秘め事は本棚の間で

もフー

本を探して


 この物語は誰のためでもない私、白姫文葉の物語。

 退屈だった私は彼女と出会い、一つの結末を迎えるまでのお話。

 結末までには喜びも悲しみも含めて多くの出来事を向き合っていくことになるが、今から始まるのはその最初の一篇。

 彼女は、一言で言うなら変わった人間だった。

 出会った当初彼女に対する私の印象はよかったわけじゃない。

 私にとっては私が関わる大勢の中の一人で、その中で少し特殊な相手だったというだけ。

 出会ってしばらくは特別でも何でもない人間だった。少しすれば二度と会わなくなる一人だと。

 だが、彼女との終わりになると思ったその日。

 その日こそが彼女との本当の始まりの日になる。


 ◆


 それはある穏やかな春の日。

 薄暗い図書館の一角、背の高い本棚に囲まれた場所。

 静寂が包むその場所でまだ出会って数週間と経っていない私達が向かい合っている。

 この時、私が彼女について知っていることはまだ少ない。どんな人間かと問われれば今の私には綺麗な人だと答えるしかない。

 猫を思わせるような切れ長の瞳に陽光に映える黒髪。薄くリップの塗られた唇。

「文葉」

 その唇が私の名を紡ぎ、伸ばした手が頬に添えられると私の胸はドクンと不規則な鼓動を刻む。

 形いい唇から紡がれる言葉と、妖しい光を宿らせる瞳はどこか蠱惑的だ。

 異様な雰囲気。

 本の香りが漂うその中、本棚に囲まれ誰も私たちを見るものはいない。

 周りからは音が消え続く彼女の声だけが世界を埋めていくような、そんな現実感を失いそうな中で

 彼女が私へと迫り……その唇がある場所へと触れる。

 何が起きたのか理解できない私。そんな私を愉快そうに見据えながら、彼女は彼女特有の有無を言わせない響きで言い放つ。


「私の恋人になりなさい」


 それが私と彼女の本当の始まりを告げる言葉だった。


 ◆


 彼女と出会ったのは数週間前のこと。

 司書として図書館に勤める私はその日もいつも通りに出勤し、何も特別なことのない一日を過ごすはずだった。

 貸出窓口の少し奥、直接は利用者とやり取りしない場所での事務処理と図書の整理がこの日に主に携わっていた業務。

 司書の仕事というと一般的には貸出業務が主なものと思われているかもしれないけれど、今私がしているのはそれを支える裏方だ。

 専用のバーコードリーダーとパソコンを使い、図書の管理をしている私の耳にはある声が響く。

「この前おすすめした本、どうでしたか?」

 図書の相談窓口の方から馴染みのある声。その声にまたかと生温かな目を向ける。

 そこにいるのは少し小柄な体躯に似合う短めの髪に快活さを感じさせる笑顔をもつ女性。

 彼女の名前は早瀬雪乃。私と同じ司書で同期でもある。

 その早瀬が二十代前半と思われる女性と何やら話をしていた。

「面白かったですよ。女の子同士のことが繊細に描かれていて、すごい引き込まれました」

「そうですか、それはよかった。なら今度はこちらの本はいかがですか? 前のを気に入ってくれたのならこれも気に入ると思いますよ。まぁ、この前のよりも少し過激だけど」

「過激、ですか。どんな風に?」

「ふふ、おねーさんが今考えたので間違いないと思いますよ」

(自分の方が年上でしょうに)

 おねーさん、などと軽口を叩く早瀬を半ばあきれながらも二人の様子をうかがうことをやめない。

「やめておきます?」

「い、いえ、その……お借りします」

「はい。ではどうぞ。あ、これ実は私物なので、返却は本に挟んである連絡先にお願いします」

「え? あ、は、はい」

「……………」

 見ていて恥ずかしくなるほどあからさまな、しかしすでに見慣れてしまった光景に辟易としていると目的を果たした早瀬と目が合う。

 見られていたということに気づいた早瀬は満足気な顔でこちらへと近づいてきた。

「……相変わらずね」

「まぁね」

「せめて業務中は控えなさいよ」

「っていっても仕事中だからこそしやすいしねぇ。まぁいいじゃない。文葉ってば固いんだから」

「そういう問題じゃないでしょうに」

 一緒に働きだして五年、定番のとなっているやり取りに再び私はあきれ顔を見せる。

「ほらほらむっとしない。せっかくの美人さんが台無しだよ。もっと愛想よくすればモテるっていつも言ってるじゃない。髪だってこんなきれいなんだし」

 私の背後へと周り早瀬は背中まで伸びた私の髪に自分の指を触れさせ軽く梳く。

「ほんといいよね、文葉の髪。指の間をかかる感触とか好きだな」

「……茶化さないでよ」

「本音なんだけどなぁ。まぁいいや。文葉も怒ることだし、見回りでも行ってくるよ」

「見回り、ね。別の目的があるんじゃないの?」

「何をいいますか。悩める利用者の方に積極的に声をかけて図書館を気持ちよく使ってもらうのも司書の務めだよ?」

 言っていることは間違っていない。司書の仕事は机に座ってただ本の貸し借りの管理をしていればいいというものではない。

 早瀬が口にしたようなことは目立つことはないが、司書としてすべきことの一つだ。

 ただし、早瀬の場合は

「女の人限定で、でしょう」

「んー……行ってきます」

 指摘には反応を示さず早瀬は私から離れると本棚の中に姿を消していった。

 残された私はしばらくの間自分の仕事に集中していたが、少しするとそれもひと段落し手持ち無沙汰になった。

(私も見回りしてこようかしらね)

