第812話 伏せられた凶事(1)

統一歴九十九年五月十一日、午前 ‐ アルトリウシア子爵邸/レーマ



 グナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨル子爵令嬢はキルシュネライト伯爵家の御用商人エーベルハルト・キュッテルに対し、昨日『黄金宮ドムス・アウレア』に参内した際に見聞きしたことを洗いざらい話した。決して口外しないようにと言われていた大聖母グランディス・マグナ・マテルフローリア・ロリコンベイト・ミルフやその息子ルード・ミルフ二世のことについても隠すことなく報告する。エーベルハルトはオットマー・フォン・キルシュネライト伯爵の代理として大グナエウシアグナエウシア・マイヨルを訪ねてきているのであり、オットマーは元老院セナートスにおいてアルビオンニア属州の利益を守るために働く元老院議員セナートルである。オットマーは大グナエウシアにとって、レーマでの後見人であり父親代わりなのだ。そして事は子爵家のみならずアルビオンニア属州全体に関わることでもある。オットマーには全てを話し、すべてを知っておいてもらわねばならない。だいたい、アルビオンニアやアルトリウシアの命運なんて大グナエウシアが一人で背負うには重すぎる。


 エーベルハルトは静かに、だが適切に相槌を打ちながら大グナエウシアの話を聞いた。さすがにムセイオンでもトップクラスの聖貴族コンセクラトゥムの名前が出て来た時は驚きを隠しきれはしなかったが、それでも大グナエウシアの話の腰を折ることなく、細心の注意を払って耳を傾ける。


「……それで、私は陛下より今日も参内するよう仰せつかり、陛下の御前より下がりました。

 それから陛下の御用意くださいました御料車で屋敷ドムスまで送っていただきました。」


 大グナエウシアが全てを話し終えた後、応接室タブリヌムには沈黙の時が流れた。エーベルハルトはジッと両手で包み持った茶碗ポクルムを覗き込むように視線を落としたまま息も乱さず何かに集中しているようであった。大グナエウシアは自分で何か言い忘れたことは無いか、沈思黙考する眼前の老人を見据えたまま記憶をたどり始める。


 エーベルハルトは大グナエウシアの話を聞いて一つ気づいたことがあった。エーベルハルトの義弟であり、御用商人として仕える主人でもあるオットマー・フォン・キルシュネライト伯爵に届けられた報告書には書かれていたのに大グナエウシアの話にはハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱については全く触れられていなかった点である。


 エルネスティーネから伯爵コメスへの報告にはハン支援軍アウクシリア・ハンが叛乱を起こしたことが書いてあった。アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシア軽装歩兵ウェリテスがメルクリウスと間違えて攻撃を仕掛けてしまったことも、脱走するハン支援軍アウクシリア・ハンの『バランベル』号が降臨者様の玉体ぎょくたいをお運びする船を砲撃してしまったことも……

 皇帝インペラートルへの報告の内容が伯爵コメスへのそれと異なると言うはずはあるまい。皇帝インペラートルは間違いなくそれらのことを御存知の筈……なのに子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアが知らないということは、皇帝陛下インペラートルは叛乱や現地で起きた戦闘については伏せられたということか?


 エーベルハルトは香茶を一口啜り、身体を起こして上体を背もたれに預ける。だが視線は相変わらず伏せたままで、向かい合って座る大グナエウシアへは向けない……いや、何も見ていないように大グナエウシアには見えていたが、実際はエーベルハルトは大グナエウシアを見ていた。ガラスのように磨かれた大理石の円卓メンサに映る大グナエウシアの姿を……。

 上下さかさまに映る、エーベルハルトの顔をジッと観察しつづける大グナエウシアの様子をジッと眺めながらエーベルハルトは考え続けた。


 伏せたのは戦事いくさごとに関してだ。

 大グナエウシアこの子にはまだ知らせるべきではないと思召おぼしめされたか……

 恐らくそうだろう。

 百年ぶりの降臨が起きた。それも自分の領国で……おまけに降臨したのが暗黒騎士ダーク・ナイト》だ。家族愛のひときわ強い子爵令嬢この子がどれだけ取り乱したかは想像に難くない。

 陛下はアルビオンニアの様子をお聞きになられるために子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアを召し出されたのだ。そのために子爵令嬢この子が取り乱して話が出来なくなってしまわないよう思召され、あえて戦事についてはお触れになられなかったのだろう。


 


「あの、キュッテルさん?」


 いつしか表情を険しくしていたエーベルハルトに大グナエウシアは恐る恐る声をかけた。


「ん?……おおっ、これは失礼!」


 いつの間にか目の前の大グナエウシアのことを意識の外へ追いやってしまっていたことに気づき、エーベルハルトは慌てて取りつくろう。


子爵令嬢ウィケコミティス・フィリア皇帝陛下インペラートルの御前で御立派に振る舞われる様子を想像し、少しばかり感慨にひたってしまいました。

 どうかお許しを……」


「いえ、それでしたらいいのですけど……」


 笑顔で弁明するエーベルハルトだったが、もしそれが本当ならそんな険しい表情を浮かべていた理由がわからない。いぶかしむ大グナエウシアの気を反らすかのようにエーベルハルトは質問を始めた。


「お伺いしたお話によると、皇帝陛下インペラートルから御国で何か戦のようなことが起きたというような話は無かったのですね?」


 エーベルハルトの顔には笑みが浮かんでいたが、その目は射抜くようにジッと大グナエウシアへまっすぐ向けられている。


「え、ええ……私もそれを心配したのですけど、皇帝陛下インペラートルは『生じておらん』とハッキリ申されました。

 こうも申されましたわ、『家族のことはひとまず安心するがよい』と……」


 戸惑いながら答えたそれは大グナエウシアが先ほどの報告の中でも説明したことの繰り返しだった。


 何でそんなことを確認するんだろう?

 確かに大事なことだし私も心配なことだけど……


 エーベルハルトの顔を見返しながら考えを巡らせる大グナエウシアの顔から戸惑いながらも浮かべていた笑みが急速に消えていく。大グナエウシアが見たところエーベルハルトの目は両目とも大グナエウシアをまっすぐ見ていた。

 普通、人の視線は誰かの目を見る時、相手の両目の内のどちらかに視線が集中するものである。人の目は二つあるが、それらの目は通常、二つのものを同時に見ることはできないからだ。人が不安に襲われたときにのは、相手の心情を見抜こうと無意識のうちにいつも以上に入念に観察し、相手の左右の目を見比べるからに他ならない。両目で相手の右の目を見、次の瞬間には相手の左の目を見る……それを頻繁に繰り返すので、目が泳いでいるように見えるのである。今のエーベルハルトの目を見る大グナエウシアもそうであった。

 だがエーベルハルトの両目はまっすぐ大グナエウシアの両目を射抜いていた。そう、大グナエウシアのどちらかの目を見るのではなく、目を貫いてさらに後ろで焦点を結ぶかのように……大グナエウシアはその視線に不安を覚え、その意味にいつも以上に考えを巡らせた。

 エーベルハルトの視線、そして先ほどの質問から大グナエウシアは一つの可能性に思い当たる。


「まさか、戦が起こったというのですか!?」

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