第1221話 焦るエイー
統一歴九十九年五月十一日、昼 ‐ ブルクトアドルフ・皮なめし工房/アルビオンニウム
皮なめし工房は嫌な空気に満たされていた。不思議なもので臭いのことは彼らは既に慣れている。嫌な空気というのは工房を満たしている糞尿の臭いのことではなく、そこにいる者たちの雰囲気だ。
「ふぅぅう~~~‥‥‥‥」
二階の窓からレーマ軍が見えた……その報告を受けてからというもの、エイーはずっとこの調子である。落ち着かない様子で二階に上がっては窓から迫りくるレーマ軍の軍勢を見、そして大きく溜息をついては一階に戻って自分専用の火鉢にあたる。それをずっと繰り返している。イライラしているのが丸わかりで、周囲の盗賊たちにとってはたまったものではない。
荒事にはまったくド素人な彼はレーマ軍が近づいてきているのが分かっていながらも、何をどうしていい変わらないし、盗賊たちをどう動かしたらいいかもわからない。それでいて盗賊たちをレーマ軍に向かわせたところで何にもならないことは分かっている。働けと言ったところで「何をどうすればいいんで?」と問われれば答えることなど出来ないのだ。
自分には何も分からないし何もできない……そのことが分かっているからこそイライラが止まらない。何かしなければという気持ちばかりが募ってそれが発散されないのだから、エイーの苦しみは相当なものだろう。
どうせ何もできないのだから盗賊たちもエイーには落ち着いてほしいが、下手に声をかけて八つ当たりでもされたんじゃたまらない。実はつい先刻、空気を読めないダックスが「まぁ落ち着いてくださいよ」とホットワインなんか差し出したものだから、エイーが
「勘弁してほしいぜ、まったく……」
「あんな御人じゃなかったんだが……」
「でも、他よりゃ大分マシだぜ?」
「荒事に慣れてねぇんだ。
勝手の分からねぇことやらされりゃ、誰だってイラつくさ。」
エイーが二階に行ってる隙に一階で火鉢に当たっている盗賊たちが小声で愚痴をこぼし、一斉に溜息を吐く。そのうち階段の方からダンダンッと荒々しく脚を踏み鳴らす音が響き始めると「いけねぇいけねぇ」と盗賊たちは口を閉ざす。
そんなルーチンを幾度も繰り返していたが、今回は少し違った。
「おいっ!」
エイーは自分の火鉢の方へは戻らず、階段を降りたところで仁王立ちになって火鉢を囲む盗賊たちに声をかける。全員がビクッと一瞬身体を震わせ、恐る恐るエイーの方を見ると、エイーは胸の内に溜まったものを吐き出すように喚き始める。
「レーマ軍がブルグトアドルフに入ったぞ!?
街へ入ったんだ!
どうするんだ!?」
「ど、どうするって言われても……」
盗賊たちは互いに顔を見合った。
アルビオンニウムから来たレーマ軍は見たところ五百人ぐらいいる。多分、一個
「忘れたのか!?
俺たちはあのレーマ軍をブルグトアドルフで食い止めなきゃいけないんだぞ!
そのレーマ軍がブルグトアドルフの街に入った!
あと一時間もしないうちに抜けてシュバルツゼーブルグへ行ってしまうんだ!
そしたらどうなる!?
俺はやっぱり何もできなかった、ただの役立たずで終わってしまうじゃないか!」
エイーは
「ま、まあ
「落ち着け?
落ち着けだと!?」
レルヒェが宥めようと立ち上がるとエイーは涙を浮かべた目でレルヒェを睨みつけた。エイーの鼻の頭や耳、頬が赤いのは寒さのせいばかりではあるまい。
「そうでさ、落ち着いてくだせぇ。
大事な時ほど落ち着かなきゃいけねぇんだ、そうでしょ?」
困ったようにレルヒェがそう言うとエイーはギリッと歯ぎしりする。だが、レルヒェの言ってることも分かるからそこから尚も感情を爆発させることはしない。レルヒェを睨みつけながらも、一応黙って次の言葉を待ち続けた。
「大丈夫ですよ。
レーマ軍はシュバルツゼーブルグへは行きやせん。
今日はブルグトアドルフで……多分、丘の上の
「何で分かる?」
「え?……そりゃぁ……」
「何でお前に分かるんだよ!?」
エイーが再び大声を出してレルヒェは参ったと言わんばかりに目を閉じ
「おい!
なんだそれは!?
馬鹿にしてんのか!
ちゃんと応えろ!!」
あまりの剣幕に火鉢を囲んで座ったまま様子を見ていた盗賊たちも思わずぞろぞろと立ち上がって脇へ避け始める。その盗賊たちのエイーを見る怯えた様子にエイーは少し冷静さを取り戻した。エイーが収まったのを察したレルヒェは目を開け、改めてエイーに向き合う。
「
アッシぁ馬鹿なんでね。」
「じゃあ何で知った風なことを言ったんだ!?
俺を騙そうとしてんのか?」
「とんでもねぇ!!」
レルヒェは首を振ると翳していた両手を広げ、それからパタンと降ろした。
「
クレーエの名前を出されるとエイーは顎を引き、キュッと唇を結んで上目遣いでレルヒェを睨みつける。
思えば
考えて見たらド素人の
何で
俺はひょっとして
自分に対する自信の喪失、そこへ付け込まれたとしか思えない。今更ながら後悔の念が沸き起こって来る。それも今の状況、不本意な立場、何も出来ない不安……そうした諸々のモヤモヤを持て余したあげく、クレーエにその元凶を求めた結果でしかないのだが、今のエイーには自分の思考を客観的に評価できるだけの冷静さは無い。
レルヒェはエイーが何かを口を開く前に続けた。
「
あの人ぁモノを見る目も良く回る知恵もある。度胸だってありまさぁ。
アルビオンニウムでの
レルヒェが言い切ると盗賊たちの何人かは同意するように小刻みに頷き、エイーとレルヒェを交互に見比べる。エイーは自分の中で渦巻く不満、それをクレーエに押し付けようとしている思考を見透かされたような気分に舌打ちすると、自分とは対照的にクレーエを信頼しきっているらしいレルヒェに嫌味をぶつけた。
「随分アイツを信用してるんだな。」
「ええ、アタシゃ
信頼関係……そんなものがNPCの盗賊ごときにあるなんて思ってもみなかったエイーはフッと笑う。自分自身が信じられなくなったエイーが求めて止まないものであることに、エイーは気づいていない。
レルヒェはエイーが笑ったのを自分に対する嘲笑とは受け取らず、エイーが反抗を止めた合図だと理解した。
「
「……賭けにしちゃ随分、
クレーエを信じきれない……それはエイーの正直な告白だったが、レルヒェは小さく笑う。
「分の良い賭けなんざ賭けじゃありやせんや。」
それはエイーの真意を理解したうえでの助言だったのか、それともレルヒェは字句通りの表層しか理解せずに返したものだったのか、二人はその違いを気にしてなかった。
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