 先ほど早瀬が口にしたことの表面的な意味は私も司書として大切なことだと考えている。

 図書館のプロとして困っている人間に手を差し伸べることは意義も意味もあることだ。

 青絨毯の床の上、背の高い本棚の間を歩き、館内に問題がないかや困っている利用者がいないかを探すも、平日の昼間では人そのものが多くはなく。そんな図書館の現状に嘆きたくなる。

(それにしても、早瀬は相変わらずよね)

 中々声をかけるべきの相手の見つからなかった私は、今同じことをしているであろう同僚のことを思う。

(……うらやましくもあるか)

 奔放で、あけすけな早瀬の生き方。

「…………」

 働き出して五年。司書は子供のころからのなりたい職業であり、仕事自体は辛いこともあるが充実はしているしまたやりがいも感じている。

(でも)

 私生活が同様に充実しているかと言えば首を横に振らざるを得ない。仕事のある日は何もしなくても仕方ないかもしれないが、休日も家事とあとは数少ない趣味としている読書、それとたまにいく映画程度だ。

 同じことを繰り返している日々。物足りなさを感じるのは確かだが、その焦燥感にも似た気持ちを処理する方法を私は持ち合わせておらず、また停滞感をどうにかしようとする積極性もない。

 日々を楽しく生きているように見える数少ない友人をうらやましくも思えば若干の嫉妬すら感じている。

 友人相手にそんなことを思ってしまう自分を情けなく思う私はちょうど本棚のない開けた通路に出たところで、

「ちょっと、そこの貴女」

 凜とした声に呼び止められた。

 頭の半分以上を早瀬に奪われていた私は、一瞬反応を遅らせたものの反射的に振り返り

「っ………」

 そこに見えた人物に言葉を失った。

(綺麗な、人)

 そこにいたのはそう表現するしかない人だった。

 整った顔立ちと猫を思わせるような切れ長の瞳。陽光を受けて光るセミロングの繊細な髪。グレーのシャツとロングカーディガンが似合い、すらっと伸びた脚に合うパンツスタイルがモデルの様な佇まいを感じさせた。

 そんな美しい女性が自信に溢れた足取りでこちらへと向かってくる。

 ガラス張りの窓から入る逆光がまるで後光のように指し、その超然とした雰囲気に

「妖精、みたい…」

 なんて子供じみた言葉が口をついて出た。

「ねぇ、貴女ここの司書さんでしょう」

 目の前の女性は私の迂闊な一言には気づかったのか芯の通った声でそれを訪ねた。

「……っ。はい」

 自分にはないその強気な様子に一瞬戸惑ってしまう。

「そう。なら、聞きたいことがあるのだけれど」

「何かお探しでしょうか?」

 図書館で職員に尋ねることと言えば用件は想像がつく。司書としての仕事は他にも数多く存在するけれど、一般の利用者に尋ねられることと言えばほぼ間違いない。

「えぇ、そうなの。本を探しているのよ」

「どのようなものをお探しでしょうか」

 そして、今回もその予想自体は正しかったのだが。

「面白い本」

 出てきた用件は想像の外にあるものだった。

 子供ならともかく、見たところ私と同程度の年代の大人が言うようなこととは思えない。

 が、目の前の女性は当然のように【面白い本】と言い放った。

「え……えぇと、何かおすすめの本を紹介して欲しいということでしょうか」

「そうね、そういうことになるわね」

 司書としては過不足のないものをしたつもりだけど、女性は不満というほどではないものの満足はしていない口ぶりで答える。

「かしこまりました。どんなジャンルのものがよ……」

「何でもいいわ」

「え?」

「だから、何でもいいって言っているのよ。私が楽しめるものならどんなものでも構わないわ」

「…………」

 司書としてはあるまじきことだが、思わず私は言葉を失ってしまう。

(何でもいいという言葉ほど難しいものはないのだけれど)

 なにせゴールが見えていないに等しい。

 一見理知的にも見える相手にこんなことを言われるなんてと内心は呆れてしまった。

「すぐには難しいの?」

「そう、ですね。少しは方向性が見えないと」

「だから何でもいいのだけれど」

 この女性は自分を困らせようとしているわけではない。ただ本気でそう言っているのだということは感じられるがそれが分かったからと言って今の状況が改善されるわけでもなく困惑していると。

