第991話 ルキウスとアンティスティア

統一歴九十九年五月十日、朝 ‐ ティトゥス要塞カストルム・ティティ・ルキウス邸/アルトリウシア



「それで、ウァレリウス・カストゥス殿は寝室クビクルム朝食イェンタークルムを?」


 何がおかしいやら薄笑いを浮かべながら、ルキウスは朝から妙に不貞腐れている愛妻アンティスティアの話を聞いている。


「仕方ないじゃありませんか。

 二日酔いで起きられないそうなんですもの……」


「まあ、そうなるだろうさ。

 ウァレリウス氏族はサウマンディア貴族の中でも酒飲みだ。

 ハッハッハ……」


 愚痴グチる妻をルキウスは喉の奥で小さく笑いながらなぐさめると、半熟のゆで卵を真鍮しんちゅうのスプーンで掬って口へ運ぶ。そのルキウスへアンティスティアはどこか恨めし気にチラリと視線を向けた。


「笑い事ではありませんわ。

 サウマンディアからお客様が来ていらっしゃるのに、ちゃんとおもてなしできる機会は朝食イェンタークルムくらいなんですよ?

 このままじゃ子爵家ウィケコメスの名折れです。」


 隣の属州領主が公式の使者を派遣して来ているというのに、まともな接遇をしなかったとなれば領主貴族パトリキとしての面目は丸つぶれになる。だが、ルキウスは腰痛を悪化させて療養を余儀なくされており、公務を甥で養子のアルトリウスに丸投げしてしまっているのだ。だから昨夜の宴会コンウィウィウムにも出席しなかった。


 このままではルキウスの立場が無くなってしまうわ……


 そう危機感を抱いたアンティスティアは、マルクスにティトゥス要塞にいる間の宿を提供し、朝食を共にすることでルキウスの領主貴族としての体面を保たせようと考えた。だが、当日になってみればこの始末である。

 肝心のマルクスは二日酔いで起き上がれず、用意した朝食は無駄になり、二日酔い用のメニューを急遽用意してマルクスの寝室へ届けるだけで終わってしまった。そしてアンティスティアとルキウスも結局は食堂トリクリニウムではなく、ここ数日ずっとそうし続けていたようにルキウスの寝室で朝食を共にする有様だ。マルクスの二日酔いで朝食は夫婦だけになったと聞いたルキウスが、じゃあわざわざ食堂じゃなくてもいいじゃないかと言い出したせいだった。


「酒飲みにとって一番ありがたい朝の接待は、会食じゃなくてゆっくり寝させてもらうことさ。

 二日酔いの苦しみなんて誰かと共有して楽しいもんじゃないからな。」


 なじるアンティスティアにルキウスは片眉を持ち上げ、どうしようもないさと慰める。ルキウスにしてみれば、こうなることは分り切ったことだった。酒屋の娘だったアンティスティアだって多分、冷静にちょっと考えれば気づいていたはずだ。そうならなかったのはルキウスとマルクスに会食の機会を持ってほしい、それを自分でプロデュースできれば上級貴族パトリキの妻として理想的ではないか……そういう期待に目がくらんだせいだろう。上級貴族の妻にふさわしくりたい……そう願い続けるアンティスティアの、そう願うが故の失敗だった。そうなってほしいという願望ゆえに、そうはならないという当たり前の現実から無意識に目を背けてしまったのだ。ルキウスも事前にそれとなく忠告したのだが、アンティスティアは気づいてくれなかった。


「そんな他人事みたいに暢気のんきなことを言って……」


 アンティスティアの中でルキウスに対する恨みのような感情が沸き起こり始める。


 この人ルキウスはこうなることが分かってたんだわ。

 ならもっとちゃんと言ってほしかった。

 そしたら私もこんな失敗しなくて済んだのに……


 ひょっとしてルキウスは自分が失敗するところを見て楽しんでるんじゃないかしら?……そんな疑念すら湧きかけていた。もちろん、そんな疑念はそれを自覚する前に無意識に否定している。

 ルキウスは実際にそういうところがあった。アンティスティアがよく知らない貴族社会の文化や習慣に関して、わざと出鱈目でたらめを教えて揶揄からかったりするのは日常茶飯事だった。アンティスティアが誰よりも貴族たらんと努力するようになったのは、もしかしたらルキウスに揶揄われ続けたことが影響していたのかもしれない。

