第1109話 奴隷検分(1)

統一歴九十九年五月十一日、午後 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



 鎮静効果があると言われる香茶の豊かな香り、そして上等な貴腐きふワインを思わせるような濃厚な甘み。口に入れた途端にそれらが口いっぱいにひろがり、飲み下すとともに体中に染みわたって芯からポカポカと温まる。ようやく人心地ついたグルギアは周囲に気を回す余裕を取り戻すと、奴隷身分にすぎない自分が一人で部屋の真ん中に座り、高貴な貴族たちに囲まれているその視線を一身に集めていることに気づくやいなや急に胸の奥がザワザワし始めるのを感じた。そしてふと顔をあげ、自分の真正面に座る貴族の脇に、さきほど助けてくれたネロの姿を認め、ざわめき始めた気分が何故か静まることに違和感を覚える。


「落ち着いたか?」


 薄暗い部屋の中でも輝いて見えるほど立派な軍装に身を包んだネロに目を奪われていたグルギアは、唐突に隣からマルクスに話しかけられてハッと我に返る。


「はいっ!?」


「いいから座っていろ。」


 慌てて立ち上がろうとするグルギアをマルクスは肩に手を置いて椅子に押し戻した。浮かせていたグルギアの尻が再び座面に押し付けられた瞬間、茶碗ポクルムの香茶が揺れてポチャンと小さな音を立てて波立ち、こぼれそうになる。


「また具合が悪くなられてはかなわん。」


「すみません、旦那様ドミヌス。」


 まったく面倒を起こしやがって……そう悪態でも突きたそうにマルクスは言うと、ただ謝ることしかできないグルギアにため息交じりに尋ねる。


「落ち着いたなら、話は出来るな?

 こちらの上級貴族パトリキの皆様が、お前を新しい御主人様ドミヌス御傍おそばに置くにふさわしいかどうか御検分を所望しょもうなされておられる。

 おっと、服は脱がんでいい。

 貴族様方はお前の裸に御興味は持たれておられない」


 一瞬、身を硬くしたグルギアだったが、顔はマルクスの方へ向けたまま、視線だけで再び上座のリュウイチと、その脇に立つネロを見あげながら頷いた。


「はい、旦那様ドミヌス

 御迷惑をおかけしました。

 御下問あれば、何でも御答えいたします」


「よし」


 マルクスはそう言うとグルギアから一歩離れ、周囲を取り囲むアルビオンニア貴族らに向かって高らかにのたまう。


「お待たせいたしました皆様。

 先ほどはお見苦しいところをお見せし申し訳ございませんでした。

 この通り、グルギアは回復しました。

 リュウイチ様には女奴隷セルウァごときに過大なる御慈悲をたまわり、このマルクス・ウァレリウス・カトゥス、深く感謝申し上げます。

 御質問がございましたら、如何様いかようにもお訊きください。

 お答えして御覧に入れましょう」


 グルギアの急な不調によってペースを乱され、結果的に主導権を失ったマルクスは内心で主導権を奪い返し、自分のペースで話を進めなければと内心の焦りを押し殺していた。マルクスの先ほどまでの失態を忘れたかのような今の態度は、そうした不安の反動のようなものだったが、肖像画の件で浮足立っていたアルビオンニア貴族たちはすっかりと落ち着きを取り戻しており、マルクスの気勢にもどこか冷ややかな反応を見せている。


「ウホンッ」


 予想だにしなかった沈黙の時間にマルクスが空元気の余裕を失いかけたその瞬間、ルキウスが咳ばらいをする。


「では、検分を求めた私から質問させていただくのが順当ですかな?」


 マルクスにとってルキウスの申し出は助け船にも等しかった。もちろん歓迎である。


「かまいませんとも子爵閣下!

 どうぞ何なりとお尋ねください。」


 肝心のグルギアはてっきり正面に座っているリュウイチこそが新しい主人であり、質問してくるとすればそちらからだろうと思っていたので、横に控えたホブゴブリン貴族とマルクスの会話を意外に思い、無言のまま目を丸くする。


「では、改めて名を聞こうか。

 生い立ちも含め、これまでの経歴一切を、本人の口から。」


 ルキウスの質問にグルギアは答えず、自分の脇に立つマルクスを見上げた。マルクスはグルギアを見下ろしながら静かに「座ったままでいい。答えなさい」と低い声で命じる。

 グルギアは両手で抱え持っていた茶碗を自分の太腿の上に降ろし、姿勢を正して答え始める。


「はい、名をグルギアと申します。

 奴隷になる前の名は、グルギア・ヘルミニア・ラリキア。

 廃絶したヘルミニウス・ラリキウス家の出でございます」


 レーマ帝国でも名だたる神官の家系ヘルミニウス氏族。そのうちの一家ラリキウス家の名と廃絶の顛末てんまつはレーマでは有名だ。噂話ゴシップが唯一最大の娯楽であるレーマ帝国において、上級貴族の醜聞スキャンダルほどは無いからだ。その当事者の家族を名乗る奴隷……だが貴族たちの反応は冷ややかである。貴族名鑑にその名の無い娘を名乗るくらい、仕込めばどこの誰でも出来るからだ。滅亡した高貴な血筋の末裔まつえいを名乗り、援助を求める詐欺師の話など、どこの地域どの時代でも事欠かない。

 ルキウスは無表情のまま、特段感情も籠っていない声で続きを促す。


「家族の名は?」


「はい、父はグルギウス・ヘルミニウス・ラリキウス。

 母はフォリア、兄がウォピースクス、弟がオピテル……あと、妹の小グルギアグルギア・ミノールがおりました。」


「その家族は今、どうしている?」


 グルギアはチラリとマルクスを見上げた。家族のことはグルギア本人よりもマルクスの方が詳しい。実際、母が死んだこと、弟オピテルが見つかったらしいことはグルギアもマルクスから聞いて知ったくらいで、それまで家族がどこでどうなったのか知らされていなかったからだ。

 しかし、それでも知っている限りのことはグルギア本人が答えなければならない。


「私たち一家は連座によって奴隷セルウスに堕とされました。

 母はその後、亡くなったと聞いておりますが、詳しいことは存じ上げません。

 兄弟たちは奴隷セルウスとして売り払われる際にバラバラになったので、今どこで何をしているのか、生きているのかどうかさえ分かりません。

 父は、私たちが売り払われた後に処刑されたと、聞いております。」


 グルギアが答えている間、反対側の壁際ではルーベルトたちが取り寄せた貴族名鑑をめくってグルギアの答えに間違いがないか確認していた。とはいっても、貴族名鑑には未成年の名は載っていないので、確認できるのは当時成人していた分だけである。グルギアは当時未成年だったためグルギア本人と、彼女が名を挙げた弟と妹のことは載っていなかったが、両親と兄の名は確認することが出来た。また、名前は確認できないながらもグルギウスが処刑されるに先だって、妻と子供四人が奴隷に堕とされたことが記載されていた。


 今のところ、問題は無いようだな……


「他に家族は?

 女奴隷セルウァになってから、結婚したり子供を産んだりしたか?」


 グルギアは特に動揺することも無く落ち着いた様子で首を振った。


「いいえ、結婚も出産も経験しておりません」


「事件のことを訊いてもかまわないかね?」


 ルキウスはグルギアを挟んだ部屋の反対側で、確認ができたことをルキウスに知らせるルーベルトのハンドサインを横目で見ながら質問を重ねた。

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