「すぐには難しいのなら、そうね……三日後にまた来るからその時に紹介してくれればいいわ。貴女、名前は」

「白姫、文葉です」

「そう。私は森すみれよ。それじゃ、よろしくお願いするわ」

「あ……」

 有無を言わせぬ様子ですみれと名乗った女性は勝手な約束を私にさせると、そのまま踵を返したがふと思い立ったようにもう一度振り返る。

「ところで、初対面の相手に妖怪は酷いんじゃない?」

「え?」

「まぁいいわ。三日後楽しみにしているから」

「………………」

 突然現れて、一方的な要求をたきつけ去っていく。

 それこそ妖怪にでも化かされたような気分にはなったが、

「妖精って言ったのだけど……」

 その勘違いに毒気を抜かれてしまう私。

 こんな形容しがたい出来事が彼女との出会いだった。


 ◆


「それはまた変わった頼み事ですね」

 すみれと名乗る女性に困難な要求を突き付けられた夜。私は時折訪れるバーのカウンターで、ポニーテールにまとめられた髪と清潔感を感じさせる衣装に身を包んだ女性に昼間の出来事を話していた。

「こういうことはないわけじゃないけど。まぁ、意外な出来事だったわ」

 彼女の名前は立花あおい。この店のバーテンダーにして、職場以外で私が話せる数少ない友人でもある。

 もともとは早瀬に付き合い彼女に会いに来ていたけれど、一緒に話すうちに距離を縮め早瀬がいないときでも来るようになっていた。

「けど、なんでまたその人は面白い本なんか探してるんでしょうね。そもそも自分で探せばいいのに」

「レファレンスも司書の仕事だからそれはいいのだけれど、あの言い方は困ったわね」

「何でも、ですか。お母さんに怒られちゃいそうな言い方ですよね」

 本来は店員であるのだから私だけの相手をしているわけにもいかないあおいちゃんだけど幸いにして客入りが悪い時などにはこうして話に付き合ってもらっている。

「確かに。でも、それよりも難しいかもしれないわね。母親なら子供の好みもわかるかもしれないけど、話したのも数分だけじゃどんな人かもわからない」

「数分話しただけだとどんな人だと思ったんですか」

「そう、ね……」

 言われて昼間のことを改めて思い出す。

 外見は一瞬目を奪われてしまうほどの美貌で、わずかな会話だけであったが人を圧するような雰囲気があったのを覚えている。

「強烈な人、かな?」

「強烈、ですか?」

「えぇ。なんていうか見た目は綺麗で、少し自己中心的な感じはした。嫌な感じのする人ではないけど……そんな感じよ。どんな本が好きそうかはわからないわね」

 言ってから妖怪と聞き間違えられたことを思い出し「少し、意地悪だ」と付け加える。

「なるほど。っていってもよくはわかりませんけど」

 でしょうね、と私は用意してもらったカクテルに口をつける。

 甘めの好みを理解した味に満足しながら、改めて難しい課題を引き受けてしまったと思う。

 紹介した本が気に食わなかったとしても怒り狂ったりはしないだろうが、どんな反応をしてくるか見えない部分はある。

 カクテルに唇を湿らせながら思案していると、あおいちゃんがそうだと口を開く。

「雪乃さんに協力してもらったどうですか?」

「早瀬に?」

 あまり感情を表に出さないようにしている私だけれど、その前につい顔をしかめる。

「雪乃さんってそういうの得意じゃないですか。私にもいろいろ勧めてくれましたし」

「…………」

 その言葉に間違いはない。利用者に本を薦めるのは早瀬の得意分野だ。私も仕事としても個人としても本には精通している方ではあっても、早瀬はそこにかける熱が違う。あらゆる相手に対応するためにジャンルや新旧を問わずに学び、対象の女性に適した本を薦めることができる。

 それは司書としての使命感というよりは個人的な理由であるが、それでもそれだけの熱意には脱帽する。

 ものの……

(面倒なことになりそうよね)

