第1070話 道中の会話(2)
統一歴九十九年五月十一日、昼 ‐ マニウス街道/アルトリウシア
沿道にリクハルドの姿があると夫ルキウスに教えられ、アンティスティアはルキウスが乗っている側の垂れ幕越しに、沿道に立つハーフコボルトの姿を探した。
「あら本当だわ。
今ここにいらっしゃるってことは、リクハルド卿は昨夜お泊りにならなかったの?
昨夜の
アルトリウシアの
「ああ、一昨日飲み過ぎたせいで昨夜は控えていたようだがね。
何故だか知らんが、彼はどんなに酔っていても必ず帰るよ。」
「まあ。」
馬車の速度に合わせ、ほぼ走っているに等しい速度で進み続ける座輿から見えるリクハルドの姿は急速に遠のきつつある。それを目で追いながらアンティスティアは驚きの声をあげた。
「ではエレオノーラさんのところへ帰っているという噂は本当なのかしら?」
「エレオノーラ?」
「御存知ない?
ハーフコボルトの御婦人で、アルビオンニウムで歌手をしていたのよ?
大変な美人なんですって……」
リクハルドが
二人はいつ結婚するのか?……二人に関する噂はほとんどそればかりだ。が、二人はいつまで経っても結婚しない。リクハルドにはエレオノーラ以外に女に関する噂はほとんどないし、エレオノーラも同様だ。リクハルドが結婚しないなら俺が……とばかりにエレオノーラにアプローチを試みる男が過去に存在しなかったわけではない。数年前までは年に二~三人のペースでそういう男が現れてはいたのだが、エレオノーラには常にリクハルドの手下がボディーガードについていたし、変にエレオノーラに近づく男がいるといつの間にかリクハルドの手下たちに付け回されることになり、手を引くか姿を消すことになるかのどちらかになってしまうため、今ではエレオノーラに色気を見せる男は居なくなってしまった。何せエレオノーラも今年で三十歳にもなるのだから、いくら美人だからといってチョッカイを出そうという男がいなくなるのも当然だろう。
「ああ、見たことあるよ。
確かに美人だ。」
「そうなんですか?」
「うん、肥えてるわけじゃないがコボルトの血を引くだけあって体格がいいし、何より身体が白いから薄暗い夜の店でも際立って目立つんだな。
声もよく通るし、何といっても歌声に情が
アンティスティアがガバッと上から覆いかぶさってきたのに驚いたルキウスは話を中断した。
「
上から被さるようにルキウスを見つめるアンティスティアの目が座っている。
「な、何だい
「いつお会いしたんですか?」
アンティスティアのいつになく低く冷たい声にルキウスは戸惑いを隠せない。
「何、誰に?」
「エレオノーラさんです!
私、エレオノーラさんが御招待されたとかいう話は聞いたことがありませんし、どこかの
ルキウスの顔がヒクッと引きつるように歪んだ。
「そりゃ、彼女の
凄い歌手がいるって噂を聞いてね……」
「
ラテン語には飲食店を現す単語がいくつかある。バール【BAR】は小料理屋や軽食屋……綴りを見れば分かるように英語で酒場を現す言葉バー【Bar】の語源でもあり、現代でいうファーストフード店や喫茶店みたいに限られた種類の料理を出す比較的小規模な店だ。グルグスティウム【GURGUSTIUM】は大衆食堂……単語の元々の意味は「小屋」や「あばら家」でバールやタベルナが一種の長屋みたいな大きな建物の一角を間借りして営業していたのに対し、そういう独立した建物で食堂を営業したのが由来だろう。現代日本でいうファミレスに相当する。ガーネア【GANEA】は食堂だが怪しげな安食材を用いて食べ放題などをウリにするような、料理屋としては本道から少し外れたタイプの店。タベルナ【TABERNA】は軽食屋や居酒屋、屋台などだが、バールよりは本格的な店構えの飲食店で、広義には郊外の
タベルナでも給仕をしている女がいれば、大概は交渉次第で買うことができるのだが、タベルナとポピーナの違いを決定づけるのは客が求めているモノである。どちらの店も主力商品は酒と料理ではあっても、タベルナの客が求めているのが酒と料理であるのに対し、ポピーナの客が求めるのは主に女や博打……言い方を変えれば飲食を求める客を狙った店がタベルナであり、女や博打を求める客を狙っている店がポピーナだ。
とまれ、そんな店に夫が行っていた……若いアンティスティアにとって面白いわけがない。アンティスティアが何かを勘違いしていると気づいたルキウスは慌てて弁明する。
「違う!
昔の話だ。
まだ結婚する前で、アルビオンニウムに居た頃だよ。」
男尊女卑社会のレーマでは妻を持つ夫が浮気をしたとしても社会的に非難されることはない。夫を持つ妻が浮気すればそれこそ殺されても文句を言えないが、男が浮気するのは節操の無さを多少問題視されることはあっても、「妻を裏切った」とかいうような類の批判がされることはなく、むしろ男の女遊びに関してはレーマはどこまで寛容であった。だが、それは夫の浮気に対して妻が何の感情も持たないということを意味しているわけではない。浮気された女が嫉妬に怒り狂うのは文化や社会風土とは無関係な、もっと根源的な人間の心理である。
特にルキウスの場合は特別な事情もあった。彼は若い頃の落馬により深刻な腰痛を抱えており、馬に乗ることも出来なければ歩く際も杖を必要とする。昨日までそうだったように起き上がることも出来ず、車椅子に頼らねばならないことも珍しくないくらいだ。そうであるがゆえに、アンティスティアはルキウスに嫁いだ後もずっと夫婦の営みがお預け状態になっている。子を産むのが妻の最大の務めとされているレーマ貴族の社会にありながら、それを果たせないままでいるのだ。
それなのにルキウスが
私という妻がいるのに!?
普段から
「だからって・・・そんな・・・」
夫の足腰が立たない……そういう理由だからこそアンティスティアも諦めていた。なのに結婚前のこととはいえ本当は女を抱くことが出来たのだしたら、アンティスティアも心穏やかではいられない。
「歌を聞きに行ったんだよ!
凄い歌手がいるからって、トゥディタヌスに誘われたんだ。
そうだ!
トゥディタヌスも一緒だった。連れて行ってもらったんだ。
トゥディタヌスに訊いてみるといい。」
「
「本当だとも!」
トゥディタヌスはアンティスティアの実兄だ。今でこそアンティスティアの実家の酒屋を継いで立派に営んでいるが、昔は商家の若旦那という気ままな立場にありがちなことに、それなりに夜の街を遊び歩く放蕩息子だった。父がルキウスに酒を納めていた関係からルキウスとも付き合いが出来、車椅子のルキウスを連れて一緒に夜の街に繰り出したりもしている。当時、侍女としてルキウスに仕えていたアンティスティアはルキウスの身を案じて兄と喧嘩を幾度か繰り返していた。
「……いいわ。」
アンティスティアは当時を思い出すと、何かまだ言いたそうな顔のままルキウスの上から退く。ルキウスは愛妻がどうやら納得してくれたようだとは思ったものの、どこかまだ心がソワソワするような落ち着かない気分でアンティスティアを目で追い続ける。
アンティスティアもまだ落ち着かない様子だったが、周囲を見回してフゥッと溜息をついた。
「わかりました。
今度、
その声はまだ静かに怒っているようだった。
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