
言い訳できることなどなく素直に頭を下げるとすみれへとタオルを手渡し、刺激にならないように彼女に背を向ける。
余計に彼女の立てる音を気にしないこともないけれど、私は改めてすみれがあらゆる「経験」のない世間知らずのお嬢様だなという印象を強くすることになった。
◆
機嫌を損ねてしまったかもしれないと思ったけれど、すみれは汗を拭き着替えを終えると少し恥ずかしそうではあったけれど一応ありがとうとお礼を告げてきた。
デリカリーがなかったのはこちらであるけど、それとは別にするべきことが出来る。
なんとなく育ちの良さというものを意識する出来事だった。
「ねぇ、文葉はいつまでいるつもりなの?」
着替えたパジャマでベッドに横になったすみれは濡れタオルを替える私に声をかける。
「特に考えてはいないわ」
「……別にもう帰ったっていいのよ。最初から看病しろだなんて言ってないんだし」
「もしかして気にしてるの? わざわざ休みを使わせてるって」
「……そんなんじゃないわよ。ただここに居たって暇だろうって思っただけ。別に私は一人で平気だし」
(……ふむ)
ほんと最初すみれに抱いた印象は大分間違ってたみたいね。
しおらしいというか人に気を使えるとは思っていなかった。ただ、それがどこか強がりにも思えて私は軽口で答える。
「【恋人】を見捨てて帰るほど薄情じゃないわ」
「……文葉って都合のいい時だけそうやっていうわよね」
「さて、何のことかしら」
意識はしてなかったけれど確かにそうかもしれないなと軽く頬を歪めながら私は、すみれから少し離れた場所に座ると再び持ってきていた文庫本を広げる。
「すみれが邪魔だって言うのなら帰るけど、そうじゃないのならせめてこの本を終わるくらいまではいさせてもらうわ」
「……なら、好きにしなさいよ。あとで休みが潰れたって言われても知らないから」
「えぇ、好きにさせてもらう」
すみれの扱い方にも慣れてきたなと思いながら私は文庫本を「最初から」読み始めることにした。
◆
すみれはあの後少しすると寝入ってしまい、私は基本的には本に集中しながらたまにすみれの汗を拭く程度のことをし時間を過ごした。
結論から言うと私は持ってきた文庫本を二周にわたって読み終えることになった。
帰ろうと思わないでもなかったけれど、放っておきたくなかったのが三割ほど。あとはあまりにも目を覚まさないため、鍵がかけられずに帰ることが出来なかったというのが七割ほど。
すでに暗くなった窓の外を見てはどうしようかと悩んだ後、とりあえずと勝手に買ってきていた残りの材料で夕食を作らせてもらう。
面倒なのですみれの分と共用で鶏肉と生姜とネギそれとしいたけがあったので鶏粥にすることにした。
昼間には雑炊で似たメニューになってしまったけれどまぁ、病人にはお似合いでしょ。
「……文葉?」
台所で調理を終えすみれの様子を見にいこうかと考えていた背中にすみれの意外そうな声をかけられる。
「あぁ、起きたの?」
「まだ……いたのね」
「本が読み終わるまではいるっていったはずだけど?」
普段の調子で軽口を叩く。すみれならここでとっくに読み終わってるはずでしょと言うはずだが……
「………そ、う」
「?」
予想とは異なり、なぜか真剣な瞳でこちらを見てくる。
熱のせいか潤んだ瞳は相変わらず色っぽくはあるが、いちいちそれに欲情するほど軽くはなくベッドに戻るように伝え、すぐに夕食を持っていった。
長く寝ていたせいで頭が働いていないのか私の作った粥を素直に食べ、寝ていて汗をかいただろうからと懲りずに体を拭こうとする私にも応じた。
ただ、その間会話はほぼなく、意味のある会話と言えば背中を拭いていた時に
「……今日はもう遅いから」
最初は帰れというのかとも思ったが、続いたのは
「泊っていきなさい」
というものだった。
おかしくはない誘いではあるものの、昼間寝る前にはむしろ帰らさせたがったようにすら感じていたがどういう心境の変化なのかしら。
そうしてなりゆきで恋人の家に泊まることになった私。さすがにお風呂を始め落ち着かない心地はしたけれど、特に何か問題は起きるわけもなく日付が周るころとなる。
すみれのベッドの隣に布団を敷いて談笑をする私達。