 直観だけれど、あまり合うタイプのように思えなかった。

「……文葉さん?」

「っ。あ……えぇと、まぁ私が受けたことだから私が頑張ってみることにするわ」

 彼女が純粋な気持ちから提案してくれているのはわかるものの、この件は自分でどうにかすることにした。


 ◆


 宣言通り早瀬には頼ることはなく森さんの指定した三日後を迎えた。

 いつ来るかということは聞いていなかったけれど、彼女は開館とほぼ同時にやってきて私を呼びだした。

「悪かったわね。朝から訪ねてきてしまって」

 他の業務の邪魔にならぬよう図書館の隅の席に対面で腰を下ろすと彼女は額にかかった髪を払いながら言う。

 その姿をやはり綺麗だとは思う。外見もさることながら嫌味を感じさせない勝気な様子が品を感じさせ改めて目を奪われてしまった。

「気にしないでください。仕事ですから」

「……仕事、そうね。仕事だものね。それで、頼んでいたことはどうなのかしら?」

 少しだけ雰囲気を崩したように見えたけれど、次の瞬間には値踏みでもするかのような瞳でこちらを見つめてくる。

 それに気圧されそうになりながらも用意していた本を手に取り一つ一つ紹介を行っていった。

 用意したのは種々様々な十冊。流行りものからドラマの原作。ミステリーや恋愛、歴史物や私が個人的に好きな作家などで、何かしらは興味を引くだろうと高をくくっていたが。

「ふーん。なんだかどれもピンと来ないわね」

 人差し指と中指を口元にあてながら冷静に言い放った。

「……お力になれずに申し訳ありません」

 難しい課題であるとは考えていたものの手を抜いたつもりのなかった私は意気消沈としてしまう。

「別に期待していたわけじゃないから気にしないでいいわよ」

「っ……」

 挑発的にも聞こえる言葉に一瞬表情をしかめる。

「あぁ、気を悪くさせていたらごめんなさい。今のは自分に言ったの」

「?」

「たぶん私はどんな本を紹介されても、興味を持たないだろうって思ってたの」

 意味をくみ取れずに私が首をかしげると彼女は理由を語ってはくれたがそれでもやはり意味がつかめない。

「私は物事にあんまり感心を持てないの。だから今回もそうだろうなと思っていたのよ」

「なら、何故こんな依頼をしたんですか?」

「貴女に一目ぼれしちゃったから、話すきっかけにと思って」

「なっ!?」

 まるで早瀬のようなことを言われ一瞬で頬を染めてしまう。

「冗談よ」

 そう言われ、赤くなった自分を恥ずかしく思うものの次の森さんの言葉と表情にそれ以上に言葉を失うことになった。

「………退屈だったから」

 ポツリとその言葉が紡がれ瞬間その美しい顔から表情が消え、瞳には乾いた光を宿らせる。

 勝手に強そうな人だという印象を抱いていた私の彼女に対するイメージを一変させる姿。

 その姿に何かを言わなければならないような気分にはなったけれど、浮かんでくる言葉は形にならず喉の奥から出てくることはなかった。

「まぁ、そういうわけよ。時間を取らせて悪かったわね。頼んだことは忘れてくれていいわ。それじゃあ」

 彼女は私の言葉なんて待つはずもなく、一応のねぎらいをかけて踵を返す。

 その背中が少しだけ自分と重なり

「待って、ください」

 と声をかけていた。


 ◆


(……なんであんなこと言ったのかしら)

 昼休みになり昼食を終えた私は気晴らしもかねて図書館の中庭を訪れていた。四方を建物に囲まれた緑溢れる中庭はお昼になるとちょうど陽の光に照らされて心地よく、気分転換にはもってこいの場所。

 もっとも心が晴れてはいないのだけれど。

 そう、晴れてはいない。自分でも意図が分からず彼女の依頼に食い下がってしまったのだから。

「勝算もなしにするなんてらしくわかったわね。デューイ」

 備え付けのベンチに座る私は言いながらひざ元の虎ネコを撫でる。

 デューイと呼んだ猫は私の言葉に耳を貸さずあくびをしているだけだが。

「司書としては腕の見せ所なのかもしれないけれど。あの人が興味持つ本って想像できないわ」

 普段それほど口数の多くない私だがデューイ相手には自然と心の裡を吐き出す。職場の人間にはあまり見せない姿だ。

「あなたならどうする?」

 視線を下げるとわずかの間交差するもののデューイは興味なさげに顔を背けた。

「……聞かれても困るか」

 そんな風に油断をして独り言を口にしていると

「驚いた、貴女猫と話せるのね」

 数時間前にも聞いた声が正面から聞こえてきた。

「っ!?」

 顔を上げるとやはり数時間前に見た顔がある。

「森さんっ……帰られたんじゃ」

 猫に話しかけていたということを見られ、焦りと羞恥を感じているものどうにかそれを表に出さず隣に座る森さんを迎えた。

「帰るとは言わなかったと思うけれど? 時間を潰していたらここに貴女が見えたからね」

「そう、ですか」

「それで、さっきからその猫に話しかけているけれど猫と話せるの? それともその猫が人間の言葉がわかるのかしら?」

「ええと……」

 本気とは思えないが、表情が変わらず冗談とも判断しづらい様子。

「名前、なんて呼んでたかしら?」

「デューイ、です」

 名前を反復しながら彼女はデューイへと手を伸ばすと軽く頭を撫でる。

「ふーん。猫の名前としては聞いたことないけれど何か由来でもあるの?」

「アメリカの図書館で実際に飼われていた猫の名前です。本や映画にもなっていて、いつの間にかここに住み着いていたこの子を早瀬……同期の人間がそう呼び始めていつの間にか定着していました」

