第1209話 メルキオル

統一歴九十九年五月十一日、朝 ‐ シュバルツゼーブルグ教会堂/シュバルツゼーブルグ


 

メルキオル先生プレディガー・メルキオル

 もう忘れものはありませんか?

 あら! どこへ行ったのかしら?

 メルキオル先生プレディガー・メルキオル

 メルキオル先生プレディガー・メルキオル!?」


 シュバルツゼーブルグ教会堂の裏手に併設された修道院に、何かと落ち着きの無い老女の声が響き渡る。二階からだ。呼ばれた本人はもうとっくに玄関に出ているというのに、お節介焼きの御婦人は彼女がこれから送り出そうとしている青年が、まだ旅の準備も整いきらないまま個室でグズグズしているものと勘違いしたらしい。


ヤンセン夫人フラウ・ヤンセン

 私はここです!

 もう外に出てますよ!?」


 呼ばれた男はその場から声をあげた。窓が開いてるから聞こえるだろう。そして彼の声は実際に届いたようだ。


「まぁ! なんてこと!

 メルキオル先生プレディガー・メルキオル、待っていてくださいね。」


 かすかに悲鳴じみた声と共に、トタトタと床を踏む軽やかな足音が響いた。その足音は建物の奥へと一度は消えたが、間もなく再び大きくなりはじめる。そう、今度は二階からではなく一階からだ。やがて薄暗い建物の奥から声の主が息を弾ませて現れた。


「おおっメルキオル先生プレディガー・メルキオルなんてこと!?

 そんな恰好で行くおつもりですか!?」


 玄関から現れた老女はメルキオルの姿を見るなり驚き、まるでこの世の終わりでも到来したかのように狼狽ろうばいすると「まだそこで待っていて下さいね!」という言葉を残して再び建物の奥へと消えていった。もちろん直接は見えないが、おそらくその辺りにいるのだろうと老女の行方を想像しながら壁越しに目で追うと、その視線の先が二階の自室へ近づくにつれ本当に二階の窓から物音がし始める。


ヤンセン夫人フラウ・ヤンセン

 私は大丈夫です!

 これ以上何も要りませんよ!?」


 しかしその呼びかけは善良なる老女の老婆心の前には虚しく吹き抜ける風に等しい。ガサゴソと何かをひっくり返す様な音と共に老女の反論が二階の窓から響いて来る。


「何をおっしゃるの!?

 もう寒いのにそんな格好では風邪をひいてしまいます!

 ああ、あったわ!

 ああメルキオル先生プレディガー・メルキオル、待っていてくださいね!」


 老女の気配が二階の部屋から離れるのを感じながら、メルキオルは溜息をついた。


「待ちますとも、貴女が待てとおっしゃるならば……」


 小声で独り言ちるその声に悪い感情は含まれていない。彼を送るために来ていた修道女たちはその様子をニコニコと笑って見ている。

 やがて老女は再び玄関から現れた、まるで風呂からビショビショのまま飛び出してきた幼児をバスタオルで迎える母親のように、その両手には古ぼけたローブが掲げられている。


メルキオル先生プレディガー・メルキオル

 さあコレを、コレを着ていてらっして!」


ヤンセン夫人フラウ・ヤンセン、大丈夫ですよ。

 私は先月まで修道士モンクとして修業をしていたのです。

 これくらいの寒さなんてヘッチャッラです。」


 だが老女は有無を言わせずメルキオルにローブを羽織らせた。メルキオルも口では断りつつも、背の低い老女を助けるために手に持った荷物を地面に降ろし、わずかに屈んでローブを羽織らせやすくした。それを見て修道女たちも歩み寄り、老女がメルキオルにローブを羽織らせるのを手伝う。


「何をおっしゃるの?

 先月は暖かかったじゃありませんか!

 もう粉雪の舞う季節です。

 今朝なんて氷だって張ってたし、山の上はもっと寒いんですよ!?」


 お人好しの老婦人の真心を無下に出来る者など居るだろうか。居るとすればきっと心が荒んでいるか死んでいるのだ。メルキオルはそのどちらでもなかった。苦笑いをしながらもローブの袖に腕を通し、身体を起こすと老女が両手を伸ばして襟元を整えてくれる。ローブを着せ終わると老女は数歩下がり、メルキオルの身だしなみを確認して嬉しそうに微笑んだ。


「ああ良かった。

 すこし小さいかと思ったけど大丈夫そうね。

 主人の古いのだけど……良かったら受け取って頂戴。

 差し上げるわ、その方がきっと良いもの。」


「感謝しますヤンセン夫人フラウ・ヤンセン

 とても暖かいです。」


 どうということは無い、社交辞令に等しい返事ではあったが、それでもその言葉を耳にした老女はしばし沈黙したままジッと微笑みかけてくるメルキオルを見つめ、突然感極まったように口元を抑えた。