すみれにはもっと早くに寝てほしかったところだけど昼間あれだけ寝てては寝付けないもの無理はなく、就寝前に無為な会話を交わす中すみれから予想外の衝撃を受ける。
「結局………文葉はあの女とどういう関係だったの?」
ベッドで上半身を起こすすみれが口にしたとげを含んだセリフ。
ふと、二人の会話が止まった中で告げられたそれは二人の間の空気を緊張させるには充分の迫力を含んでいた。
「また急ね。話したくないって言わなかったかしら?」
私は当然話したい事柄でなく彼女から借りたパジャマを身に着けたままあえて視線を外す。
「気になったのよ。看病も手慣れているみたいだしそれに……」
「……体を見るのも気にしていないから?」
「っ……」
また顔が赤くなった気はするけど、風邪のせいにしておこう。
自分の性的思考を理解できていない少女じゃあるまいし、いくら絶世の美女と認めるすみれの下着姿とはいえそれだけで興奮することはない。
対してすみれは少女のようね。
どういう人生を送ってきたかは相変わらず謎だけれど、交際の経験どころか他者とほとんど交わることなく生きてきたのが想像できる。
同時に私のことを本気で好きなのかとも。
過去を知りたいというのはそういうことだろう。
「い、いいから答えなさいよ」
「…………」
私の気持ちはともかくとして、もしすみれが私のことを好きだというのなら正直に答えてあげるべきだ。
ただ、すみれが疑いをかけているような過去ならともかく……
「話すと幻滅されるから嫌」
「ほんとは今でも付き合ってるとか、私よりも好きだってこと以外じゃなければ許してあげるから話なさい」
(……やれやれ)
気づかれないように嘆息する。
そもそも今までだって聞く機会があったのになんで今聞いてくるのかしら。
すでに帰る時間じゃなくて逃げ場がないということなら絶好の機会とはいえるかもしれないけれど。
(……へぇ)
すみれに視線を送ると意外にもすみれは平静なようにも見える。ただ、その中に隠し切れない不安があるようにも見えた。
ううん、不安というよりは本気なんだという緊張を感じさせる。
(それなら答えないわけにもいかない、か)
すみれが本気だとしたらそれを濁すのは礼を失すると言っていいだろう。
「ふぅ」
今度はこれ見よがしにため息をつく。
「幻滅するのは勝手だけど、絶対に人には言わないように」
「隠したがってることを言いふらすほど悪人じゃないわよ」
「隠したがってることを無理に聞き出そうとはしているけれどね」
私は三度、つかれたようにため息をついてから
「……一緒に住んでた時にそういう関係だった時期があるの」
人としての品位を落としかねない言葉を発した。
「そういうって付き合っていたってこと?」
「……どういう言葉を使うのが適切なのかは任せるけど、早瀬のことを恋人として好きになったことはないわ」
「? でも、その……してはいるんでしょ」
「あんた……」
鈍いというべきか、おとめというべきか、ここでも言葉に迷い、
「エッチはするけど、恋人じゃない。そういう関係」
端的に関係を告げた。
「そ、それって……」
どうやらそういうことに疎いすみれでも適切な言葉を見つけたようで見るからに動揺している。
というか、私が見てきたすみれの中で一番の乱れかたじゃないかしら。
「だから言ったでしょ。幻滅するって。一応名誉のために言わせてもらうけど、女なら誰でもいいとかじゃないから」
こういうと早瀬だけが特別なように聞こえるか。
(……特別でもなければしないけど)
「あの女じゃないとだめなのに、恋人じゃない……?」
「若気の至りってことよ」
といってもお子様なすみれにそういうことを語ろうとしても理解はできないか。私もあくまで私の感覚として理解しているだけだし。
「………………」
黙ってしまうすみれ。
何やら小難しい顔をしている。
(やっぱり話すべきじゃなかったかな)
どうやらすみれは普通よりも貞操観念が高いようだし、生娘のようだ。
昔付き合っていたということならともかく、恋人でもないのにそういうことをしていたというのは理解しろというのは無理な話かもしれない。
もっともそこにはそれなりの理由はあるのだけれど……すみれからみたらふしだらな人間だと言われても仕方ないかもしれない。
(最悪別れろとでも言ってくるかしら?)