「なるほどね」

 期せずして雑学を披露する形となったが、彼女の反応を相変わらず鈍く一言で感想を閉め、デューイのことを撫でまわしていた。

「あ」

 見知らぬ相手にそうされることを嫌ったのかデューイは体を震わせると森さんの手から逃れ中庭の芝生の方へと消えていった。

「あらら、嫌われちゃったかしら」

「違うと思いますよ。猫と話せるわけではないので正確なことはわかりかねますが」

「へぇ、貴女冗談も言えるのね。こういうのに付き合ってくれないのかと思っていた」

(……早瀬が言ったりでもすれば無視していますよ)

 むしろ、他人だからこそ適切な会話の距離を取ろうとしただけだ。

「それで、何か御用でしょうか」

「用っていうほどのことじゃないけど、一応言っておこうかと思って」

「何をです?」

「わざわざ頑張らなくてもいいっていうこと。貴女がまた本を紹介してくれても多分私は読もうとも思わないわ。もう忘れていいことなのよ」

 慇懃無礼、というわけではないけれど人の心に配慮した言い方でもない。

 本人は気を使って言っているつもりかもしれないが、期待をしないともとれ不機嫌になってもいいことを言われたのかもしれない。

「……私からも一ついいでしょうか?」

 だが、私は彼女に諦観にも似た空気を感じそれを口にした。

「退屈、というのはどういう意味ですか」

「そのままの意味よ」

 見ず知らずの相手に無礼だったかもしれないが彼女は特別な感情を見せることなく答える。

「私は退屈なの。仕事もプライベートも、誰と何をしててもつまらない。趣味があるわけでもないし、極端に言えば生きることそのものがつまらないのよ。だから、時間つぶしもかねて何か興味の出るような本でも読めたらって思ってただけよ」

 感情を感じさせない、それ故に心がむき出しとなったような乾いた表情が印象に残る。

 本気で人生がつまらないと思っているのだと理解せざるを得ない何かを感じた。

(……………)

 私も少しではあるけれどその気持ちがわかるような気がした。おそらく、彼女とは比べ物にはならないが私も【退屈】であるのは同じであるから。

「私の時間つぶしに貴女の時間を使う必要はないわ。何度も言うようだけどもうやめてくれていいのよ」

 嫌味なく彼女は私に言うが「いいえ」と首を振る。

「貴女の気に入る本を紹介して見せます」

「………」

 予想と違う答えが返ってきたのか森さんは「へぇ」と小さくこぼし、私の前で初めて素の感情を漏らし、わずかな笑みを作った。

「期待しないで待っているわ」


 ◆


 森さんのために本を探すとはいっても、業務時間内のすべてをそれに費やすわけにはいかずできる時間は限られる。

 休憩時間や昼休みにも多少の時間はあるがまとまった時間を取ろうとするとどうしても業務終了後になってしまう。

 再び彼女と約束してから三日、毎日のように職員用の事務室で私は難解な課題と向き合っていた。

(あの人の琴線に触れる本か)

 生きることが退屈だという彼女が面白いと思える本。それは極端に言えば彼女の人生を変えるきっかけになれる本。

(……そんなものが私に見つけられるの?)

 ふと、それを考えてしまうと不安にもなる。

 意気込みはあってもそれだけ仕事が回るのであれば誰も苦労はせずついため息をついていると

「ふーみは」

 背後から柔らかな衝撃を受けた。

「……早瀬、離しなさい」

 声と慣れた感触に顔を確認せずとも的中させ、早瀬ははいはいと反省を感じられないまま私から離れ、近くから椅子を持ってきて横に座った。

「ねぇまだ帰らないの? 明日休みなんだしどっか食べにいこうよ」

「私はもう少し残っていくわ。早瀬は気にせず帰っていいわよ」

「文葉と一緒がいいんだけどなぁ」

「それは残念だったわね」

 軽口にはまともに取り合わず目の前の作業へと戻る。

 簡単に諦める気はないのか、しばらくの間早瀬は大人しく私のPC画面や手元の資料を眺め、そこでようやく私がなぜ残っているかを察する。

「あ、それって例の? おもしろい本を紹介して欲しいってやつ」

「そうよ」

「確か綺麗な人だって言ってたっけ。なるほど、だからそんなに頑張ってるのか」

「そういうんじゃないから。早瀬と一緒にしないで」

 以前にあおいちゃんが言っていたけれど早瀬はこういったことが得意でまた積極的に自分から声もかけている。その目的の大半はその女性と仲良くなるためであるため早瀬の基準で考えれば普通の発言かもしれないが。私の理由とはまるで合わず呆れて答える。

