キルシュネライト伯爵

第833話 キルシュネライト伯爵邸

統一歴九十九年五月十一日、午後 ‐ キルシュネライト伯爵邸/レーマ



 朝、アルトリウシア子爵邸を訪れてグナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨル子爵令嬢と話したエーベルハルト・キュッテルは、その足でそのまま自らが御用商人として仕える主人であり、同時に義理の兄弟でもあるオットマー・フォン・キルシュネライト伯爵の屋敷を訪れていた。

 まだ朝と呼んでよい時間帯に子爵邸を出たにも拘らず、エーベルハルトが到着したのは既に空から降り注ぐ光がわずかに黄味がかり始めた午後の時間になったのは帝都レーマ自体の広さもあることながら、伯爵邸が馬車の乗り入れの禁じられた旧市街地の向こう側にあったからに他ならない。


 伯爵邸はかつて湿地が広がっていた広い盆地に広がるレーマ市街の中では比較的環境の良い山の手にあり、周囲には他の上級貴族パトリキ屋敷ドムスも多く、レーマ市街の中では道路事情も良い方である。レーマ市街の中では比較的道幅の広さが保たれており、貧民が押し込められたような高層集合住宅インスラもないため道を歩いている時に突然頭上から糞尿が降って来るような恐れもないのだが、山の手という地形ゆえにレーマの中心部に面した西側には道路の途中で階段などが当たり前のように作られていたりするため、子爵邸のある新市街地から旧市街地を突っ切って馬車などの車両を乗り入れたくても出来ないのだ。

 フォルム・レマヌムのあるレーマ市中心部とは反対側へなら高低差が少ないため車両での出入りも可能となるのだが、子爵邸のある新市街地はフォルム・レマヌムを挟んだ反対側に位置するため、子爵邸から馬車で伯爵邸へ行こうとするとレーマ市街の外側を大きく迂回せねばならず却って時間がかかる。馬車を乗り入れることはできずとも旧市街地を徒歩で突っ切り、断続的に階段の現れる坂道を登って行った方がよっぽど早い。が、徒歩でその行程を行こうとすればそれだけで半日近い時間がかかってしまう。

 もちろん、御歳五十のエーベルハルトにとってそれだけの移動は、自分の脚でするにはかなり無理がある。当然、上級貴族パトリキに引けを取らない財力を誇る豪商で世間からは下級貴族ノビレスの一員と認められている彼は、そのような行程を自分の脚で歩いたりはしない。健脚自慢の使用人たちによって担がれた座輿セッラに乗っての移動だ。


 担ぎ手四人によって担がれるエーベルハルトの座輿は、担ぎ手二人で担がれる一般的な他の座輿に比べると移動速度も速いし揺れも少ない。乗っている方は身体を動かすどころか踏ん張って座席にしがみつく必要すら無いため、道中眠りこけていても安全に目的地まで運んでもらえる。だが、それにもかかわらず伯爵邸に到着したエーベルハルトは軽く汗ばんでいた。


「キュッテル様、お早い御着きで。」


 伯爵邸へ到着したエーベルハルトを伯爵家の家令が出迎えた。地面に降ろされた座輿から降りながら、エーベルハルトは挨拶を返す。


「やあ、ラインハルト。

 伯爵閣下エクスツレンツ・グラーフは御在宅かな?」


「先ほどからキュッテル様をお待ちです。

 それにしても……」


 エーベルハルトを出迎えてくれた顔なじみの家令ラインハルトは挨拶の途中で愛想笑いを消して言い淀み、怪訝な表情でエーベルハルトの顔色を観察する。


「?」


「随分と汗をおかきのようですが、御加減でも?」


 どうやらエーベルハルトが自覚している以上に汗をかいているらしい。

 汗の理由は途中通過したフォルム・レマヌムの人混みの熱気に当てられたからというのも全く無いではないが、汗の原因としては小さいだろう。最大の原因は単純に気温の高さであった。温暖な帝都レーマは五月も中旬になると早くも初夏の陽気が訪れ始める。現に今日も昨日に引き続き五月としては珍しいほどの気温であったし、今朝のひんやりした空気に合わせて服を重ね着してきたエーベルハルトにとって、昼からのこの気温は身体への負担が大きすぎたようだ。エーベルハルトは笑いながら答えた。


「ハハッ、いや大丈夫さ。

 何せ昨日に引き続いてのこの陽気だ。

 ああ、座輿ゼンフテフォアダッハでもつけてくるべきだったかな?」


 何か無理をしているように見えるエーベルハルトを心配し、ラインハルトは軽く首を振った。エーベルハルトもいい歳だがラインハルトも年齢では負けていない。お互いに無理の利く身体ではないことは身をもって知っていたし、立場や役目上多少の体調の異変は無視してしまうこともよくわかっていた。


「いやいや、それだけなら良いのですが少し尋常ではない汗です。」


「いや、本当に大丈夫だ。

 まあ、少し頭痛はするかな?

 だがそれくらいだ。大丈夫だよ。

 ああ、少し喉が渇いた。

 あと、伯爵閣下エクスツレンツ・グラーフにお逢いする前に汗を拭きたいな?」


「もちろん、それくらいはかまいませんとも。

 飲み物もすぐに用意いたしましょう。」


 軽い熱中症の症状を呈しているエーベルハルトを気遣い、ラインハルトはエーベルハルトのリクエストを快諾した。軽くお辞儀をするように手で屋敷を指し示し、屋敷へと招き入れる。

 この先、エーベルハルトはオットマーと面会し、今朝大グナエウシアグナエウシア・マイヨルから仕入れた情報を報告せねばならない。それはアルビオンニアから届いた手紙の内容が真実であろうことを裏付け、更にムセイオンが既に動き出しているらしいことを示すものだった。


 降臨自体がそもそも驚天動地の出来事なのに、皇帝もムセイオンも何もかもが想定をはるかに超える早さで動いている。こちらは状況の把握すら間に合っておらんと言うのに……このままでは置き去りにされてしまうぞ。

 それを思うと本当に頭が痛くなってくるようだ。


 エーベルハルトはラインハルトが用意させた冷たく冷えた御絞りで顔を拭きながらも、なおも頭痛の激しくなってくるのを感じていた。

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