こちらとしては恋人として付き合っているつもりはまだないが。
ただ、友人でなくなるとしたらそれはそれで寂しいものがあるのでやはり軽率な発言だったかもしれない。
と都合の悪い展開を妄想していると
「っ…?」
すみれが急に電気を消して部屋の中が暗闇に包まれる。
「……もう寝るから」
と体を横にした気配を感じる。
暗闇の中じゃそれを口にしたすみれの表情も見られず感情も読み取れない。
早瀬とのことについてこれ以上こちらから口にするのも妙な気がして私もおとなしく布団に横になる。
そのまま私は影を浮かぶ程度のすみれの姿を見るが何を思っているかはわかりようもなく、またこれ以上の会話が続くことも考えられず私も寝ようかと、すみれに向けていた体を天井へと
「……私、今まであんまりお見舞いとかされたことないのよね」
ポツリと、すみれが呟いた。
相変わらず感情は読み取れずまた口をはさむべきかも迷っているとすみれはさらに続ける。
「だから文葉が来てくれて嬉しかったし……色々気を使ってくれたこととかありがたかったし……」
「……………」
「それに……昼間寝て起きた時に最初帰ったかと思って悲しくて……でも、またご飯を作ってくれてて泊ってくれたの……嬉しかった」
(……語彙力のない子ね)
声を出してはいけない気がして心の中だけで突っ込みを入れる。
「だから……今日は、ありがと」
そこですみれの独白は終わる。
てっきり早瀬とのことに言及するものだと思ったけれど、そのことを無視し私のこと、それもよかったことだけを伝えてくるすみれ。
「……………」
答えるべき言葉がないわけではないが、今それを口にするのはすみれが望んでいないような気もする。
そうして私は結局何も返答はしないまま初めてのすみれとの夜を過ごすことになった。
◆
あの日の翌朝になるとすみれの体調は大分治っていたようで、朝食こそ用意させてもらったけれど、その日にしたのはその程度で昼前には帰れとすみれに強く言われ、その時の妙な迫力と体調が戻っていたこともあって従った。
それから三日ほど。
メッセージのやり取りはしても直接会うことも、電話すらせずにその期間を過ごした今日この日。
(ん?)
お昼に行くからあの場所で待っていて
仕事を始めたばかりの時間。すみれからそんなメッセージが送られてきた。
傍若無人でわがままなすみれではあるが、当日に会う約束を取り付けてくるのは珍しい。
まさか緊急の用事があるというわけじゃないでしょうけど。せいぜいこの前のお見舞いのお礼程度かしらね。
考えてもわかることではなくて気にしつつも業務に精をだして午前中を過ごした。
すみれが来ることを待ちながらの仕事は不思議と早くすぎ、お昼時。
ランチに誘ってきた早瀬の誘いを袖にし、まっすぐといつもの待ち合わせ場所へと向かう。
図書館の三階。袋小路になっている通路の奥まった場所の本棚の間。
今日もそこに足を向けた私は。
私がこれまで出会った中でもっとも美しい容姿をしている人物を見る。
艶やかな長い髪に、切れ長の瞳、形の整った唇。ふくよかな胸に惹きつけるくびれ、モデルのように細いふとももと長い脚。
「なに?」
彼女を見て思わず立ち止まった私にすみれは首をかしげながら問いかけてくる。
「なんでも。相変わらず綺麗だと思っただけよ。それこそ図書館の妖精って評してもいいくらいにね」
……なんだか、早瀬みたいね。
私としたことが恥ずかしい限りだと反省する限りだが。
「……ありがと」
こういった類の軽口があまり好きではないすみれが素直に賛辞を受け取っていた。
意外ではあるもののそれに突っ込みを入れるほど野暮ではなくすみれとの距離を詰めていく。
「体調はもうよさそうね」
「おかげさまで」
「なら、看病してあげた甲斐があったわ」
「……えぇ。そのことは感謝してるわ」
「それで、今日は何の用? 珍しいじゃない、当日に会いたいになんて言ってくるなんて」
(【恋人に会いたいと思うのに理由がいる?】 か、【文葉は私が会いに来てあげるのが嫌なの?】あたりかしら)
無礼な想像しながら、すみれの反応を待つと予想外の言葉が出ることになる。
「お礼、しに来たの」
「お礼?」
「お見舞いやら世話をしてもらって、何も返さないほど薄情じゃないのよ」
それは殊勝な心がけね。
そのことはいいけれど、それならデートにでも誘えってその時にでも渡せばいいのに。
(というより、見た限り手ぶらだけど)
別に御礼が欲しいというわけではないけれど、何も持っていないのに何をお礼するつもりなのか。
そう戸惑う私にすみれは躊躇なくわたしとの距離を詰める。
目の前に迫ったすみれの顔に、近いなと思った次の瞬間。
髪が頬を撫でて、甘い香りがしたかと思うと
(っ!?)
唇、に……柔らかな弾力。
それは知っている感触だったはずだけれど、唇で感じるのは初めてのもので。
しかも、
「す、みれ?」
何をされたのかは理解したものの、なんでされたのかは理解できない私が彼女の名前を呼ぶと、すみれは頬を染めていて
「……私のファーストキスをあげたんだから感謝しなさい」
声には動揺は感じられない。普段の涼やかな響きが耳に残る。
だが、瞳には何かを決意したような潤みがある。
この【お礼】がどういう意味かはまだ把握しきれない私は今一度すみれを呼ぼうとするものの
「……今日は、それだけだから」
と素早く踵を返すと本棚の間を抜けて私の視界から消えていった。
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