第1199話 寛容・不寛容
統一歴九十九年五月十一日、朝 ‐
「ふーん……わからないな。
異教徒が祈るのを邪魔しないのはいいとして、異教徒が神に祈りを捧げたからといってキリスト者が何で怒るのか……
俺なら異教徒さえも崇めさせてみせた神の偉大さを喜ぶところだ。
どう思う、ナイス?」
パンにバターを塗るのを再開しながらメークミーはナイスに問いかけ、バターを塗り終えたパンのかけらを口に放り込んだ。ナイスは口に入れたばかりのパンをまだ咀嚼している最中だったが、メークミーに問われてそれをミルクで喉へと押し流し答える。
「俺もお前と同感さ、メークミー。
宗教家の中にゃよくわからん理由で詰らんことに拘る奴もたまにいるが、キリスト者なら異教徒に対する態度はだいたい同じだろ。」
そしてミルクの入っていた
「彼らは主の素晴らしい教えをまだ理解できていない憐れな者たちなのです。
ですから情け深く、優しく接してあげなさい……だ。」
それはどうやら彼ら二人が知る誰かのモノマネだったらしい。ナイスが最後で悪戯っぽく笑いながら言うと、メークミーも口の中のパンを咀嚼しながら可笑しそうに笑った。ナイスはそのままスカエウァの方を向く。
「異端に対しちゃ情けも容赦もないけどな。
口汚く罵り、悪魔と蔑んで、終いにゃ『火あぶりにしちまえ!』ってなるさ。」
「『高く吊るせ!』じゃないのか?」
パンを飲み込んだメークミーがまぜっかえすと、ナイスは肩をすくめてみせる。
「異端は火あぶりさ。
死刑は
スカエウァは苦笑いを浮かべたまま首を小さく振った。他民族多宗教のレーマ帝国で、宗教・宗派の違いが理由で死刑になるなど信じがたい。
実際の所、キリスト教徒は他宗派に対しては異常な攻撃性を示す傾向にはあるかもしれない。だが、異教徒に対して同じ攻撃性が示されるかというとそうでもない。理由はナイスが冗談めかして言った通りで、彼らにとって異教徒とは「まだすばらしい教えに目覚めていないかわいそうな人」だからだ。そういうキリスト教徒の性質を知っているからだろう、メークミーがレーマ帝国のキリスト教徒が異教徒に対して攻撃的になるという話に疑問を持ったのは。しかし、スカエウァが知る限り、レーマ帝国のキリスト教徒が、教会を訪れた異教徒やキリスト教徒のマネをする異教徒に対して、稀にヒステリックな反応を示すのは事実だった。
大戦争中のレーマ帝国にとって、キリスト教は敵の宗教だった。大戦争がいつどこで始まったのかは諸説あるが、レーマ帝国にとってのきっかけはオグズィスタンという小国による略奪だった。現在のケントルムより西に広がる小国で、大災害以降の食糧難から隣接するディアネイア属州へ侵攻し、それにレーマ帝国が本腰を入れて反攻をしかけたために拡大したものだった。
オグズィスタンという国自体はイスラム教国だったが、強大なレーマ帝国の圧力によって危機に陥ると、同じアブラハムの宗教を信ずる者同士で結集しレーマ帝国と戦おうなどとオクシデント大陸の諸国に呼びかけた。その反応が直ぐに会ったわけではないが、それがきっかけとして最終的に啓展宗教諸国連合などという共同体が結成され、レーマ帝国の世界を二分する戦争へと発展している。
オクシデント大陸の東側……すなわちレーマ帝国に近い地域に広がっていたイスラム諸国はその戦争で荒廃し、イスラム教徒はその絶対数を減らしてしまっている。元々の地域は幾度となく戦場となってまとまった人口を養える環境ではなくなってしまったし、戦禍から逃れるために西へ向かった者の多くは迫害されるか改宗を強要されるかしたのが原因とされている。
そしてこの戦争で勢力を伸ばしたのがキリスト教の各宗派だった。レーマ帝国から複数の国を挟んで存在していた多くのキリスト教国は直接の戦禍からは免れていた。それでいて大戦争という特需が発生し、東から戦争難民という多くの奴隷同然の労働者が流れ込んできたこともあり、大災害後の環境の回復と共に生産力を飛躍的に伸ばしていった。