「じゃあなんでそんなに頑張ってるの? 確か向こうからももういいって言われたとか言ってたでしょ?」

 早瀬には仕事での出来事を話すことが多く、今回の経緯も話しているためその指摘はもっともであろう。

「退屈だって図書館を頼ってきた人を司書としてどうにかしたいと思うのはおかしくはないでしょう」

 八割ほどの理由を込めた回答。残りの二割は自分でも言葉にしづらい上に早瀬相手ではなおさら言いづらいことだ。

「相変わらず文葉は真面目だね。まぁ、文葉のそういうところが好きなんだけど」

「それはどうも。………もう少ししたら上がろうと思ってるからそれでよかったらご飯付き合ってあげるわよ」

「いいの?」

「悩んで解決するわけでもないからね。それに、早瀬が休み前に誘ってくるっていうことは振られたってことでしょ」

「……振られてないし。予定が合わなかったってだけだし」

「まぁ、そういうことにしておきましょ」

 それが本当なのか体のいい理由だったのか私にわかるはずもなく、またそれほど興味もないがそれでも数少ない友人のためにたまには付き合ってやろうとパソコンを閉じた。


 ◆


 時間は無常に過ぎてしまうもので早くも二回目の約束の日がやってくる。この前とは異なり午後にやってくると約束しており、午前中は森さんのことを頭によぎらせつつも真面目に仕事をこなした。

 この日は日曜日で普段と比べて人が多く、昼休みまで時間を使ってしまい昼食もとらずに彼女との約束の時間となった。

 場所は以前と同じ奥まった場所の席。相変わらずの飄々とした様子で私に迎えてくれる。

 挨拶と簡単な雑談を交わした後、本題へと入ろうとすると。

「待って」

 と、制された。

 彼女の方から自分に用などないはずだと思い込む私は首を傾げ、さらに彼女の一言に困惑する。

「貴女ってずいぶん一生懸命に仕事をするのね」

「? どういう意味でしょうか」

「今だって午前中に子供の相手をしていてお昼もとっていないでしょう?」

「…………」

 指摘通りだった。

 お昼前に小学生の少女に本を探したいと言われて対応をしていた。

 その少女の探す本というのは今回の依頼とは異なり答えの見えるものだったが、思いのほか時間がかかってしまい昼食をとる時間を犠牲にしてしまったのだ。

「どうして、そのことを」

「貴女との約束はこの時間だったけれど早く来ないとは言っていないわ」

 つまり早めに来て私を観察していたということですか? と頭には浮かんだものの自意識過剰にも思えて口を閉ざす。

「私のこの件だって頑張らなくてもいいって言っているのにわざわざ時間を取ってくれてるし、どうしてそんなにするの?」

 本題からずれてしまっている気はするが、これは彼女を相手にする上でごまかしても、はぐらかしてもいけないことだと直感し私は真剣な瞳を向ける。

「……やりがいを感じているから、でしょうか」

 ほぼ見ず知らずの相手に何をと思う自分もいるが、それでも自然と心の裡から言葉が出てきた。

「……やりがい、ね」

「さっきの女の子にしても、本を見つけたときとても嬉しそうに笑ってくれました。あぁいう瞬間は嬉しいものです」

「他人を喜ばせるのが貴女のやりがい?」

「それも、ですね。私は図書館に来てくれた人には何かを得てほしいと思っています」

「得る?」

「えぇ。さっきの女の子ほどじゃなくてもいい。本に触れることで新しい何かを感じてほしいと私は思っています」

「何かって?」

「それは人によって様々でいいと思います。単純に面白かったという感想でもいい。書いてあることを実践してもいい、知識を身に着けるだけでも良ければ、作者や登場人物のようになりたいと願ってもいい。何気なく出会った一冊の本が人生を変えることだってあるでしょう。本にはそれだけの可能性があると私は思っている。そして、司書は利用者が本に出会う手伝いをすることができる仕事です。やりがいは感じていますよ」

 就職活動の面談のようなことを口にしたが、本音だ。もっとも彼女に熱弁することではないかもしれないけれど。

「森さんにも同じです。あの子が笑顔なったように貴女にも退屈だなんて言わせない本を紹介したい」

「……ふーん。もっとクールな人かと思っていたけれどそういうことも考えるんだ」

 その猫の様な瞳が私を捉えながら、少しすると「なるほど」っとなぜか彼女は私から目を背けた。

「それにしてもやりがい、か。それは私にはない考えね。仕事なんて大抵の人間は生きるのに必要だからしてるんだと思ってた。もっとも別に……」

 まだ続きを思わせるところで口を閉ざす。

(別に……?)

 私が続きを促そうかと悩んでいるうちに軽く首を振り、別の話題を口にした。

「もう一つ質問いいかしら?」

「え、えぇ」

「貴女が私のためにこんなに親身になってくれるのも仕事だからなの?」

「?」

 想像だにしていなかった質問。考える前に私は

「そう、ですね」

 そう答えてしまっていた。

(……今のはよくなかったかしら)

 嘘ではないが、この状況でそれを告げるのは正解には思えない。

 まして彼女は自己中心的な人間にも見える。うかつに答えてしまって機嫌を損ねてしまったら本を紹介するどころではないと背筋に嫌な汗すら感じる。

 しかしまたも彼女の反応は想像の外のものだった。

「ふぅん。なるほど」

 なぜか満足気に笑ったのだ。

 それはどこか神秘的でゾクっとするほど美しい笑みだった。

「森さん……?」

「……ん、あぁなんでもないわ」

 先ほどの底知れぬ笑みを見て言葉通りに受け取るのは難しい。しかしそのことを追求するほどの積極さは私にはなく彼女に促されるままに本の紹介へと移った。

「……………」

 前回よりは話を聞いてくれているようではあるが、本の内容を理解しようとしているというよりは何か別の意味の込められた視線が向けられているようで妙な居心地の悪さを感じつつも用意してきた本の紹介を終えた。

