第6エンド 誘いと転機 ―前編―

「ぁ、……久遠くおんさんだ」


 週が明けた月曜日。始業まで少し早めに到着して座っていると、講義室の入り口から久遠さんが入ってくるのが見えた。


 そういえば久遠さんも同じ学科だった。この授業も履修していると前に喫茶店で話していたことを思い出す。


 ふと目が合う。


 なんだか気まずい。


「あ、こっちにくる……」


 見えない糸に導かれるように、彼女はわたしの方を見つめたままこちらに歩いてくる。表情に感情はなかった。嬉しそうでも、不機嫌な様子でもなく、澄ました顔で近づいてくる。


 どきどきする。


 やがて――わたしの所まで来て顔を合わせた。第一声が思いつかず目を泳がせるわたしに、先に声をかけてきたのは彼女の方だった。


「隣、いい?」

「え、あ、うん……どうぞ」


 久遠さんが隣に腰を下ろすと、清潔感のある匂いが鼻腔をくすぐった。運動部に所属している女の子特有の爽やかな匂いだ。


(なんて声をかければいいんだろう……)


 会話の糸口が見つからないわたしの隣で、久遠さんはカバンからタブレット型の端末を取り出して授業の準備をする。


 どうして、わたしの隣に?


 この教室はだいたい五百人を収容できる。こんな広々としていて、授業までまだ時間があるから席もガラ空きだ。なのに、久遠さんはわざわざ、わたしの隣に座った。


 さっき目が合ったからだろうか。友達でなくても無視する程度には気が引けると思ったのだろうか。


 わたしはまだ久遠さんとはそれほど親しくない。どう接すればいいか分からない。


 などど考えていると、彼女はこちらに視線を向けた。


「ねえ、有梨栖ありすさん」

「は、はいっ!」

「……なに緊張してるの?」

「き、緊張してないし……」

「そう? 悪いんだけど、先週の講義ノート見せてくれないかな? 緊急のシフトが入って出られなかったんだよね」


「あぁ、別にいいよ、はい」

「ありがとう」


 タブレット端末からノートページを表示させて久遠さんに渡す。彼女は自分の端末とリンクさせて、データをシェアリングしていく。


 その様子を隣で見守る。久遠さんの横顔――見れば見るほどクスネに似ている。


 でも分かってる。久遠さんとクスネは別々の存在なのだ。というより、住んでいる次元が違う。久遠さんは現実世界、クスネはバーチャル。


 ――


「ありがとう。有梨栖ありすさんのノート、綺麗にまとまってるね」

「自分の分かりやすいように書いてるだけだから」


 今は音声ライティングや、自動手記アプリが一般的で、教授の説明も端末が自動的に文字に起こしてくれるし、ノートも勝手に整理してくれる。


 だから今どき、手書きでノートを作成する人は少ない。


 でも、わたしは自分の手でメモを取った方が記憶に定着しやすいタイプなので、今でも前時代的なアナログの手法を取っているのだ。


 学生はただ着席しているだけ。いや、授業の風景に溶け込んで学生を演じているだけ。わざわざ大学まで足を運ぶ必要もない。


 自宅でのオンライン学習やサテライト授業はその数を伸ばすばかり。そう遠くない未来、ほとんどの教育機関が、その意義を失くすだろう。


 まぁ、わたしが在学している間は関係ない話だけど。



 始業まであと十分。教室の席が学生でうまってきた。


「有梨栖さんって今週末、予定ある?」


 肩肘を机につけて頬杖をしながら久遠さんが訊いてきた。


「特にないけど」

「友達いないの?」

「そっちから訊いておいて、その言い草はないと思うんだけど」

「まぁ、私もボッチだしね」

「そうなの? 部活とかバイト先に仲の良い子いないの?」

「いないいない」


 久遠さんは苦笑交じりに手をヒラヒラさせて否定した。


「ならさ、ちょっと付き合ってくれない、有梨栖さん」

「へ?」


 久遠さんとは距離感を計りかねている節があったから、彼女から誘ってくるなんて意外だ。


「別に構わないけど……どこ行くの? あっ、カーリングの練習に付き合って、とかはナシだよ」


「そんなんじゃないよ。ただ、有梨栖さんとしたいんだ」


 少し照れまじりに、けどわたしの反応を窺うような口調。目を伏せがちに質問する彼女の様子に、少しだけ可愛いと思ってしまった。


「デート……!」


 なんてね。


 わたしが動揺すると思ったか、久遠楠音。あなたがそういう意味でデートって言葉を使ってるんじゃないってことくらい分かってるんだから。


 女の子は、女の子同士でちょっと遊びに行くだけのことで仰々しくデートなんて言ったりする。それくらい交友関係が薄いわたしだって知っている。


 だからわたしは平然と涼しく返すのだ。


「うん、別にいいよ。で、買い物に付き合えばいいの? それとも誰かのプレゼントを一緒に選んでほしいとか?」


 カーリングオタクの久遠さんのことだから、スポーツ用品を一緒に選んで欲しいのかもしれない。あるいは家族の誕生日プレゼントを買いに行くとか。


 すると、久遠さんは「ううん、そういうのじゃなくて……」と頬に少し朱色を浮かべながら一拍置いた。そして、か細い声でこう続ける。


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