「こんなっ、こんな立派になって……」


 目に涙をあふれさせ、言葉に詰まる老女に修道女がそっと寄り添い、その震える肩に手を添えた。

 メルキオルはそれほど手間のかかる子供ではなかった筈だが、家出して以来ずっと実の母親のように面倒を見てくれた彼女にとっては色々と心を砕く場面も多かったのかもしれない。別に今生こんじょうの別れというわけでもないのだが、一時いっときとはいえ一人前の恰好をして立派に仕事へ向かおうとする彼の姿に、色々と思うところはあるのだろう。それを思うと彼もこの場を冗談で誤魔化したり、あるいは老女を揶揄からかってやり過ごそうという気にはなれなかった。人の心に真正面から向き合わなければ、神の道を歩むことなど出来はすまい。


ヤンセン夫人フラウ・ヤンセン、ありがとうございます。」


 ありふれた、ごく短い言葉ではあったが、飾らぬ感謝にウソ偽りはない。


「いいえ……

 ごめんなさい、本当は私なんかよりあの人こそ一緒に見送らなければならないのに……」


 老女は首を振り、この場に居ない夫の非礼を詫びた。


「魔力欠乏では起き上がれないのは仕方がありません。

 ヤンセン先生プレディガー・ヤンセンはどうか大事にして差し上げてください。」


 彼女の夫ヴィム・ヤンセンはこのシュバルツゼーブルグ教会堂の担当司祭である。一昨日、シュバルツゼーブルグに到着したブルクトアドルフからの避難民たち、そこに含まれていた少なからぬ傷病者に治癒魔法を使い、魔力切れを起こして昏倒してしまっていた。当人はもっと頑張れるつもりでいたようだが、どうも本人が思っていた以上に加齢により魔力が衰えていて、限界を見誤ったらしい。一応、命に別状はないが、今朝もまだ起き上がれないでいる。

 昨日、魔力切れを起こしたのはヴィムだけではなかった。シュバルツゼーブルグはライムント地方ではそれなりに大きい街であり、アルビオンニア属州全体を見回しても歴史に見合った発展を遂げている。一昨年の火山災害でアルビオンニウムから避難してきた聖職者たちを収容したこともあって、シュバルツゼーブルグの教会堂には複数人の司祭……つまり魔法を使える聖職者が存在している。だがそれらが軒並み魔力欠乏で体調を崩したのだ。

 全員が全員、ヴィムのように意識を失ったり起き上がれなくなったりしたというわけではないが、それでも魔力欠乏というのは放置すれば死に至ることもある危険な状態である。マナ・ポーションのような特効薬があるわけではない以上、安静にするほかないのだが、そのような状態に陥った結果、今日のメルキオルの急な出張が決まってしまった。


 明日は日曜日……キリスト者にとって大切な日曜礼拝の日である。司祭も牧師もシュバルツゼーブルグ教会堂を含め市街地内外の礼拝堂などで礼拝を執り行わねばならない。が、元々あった教会や礼拝堂の中にも担当聖職者の居ない無人の礼拝堂が存在していたし、火山災害でアルビオンニウムから逃げて来た難民たちがバラック街の中に作った礼拝堂が多数あることもあって、シュバルツゼーブルグでは比較的人材に恵まれている筈の聖職者の数が足らなくなっていた。そこへ司祭たちが魔力欠乏を起こしたことで、人員の配置の変更を余儀なくされたのである。

 その結果、メルキオルが出張することになったのがグナエウス砦ブルグス・グナエイの礼拝堂だった。


 グナエウス砦にもレーマ正教会の礼拝堂が存在している。あの砦はアルトリウシアの施設だが、アルトリウシアとシュバルツゼーブルグの間を行きかう人々のための宿泊施設として一部が一般に解放されていることもあって、キリスト教徒のための小さな礼拝堂が設けられていた。が、グナエウス砦に常駐しているキリスト者は限られていたし、そもそもアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアの管轄ということで聖職者は常駐しておらず、日曜日のたびにシュバルツゼーブルグから聖職者が派遣されて日曜礼拝を執り行うことになっていたのだ。

 ところがグナエウス砦へ派遣される予定だった司祭が魔力欠乏で体調を崩してしまう。一日寝ていれば治る程度のものではあるのだが、グナエウス砦で日曜礼拝をおこなうためには前日の土曜日には現地に到着している必要がある。しかし起き上がれないほどではないにしても、魔力欠乏の状態で丸一日馬車に揺られるというのは非常に危険だ。そこで急遽、誰か代わりを派遣する他ないということになり、メルキオルに白羽の矢が立ったのだった。

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