安い労働力の大量流入で困るのは既存の労働者たちである。通常ならば職にあぶれた彼らは社会を不安定化させる危険な存在となるところだが、そこはレーマ帝国と世界を二分する大戦争の最中のこと、彼らは聖戦だの十字軍だのといった美名のもとに集められ、ひとまとめにして宗教的熱狂と共に戦場へと送られた。
邪悪な異教徒からアブラハムの兄弟たちを救う!……そんな大義名分を掲げた征東十字軍は幾度となくオグズィスタンへ送り込まれた。現在のケントルム地峡を経てレーマ帝国ディアネイア属州へと雪崩れ込むことも無くは無かったが、大概はディアネイアを制圧しきることなく押し返され、オグズィスタン周辺で小規模な戦いを繰り返すのが毎度のことだった。そして補給を満足に受けられない彼らは部隊ごとに勝手に食料の現地調達を繰り返した。遠い異教の土地で異民族の異教徒が相手だから遠慮は無かった。オグズィスタンは結局、救援に駆け付けたはずの味方によって略奪を繰り返され、加速度的に荒廃していくのだった。
そうした背景からか、大戦争を戦った相手方であるレーマ帝国の印象では、大戦争の主たる敵はキリスト教徒であり、イスラム教徒は開戦間もない頃こそ主要な敵であったが、ある時期からはほぼ無害な、ただ戦場に居合わせただけの被害者たちになってしまっている。
そして、異教徒を攻め滅ぼすコトを至上目標とする十字軍に参加していたせいか、レーマ人の見るキリスト教徒はいずれも排他的で不寛容で邪悪そのものだった。レーマ人の信じる神々には全く敬意を払わないし、それどころか前線を視察に訪れた
当時のレーマ人が信じていたいくつかのエピソードは都市伝説の域を出ないような信憑性の不確かなものも少なくないが、レーマ人の間ではキリスト教やキリスト教徒に対する反感、嫌悪感、憎悪が深く、着実に広まり、帝国の知識階層の人たちの間でさえ《レアル》古代ローマにおいてキリスト教徒を弾圧したとされる暴君たちが再評価される事態にもなっていった。現在でもディオクレティアヌス帝やネロ帝を高く評価するレーマ人は少なくない。
そんなレーマ帝国内で興り、普及したのがレーマ正教会だった。レーマ帝国へ亡命したランツクネヒト族が、レーマ人に同化することなくランツクネヒト族としてのアイデンティティを保とうという、多分に民族主義的な背景を持って生まれたキリスト教の新宗派だったが、当時はまだ大戦争の最中で帝国内のキリスト教蔑視も最高潮であったことから、信徒たちへ注がれた視線がどういうものだったのかは想像に難くない。
多神教のレーマ帝国で民族的自尊心を保ちながらレーマ帝国へ馴染んでいくことを目的とした、ひどく政治的ではあるが明確な目的意識を持って設立されたレーマ正教会は、ローマ・カソリック教会に連なるキリスト教各宗派と比較して異例なほど異教に対する寛容を打ち出していた。にもかかわらず信徒がその意義を理解し、実践できるかどうかはまた話は別である。
異教徒だらけの世界で迫害されながら信仰に救いを見出す信徒たちの中には、自分たちを迫害する異教徒に対する反感を骨髄にまでしみ込ませてしまったような者たちも少なからず存在した。寛容を説く聖職者たちのいる前でこそ、その内に秘めた憎悪を表に出すことは無いが、しかし何かきっかけがあればそれを発散させてしまうことまでは防ぎきれるものではない。
たとえばレーマ人の異教徒が信徒でもないくせに教会に訪れた、たとえば異教徒が聖職者や信徒たちのマネなんかしていた……やった本人は軽い気持ちだっただろう。あるいはレーマ人だが実はレーマ正教徒だったのかもしれない。しかし、それを見たランツクネヒト族の目には自分たちを馬鹿にしているように映ってしまう……そういう理由で起きる暴力沙汰というのは、帝都レーマのレーマ教会ではわりとよく聞く話だった。
もちろん、こういうことはキリスト教ばかりが理由というわけではなく、キリスト教以外の宗教でも異教徒との間で誤解から暴力沙汰に発展してしまう事件はそこかしこで起きており、異教徒の宗教的な儀式だの礼拝だのに対してはなるべく邪魔をしないというのはレーマ正教会が興るずっと前から帝国内での暗黙の了解となっている。
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