「いかがでしょうか」

「そうね」

 口元に手を添えながら森さんは机に並べられた本を吟味する。

 いや、しているように見えるだけだ。彼女の視線は本よりも別の場所へと向けられている。

「とりあえずこれにしておくわ」

 そういって目の前の一冊を取り適当にパラパラとめくったあとに私を鋭い瞳で見つめてきた。

「ねぇ、本の返却ってどうすればいいのかしら?」

「窓口に返してもらえればそれでかまいませんが」

「貴女に直接渡すのじゃだめなの?」

「私がいる時であればそれでも問題はないです」

「そう、了解したわ。とりあえずこれの貸し出しをお願い」

 なぜこんなことを聞かれたのかわからないものの一応の役目は果たす私だったが、返却の時にその意味を知ることになる。


 ◆


「よくわからないけれど、とりあえずひと段落したってこと?」

 その夜、私はいつものバーに早瀬と共に訪れてことの顛末を話していた。

 二人で来るときは隅の席でカウンター越しにあおいちゃんに相手をしてもらう。

「一応ね。私に直接本を返したいとは言われたけど」

「お世話になったから感想を言いたいとかじゃないですか?」

 正面から頼んでいたカクテルを差し出しながらあおいちゃんが言う。

 私と早瀬はまず口を潤してから感想を吐き出すことにした。

「……そういうことはしない気がしたけどな」

そもそも確かに本を受け取りはしたがその本に興味を惹かれたとは思えない態度だった。

 確かにあの瞳は好奇にも似た光を感じた。しかしその向かう先は本ではなかった気がする。

「でもやっぱり変わった人ですよね。退屈だから本が読みたいって」

「理由はともかく、変わってるのは間違いないでしょうね」

「あーあ、にしても文葉なんかじゃなくて私に来てくれれば本じゃなくても楽しいことを教えるのに」

「けど、文葉さんってそういうことにちゃんと頑張れて素敵だと思います」

「ありがと。でも貴女だって頑張ってるじゃない」

 互いに自分の仕事への自負がある二人は一見社交辞令のようで本音を伝いあう関係に微笑み合う。

「ちょっとー、無視しないでくれるかなー」

 その隣で不満そうな早瀬。

「だって、雪乃さんいつも同じこと言うから」

「そうね。この前なんて女子高生にまで声をかけていたし」

「それは誤解だって。あの子はなんか寂しそうにしてたから声をかけただけ」

「どうだか」

「雪乃さん……さすがにそれは……」

 テンポのよくなじられ早瀬はうぅ、っと唸りながらカクテルをあおる。

「もう、あおいちゃんおかわり! 今日は呑んでやるんだから」

「はーい。了解しましたー」

「潰れても介抱はしないわよ」

 いつものやり取り、プライベートで珍しく楽しいと感じる時間。

 心のつかえとなっていた出来事も一応の決着を見て、再び普段の充実しながらも物足りない日々が戻る。

 そのはずだった。


 ◆


 再び森さんがやってきたのは貸し出しをしてから一週間後のことだった。

 彼女と出会う数分前、二階の奥まった本棚の間で蔵書の整理をしていた。返却された本は一定期間は返却用の棚に置いておくけれど、時間が経てば定められた本棚へと戻すことになっている。

 今はその作業中。

 図書館の蔵書は基本的に日本十進分類法により定められた分類に区別されており、今私が整理しているのは区分0、総紀とされる部分でこのあたりはあまり利用者も少なく、私は人気のない中本棚に間へと入り慣れた手つきで図書を揃えていく。

(そういえば、あの人も森さんね)

 ふと、十進分類法を作った人の苗字がつい最近まで頭を悩ませられた相手が同じ姓であることに気づきその相手のことを思い浮かべ手を止める。

「まぁ、だからどうしたというわけでもないか」

 一瞬彼女のことを考えるものの、そう呟き作業を再開しようとすると

「貴女って結構独り言が多いのね」

「っ!」

 先ほどまでは頭の中にいただけの相手がいつの間にか本棚と通路の境目から私を見つめていた。

「森、さん、どうして」

 ここに? と問おうとしたが

「すみれ」

「え?」

 私の言葉を鋭く遮り彼女は自分の名前を述べる。

「すみれって呼んで」

 勝気な表情で私にそれを要求する。

 何が何だかはわからなかったがそこには有無を言わせない迫力とそれに伴う強さと美しさを同居させており、私はそれに目を奪われながら

「すみれ、さん」

 とそう呼んだ。

「えぇ」

 満足気に頷くすみれ、さんに余計に状況が呑み込めなくなった私。

 対照的に彼女は不気味にも思える笑みを絶やすことはない。

「貴女は文葉、よね。確か」

「っ……はい」

 唐突にファーストネームを呼ばれ、わけもわからないまま頷く。

(一体何事?)