 だが、今回のことに関してはルキウスはアンティスティアを揶揄う気持ちなど全くなかった。アンティスティアが失敗するであろうことはもちろん分かっていたが、失敗する妻を面白がるつもりでわざと見逃していたわけではない。現に忠告はしている。

 ルキウスはアンティスティアが失敗するであろうことは知っていたが、同時にアンティスティアがどういうつもりで朝食会を催そうとしているかもよく理解していたのだ。ルキウスとしてはその気持ちを無下むげにしたくなかった。また、失敗しても大したダメージにはならないだろうとも思っていた。思いっきり好きにさせてやりたいという気持ちもあった。アンティスティアならこれくらいの失敗はかてにしてくれるだろう……そういう期待、信頼もあった。だから、少しばかり忠告はしても、強くいさめて無理やりやめさせるようなことまではしなかったのだ。

 が、そのような年寄臭い気持ちなど、まだ若いアンティスティアには分からない。失敗するのが分かっていながら止めなかった……止めてくれなかったという事実が心の中でわだかまる。


 アンティスティアのジトッとした視線に耐えかねたルキウスは半笑いを残したまま顔をしかめ、ミルクの入った茶碗ポクルムに手を伸ばした。


「そんなに言うならやっぱり宴会コンウィウィウムに出席すればよかったじゃないか。」


 ルキウスは最初、宴会に出席するつもりだった。そうすれば貴族の面目だのなんだのと面倒くさいことは考えなくて済む。二日酔いで苦しむマルクスを、出席できるわけもない朝食会に招待するような不手際をせずに済んだだろう。だがそれはアンティスティアの反対で出席は取りやめになり、代わりに朝食を一緒にするということになったのだ。


「ダメですよ、そんなの!

 療養で公務を休んでるっていうのに、宴会コンウィウムだけは出るだなんて!

 子爵閣下ルキウスが休んだことで迷惑をかけてる人たちがどう思うことか!」


 ヤレヤレ……とばかりにルキウスは両眉を持ち上げる。こういう点をルキウスは軽視する傾向があった。元々、貴族の家に生まれながら貴族的な面倒ごとを嫌悪しうとんじ続けてきただけあって、アンティスティアがやたらと気にする貴族の体面だの周囲の者への配慮だのといった事を気にすること自体が嫌いだったのだ。家のしがらみから逃れて自由になりたいという願望を未だに捨てきれないでいる彼は、好き好んで貴族の仲間に入りたがろうとする者や貴族的であろうとする者たちに、わざわざ自分が配慮してやらねばならない理由が理解できない。

 ルキウスが心の奥底で密かに軽蔑しているそういう人たちの中にアンティスティアは含まれていない。だが、アンティスティアが密かに軽蔑している人種の仲間入りを果たそうとしていることにはもちろん気づいていたし、そのことはルキウスに複雑な心情を抱かせても居た。

 そうしたルキウスの心情は本人の自覚していないところで表情ににじみ出ており、それは平民プレブス出のアンティスティアのコンプレックスを刺激し続けていた。


「だいたい、アルトリウスを何で帰したんですか!?

 彼も今日はウチに泊まって、朝食イェンタークルムを一緒にするはずだったじゃありませんか!?」


 ルキウスのどこか煮え切らない態度に、アンティスティアはついに八つ当たりを始める。


 また始まった……そうは思いつつも、ルキウスもアンティスティアとは親子ほども歳が離れている。アンティスティアの多少の八つ当たりくらい、受け流す程度の器量は持ち合わせていた。


「別にいいじゃないか……

 アイツだってここの所、家に帰ってなかったのだ。

 世継ぎの家庭に気を配るのも、領主貴族パトリキの務めだろう?」


 そう言われては、誰よりも貴族たらんと欲するアンティスティアに反論は出来ない。アンティスティアは小さく唇を噛んで黙るしかなかった。


 どうせ流れるに決まっている朝食会のために、ここのところずっと家に帰れていないアルトリウスを憐れみ、ルキウスは昨夜宴会場から戻ったアルトリウスを家に帰していた。それは事実である。家に帰れていないアルトリウスをかわいそうに思う気持ちもルキウスにはもちろんあった。だが、それはルキウスにとってアルトリウスを家に帰した一番の理由ではない。

 実を言うとアルトリウスを我が家から追い出したいという気持ちが一番だった。ルキウスとしては、アンティスティアが昔のように甲斐甲斐しく接してくれるボーナスタイムをマルクスやアルトリウスに邪魔されたくなかったのである。

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