第990話 オト

統一歴九十九年五月十日、朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ/アルトリウシア



 赤道付近から南下してくる暖流の影響で帝国最南端に位置するアルビオンニア属州の中では比較的温暖なアルトリウシアではあるが、五月の上旬も終わりに差し掛かるとさすがに朝晩はかなり冷え込んでくる。西山地ヴェストリヒバーグの上の方ではもういつ雪が降り始めてもおかしくない晩秋の朝、寝ている間に毛布をはだけてしまったせいで寒さに耐えきれなくなり、オトはついに自分の寝床から起き出してきた。寒さで意識が覚醒した段階で手探りで毛布を探し、何とかくるまり直しはしたのだが、身体が温もりを取り戻す前に尿意を堪えきれなくなってしまったのだ。寒さを堪えるために鎧下イァックを羽織り、割り当てられた奴隷部屋アラエを出たオトはせっかくの睡眠が台無しになったことを呪いながら便所へ向かう。

 オトはリュウイチの奴隷たちの中で唯一の育児経験者ということもあって、リュキスカの赤ん坊の世話を担当している。リュキスカがリュウイチの夜伽よとぎをする間、リュキスカの寝室クビクルムで赤ん坊の様子を見るのが彼の最大の任務だ。オトはホブゴブリンでヒトのリュキスカとは種族が違うとはいっても男であることには変わりない。ゆえにリュキスカの身の回りの世話はルクレティアから貸し出された侍女たちがある程度やってはいるのだが、リュキスカに関連して男でもできそうな細々とした雑用は基本的にオトが全部任されている。

 そんなオトであるから、夜は基本的にリュキスカの部屋で過ごすことが多い。リュキスカの部屋は貴族用に造られているから広く豪華で過ごしやすくはある。しかし、奴隷として赤ん坊の夜泣きなどに備える身である以上、どこかに身体を横たえて寝てしまうわけにもいかず、彼にとって決してくつろげる空間ではない。夜勤の日は夜通し身を休めることの出来ない彼にとって、夜勤のない日は熟睡できる貴重な機会だ。そして彼が自分の寝床で寝れるのはリュキスカが夜伽をしない日だけ……


 リュキスカがリュウイチの部屋で夜を過ごすのは……つまりオトの夜勤の日はだいたい一日から二日置きにある。お盛ん……と言ってよいかどうかはわからない。しとねを共にしてはいても、必ずしもとは限らないからだが、この世界ヴァーチャリアの住民として、レーマ帝国の臣民として、アルビオンニアの、アルトリウシアの領民として、リュキスカが夜伽をするということは良いことではある。聖女サクラは降臨者の精を受けることで魔力を得るという言い伝えがあり、実際にリュキスカの魔力はルクレティアが驚くほど高まっているらしい。それに聖女が降臨者の子を身籠みごもることになれば万々歳だ。降臨者の血を引く子は間違いなく強大な魔力をその身に引き継ぐことになるし、魔力を持つ聖貴族が増えればその国は間違いなく栄えるからである。

 その点、オトは自分の役目が下手な神官がやってる日々のお勤めなんかよりよっぽど重要で神聖なものであることを理解していた。その責任を誰よりも重く受け止めていたし、実際に真面目に勤め上げてもいる。

 だが、自分の寝床で安心して眠るという幸福はそれはそれとして必要なのだ。


 昨夜、オトは夜勤から解放された。リュキスカは夜伽をしなかった。いや、できなかった。昨日の午後から、リュキスカはが来てしまったからだった。

 そのことを、喜んでいいかどうかオトには分からない。聖女であるリュキスカに月経が来たということは、リュキスカがリュウイチの子をその身に宿すことが出来なかったということだ。まあ、リュキスカは避妊薬リジアスを服用しているのだから妊娠しないのは当たり前ではあるのだが、娼婦とはいえせっかくリュウイチに女をあてがうことに成功したレーマ貴族側からすれば、リュウイチの血を引く子を世界に残してほしいヴァーチャリア人としては、かなり勿体ないことではある。

 いっそリュキスカが服用している避妊薬リジアスを、只の香りづけ用の調味料に過ぎないラセルピキウム(リジアスと原料が同じなので違いが分かりにくい)にスリ替え、リュキスカの妊娠を促してはどうかという意見もあった。オトも実はそうした工作に協力するようそそのかされたことが何度かあったのだが、今のところそうした工作は実行に移されてはいないし、オトも協力しないでいる。

 リュウイチに子を残してほしいという気持ちはオトにもあるのだが、それがリュキスカ母子の幸福につながるかどうかというとオトには疑問だったし、何よりオトの主人であるリュウイチにその気がなさそうだからだった。


 とまれ、せっかく夜勤から解放されたのだ。しっかり睡眠をむさぼりたい……そう思っていたにもかかわらず、寒さで目が覚めてしまった。誰が悪いというでもないのに機嫌が悪くなってしまうのも仕方のないことだろう。奴隷仲間で唯一の育児経験者とはいえ、オトも二十五歳の若造に過ぎないのだ。それほど人間が出来ているわけではない。


 便所でテラコッタの尿瓶しびんに用を足しながらオトは尿瓶の中身が満杯に近いことに気がついた。いつもなら誰に言われるまでも無く朝一番にネロが尿瓶を運び出し、空っぽの尿瓶と入れ替えてくれている。だが、今日は未だやってないようだ。


 クソ、今朝は俺が運び出すのか?


 他人の小便が口まで迫ったかめに用を足すのはあまり気持ちのいいものでは無い。かといってネロがやってるみたいに自分で率先して運び出したいと思うようなものでもない。都市部の高層集合住宅インスラで、上の階の窓からに溜まった糞尿をぶちまける奴が後を絶たないのはそれなりの理由や背景があってのことなのだ。


「・・・・・・・・」


 オトは自分で交換するのはやめた。いつもネロがやってるのだ。ならネロにやらせればいい。

 用を足してスッキリしたオトはふんどしスブリガークルムを直し、満足そうにため息をつきながら便所から出た。そのまま知らん顔して自室へ向かうオトは裏口ポスティクムから突然出て来た男とぶつかった。


「うおっと!?」


 出会い頭にぶつかったオトは突き飛ばされ、思わず後ろへ転びそうになったものの何とか数歩下がっただけで堪えた。相手はオトより大柄な男で、オトとぶつかったにも関わらず特によろめくことも無く立ったまま、ぶつかったオトの方を見ている。そしてオトが特に怪我もしてないようだと悟ると、そのまま何も言わずに立ち去り始めた。


「お、おい!ネロ!?」


 相手はネロだった。いつもなら軍人然としてビシッと背筋を伸ばして歩いているのに、今見たネロはまるでゴブリンのように背中を丸くしていた。あまりにも雰囲気がいつもと違ったので、オトが相手がネロだと気づくのに少し時間がかかったくらいだった。


「何だアイツ、何かあったのか?」

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