身内の不始末

第1411話 すれ違う焦燥

統一歴九十九年五月十二日・午後 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ/アルトリウシア


 日曜礼拝はとどこおりなく終わった。また灯されたロウソクから毒ガスが発生するようなことも無かったし、珍しくカール・フォン・アルビオンニア侯爵公子も途中で居眠りをしたりはしなかった。エルゼは日曜礼拝が始まる前までは何やらグズッていたようだったが、庭園ペリスティリウムで乳母のロミーとホブゴブリンの兵士に説得されてからは上機嫌で日曜礼拝にいどんでいた。何もおかしなところはない。すべて順調で、何もおかしなところは無かった。なのに、エルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人の表情も、またマティアス司祭の表情もどこか優れなかった。


「今日も良い礼拝でしたわ、司祭様プリスター

 些少さしょうですが、どうかお納めください」


 エルネスティーネは少しぎこちない笑みを浮かべながら礼を述べ、用意させておいたお布施をマティアスに差し出す。


「いつもありがとうございます、侯爵夫人フュルスティン

 神はいつでも我ら信徒を見ておいでです。

 いつかきっと、その御志に報いる事でしょう」


 型通りの礼に型通りの挨拶を返し、マティアスはエルネスティーネの差し出したお布施を受け取った。


「しかし、侯爵夫人フュルスティンはどうやらお加減が優れぬ御様子。

 なにか心配事がおありですかな?」


 受け取ったお布施を助手を務める修道女へ預けながら、マティアスはエルネスティーネを気遣った。マティアスの見た所、今日のエルネスティーネはどこか上の空だったように思えた。熱心な信徒である彼女にしては珍しい。


「お恥ずかしい、お分かりになりますか?」


 エルネスティーネは疲れたように微笑んだ。愛息カールに亡夫マクシミリアンの遺した領地と爵位を継がせる……そのためにも女領主として立派に務めあげねばならなぬと気丈に奮闘を続けた彼女が、こうも弱った様子を見せるのはマティアスにとっても珍しい。少なくともエルネスティーネが属州女領主という地位について以降では初めての事のように思える。


「良ければ話してみてください。

 わたくしで良ければいくらでも御力になりましょう」


「お申し出はありがたく存じます。

 女の身でこんなことを申し上げるのはどうかと思いますが、私も立場というものがございます。

 マティアス司祭と言えども、相談できないことがあるのです」


 マティアスは残念そうに目を伏せ、微笑んだ。教会の内部の人間が先週の日曜礼拝で毒ロウソクを仕込んだ……マティアスはその事実を知らされている。教会と侯爵家の信頼関係を健全なものとし、レーマ正教会と侯爵家、そしてアルビオンニア属州の発展に寄与し、アルビオンニア属州にランツクネヒト族の、レーマ正教徒の楽園を築く……その礎となることを期待されているマティアスには、現状では法務官の捜査に協力して教会内部の異分子を処理することが求められる。それを成しえていない現状では、マティアスはエルネスティーネから距離を置かれることも受け入れなければならなかった。


侯爵夫人フュルスティンの置かれた立場の難しさは多少なりとも承知しておるつもりです。

 帝国での教会の位置からしても、あえて私に言わぬほうが良いことはございましょう」


 エルネスティーネはハッと目を見開いた。何か誤解を与えてしまったような、そんな違和感をマティアスの声色から察したからだったが、マティアス自身はエルネスティーネのそんな表情の変化に気づいていない。


侯爵夫人フュルスティンの周りには侯爵家を支えてくださる方々が大勢おられます。

 その方々がきっと、侯爵夫人フュルスティンの悩みも解決してくださることでしょう」


 マティアスがそう言葉を結ぶと、エルネスティーネは自分が先ほど抱いた違和感が何だったのか思い出せなくなった。

 エルネスティーネが思い悩んでいたのは、礼拝の直前にヘルマンニから報告された海軍資金盗難の件だった。既に侯爵家御破算の噂が流れるほどの財政危機に陥っている状況で、更に艦隊維持のために備蓄されていた銀貨が丸ごと奪われたことが明らかになれば、アルビオンニア経済に与える衝撃の大きさは計り知れない。ヘルマンニはリュウイチから金を借り、それを“見せ金”として利用することで何とか現状を乗り切るつもりでいたようだが、リュウイチが使える金はほとんどがこの世界では通用しない《レアル》の金貨であり、元老院議員セナートルアントニウス・レムシウス・エブルヌスに両替してもらった銀貨二百万枚は既に侯爵家と子爵家への融資に回されることが決まっている。仮に他に使える金があったとしてそれを借り入れることができたとしても、海軍から奪った銀貨を持っているであろうハン支援軍アウクシリア・ハンが銀貨を放出させてしまえば、現在引き起こされているインフレが制御不能なレベルにまで拡大しかねない。

 もちろん、エルネスティーネは財政の専門家たちとこの件について相談するつもりでいた。彼女が一人で抱え込むような問題ではない。だがそれは日曜礼拝が済んだ後の話になる。それまでは、部下たちに下駄を預けてしまうまでは、どうしたところでエルネスティーネの心労とならざるをえないのだった。それがどうやら、日曜礼拝中のエルネスティーネの表情を曇らせ、そしてマティアスに気を使わせる結果となったのであろう。

 マティアスのいう通り、部下に相談すれば彼女の心労は軽くなる……それはエルネスティーネ自身も分かっていた事だ。だからマティアスに言われたことで、マティアスも何かを察してくれたのだろうとエルネスティーネが考えてしまったのも無理からぬところであったのだろう。このためエルネスティーネとマティアスはこの時、侯爵家と教会の間に小さな溝が出来つつあることに気づけなかった。


「……え、ええ、きっとそうです。

 当家が家臣に恵まれているのも、きっと神の思し召しですわ。

 改めて感謝申し上げます」


 エルネスティーネが改めて礼を言うと、マティアスは「それでは」と挨拶をして部屋を出た。それまでは礼拝の後片付けも連れて来た修道女にやらせていたのだが、今秋からは侯爵家の人間で準備も片付けも全て行うことになっていたので、マティアスたちはあとは帰るだけである。

 そうした変更は警備上の都合だったわけだが、そのことについて修道女たちは自分たちの仕事が減った分を素直に喜んでいるようだったが、マティアスの心中では焦燥を生むことになっていた。それは見ようによっては、侯爵家が教会と距離を置こうとしているようにも受け取れるからだ。特に、先週の異変の原因が教会内部の人間が工作した毒入りロウソクにあると知っているマティアスには、余計に切実な危機感となっていたのである。


「ふぅ……」


 帰りの馬車へ向かう道すがら、マティアスは溜息をついた。


「何とかせねば……」


「何かおっしゃいましたか、先生プレディガー?」


 マティアスの声に気づいた修道女が尋ねる。


「いえ、何でもありませんよザスキア尼シュベスター・ザスキア

 ただ、今日は少し……」


 言いかけてマティアスは言葉を飲んだ。四方を建物に囲まれた庭園ペリスティリウムに、何故か不自然に風が吹いているような気がしたからだった。


 ……《風の精霊ウインド・エレメンタル》が集まっている???


 急に脚を止めたマティアスを、修道女が怪訝そうな表情で見上げた。


「今日は少し?」


「え!? ああ、ええ……今日は少し、風が吹いている気がしたのです」


 マティアスが感じた違和感は一瞬だった。修道女の声で我に返ったマティアスは、気のせいだろうと気持ちを切り替え、馬車へ向かって再び歩き出したのだった。

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