 初めて会った時のように化かされているような気分になりながら底知れぬ彼女……すみれさんの瞳に囚われる。

「えぇと、それで、なんでここに」

「本を返しに来たのに貴女がいないから探していたのよ」

 理由を告げる彼女に私は内心驚く。まさか本当に感想を伝えに来るなどとは思っていなかった。

 意外には思うもののこの人がどんなことを感じたのかは気になりどうでしたかと問う。

「んー、貴女には申し訳ないけど実はほとんど読んでないのよね」

「え?」

「数十ページくらいで飽きちゃったの」

「……そう、ですか」

 私は混乱する。

(どういうこと?)

 本を読んでいないのなら私に会いに来る理由はないはず。まさか貴女の薦めた本はやっぱり期待に沿わなかったと伝えに来たわけではないだろうし。

 いくら彼女が常識から外れた思考をしているとはいえそこまでのことをするとは思えず次は何が飛び出すのかと身構えていた。

「私がどうして本を探していたか知ってるわよね?」

「っ? えぇ。【退屈】だったからですよね」

 急に話が飛んでしまったもののそれを答える。

「そうね。だから本でも読もうかと思った。けど、正確に言うのならつまらない人生に興味を持ちたかったのよ。別に本である必要はないの」

「つまり、何か別のものを見つけたということでしょうか」

 そこでようやく多少合点がいった。

 ここには恐らく私への義理で来たんだろう。私の時間を使わせてしまったことへのせめてもの償いの気持ちを直接会うことで示そうとしているのかもしれない。

 ファーストネームを呼び合う理由にはならないが、一応手近な答えに私はすり寄る。

「そういうこと。別に興味のあるものを見つけられたのよ」

「そうですか。お力になれずに申し訳ありませんでしたが、おめでとうございます」

 司書として本以外にそれを満たされてしまったことは歯がゆくもあるが本人がいいというのならそれで納得するしかない。

「謝る必要なんてないわよ」

(……社交辞令くらい受け取ってくれればいいのに)

 力不足を感じたのは本音でも、謝罪の言葉を述べたのは話の流れだからなのに。

 だが、彼女がそんな通常の思考をすることはないとわずかながらでも彼女との時間を過ごしてきた私なら予想できてもよかったかもしれない。

「だって興味あるものっていうのは貴女だもの」

「えっ……?」

 一瞬意味が理解できず、呆けて彼女を見ると彼女はこちらへと近づく。

「貴女のことを知りたいのよ、文葉」

 誰に名前を呼ばれるのとも違う妖艶な響き。近づいたことで強くなる甘い果実のような彼女の香り。

「あ、のっ!?」

 さらにはその細く長い指が頬へと添えられるといよいよわけがわからなくなり体が経験のない発熱をしてしまう。

「意味が、よく……」

「わからない? 私はね、貴女に惹かれたのよ。貴女は私にとって新鮮な相手だったわ。見ず知らずの私のために一生懸命になってくれた。それに、あの時語ってくれた仕事へのやりがいと情熱、それは私にはない価値観だった。そんな貴女に私は興味と憧れを持ったのよ」

 猫の様な瞳を細めながら彼女は私の頬へと添えた手を動かし顎の方へと持っていき、中指と人差し指で顔を上向かせた。

「それは、買被りですよ」

 私の一面だけを見て都合よく判断した評価に冷めた心地で彼女の手から逃れ一歩距離を取る。

「貴女が自分をどう思うかなんて関係ないわ。私が勝手に文葉に惹かれたのだから。貴女がどんな人間かはこれから判断する」

 有無を言わせない彼女の雰囲気。自分の都合を伝えながらもそこに負の感情を感じさせない天性の力のようなもの呑まれ私はただ呆然と彼女を見返すことしかできない。

「そのために私は貴女と一緒にいたいの。同じ時間を共有して文葉のことをもっと知りたい」

 不思議と周りからの音が消え、静寂の中に彼女の声だけが響く。まるで世界には私達しかいないような錯覚を受けてしまいそうな気さえした。

「だからね、文葉」

 再びすみれさんが私へと迫る。

 鼻孔をつくのは本棚の香りではなく、彼女の匂い。

 触れずとも彼女の熱を感じられそうな距離に私の心は何故か焦燥感を持つ。

 目の前に迫る彼女の体。その瞳は妖しい光が灯っている。

「……ん、く」

 緊張と焦燥に心臓が早鐘を打ち、喉が渇いていく。

 そして彼女は体をこちらへと伸ばすと、その私を乱す唇と近づけて

 その距離を零にした。

「……っ」

 ちゅ、とした軽い水音と、柔らかな触感。

(え……?)

 キスをされたと頭では理解しても心では理解できないまま私は頬に手を当てて、彼女の言葉を耳にする。


「私の恋人になりなさい」


 これが彼女と私の物語の始まり。

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