第664話 侯爵夫人からの報せ

統一歴九十九年五月八日、午後 - ティトゥス要塞カストルム・ティティ・ルキウス邸/アルトリウシア



 アルビオンニア属州において最も高い地位にあるのは属州女領主ドミナ・プロウィンキアエであるエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人である。そして、一般に高位の人物が入室する時、室内に居た者は起立して迎え入れるのが礼儀である。だが、名告げ人ノーメンクラートルがエルネスティーネの入室を声高らかに告げたにも拘わらず、エルネスティーネが入室した時に立って出迎えた者は一人としていなかった。

 無理もない。一人は腰痛でベッドに寝そべったまま起き上がれぬ病人……ルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵であり、もう一人は下半身不随で車椅子から立ち上がることのできない障碍者……ルクレティウス・スパルタカシウスだったのだから。


ごきげんようサルウェー子爵閣下ウィケコメス。」


ようこそサルウェー侯爵夫人マルキオニッサ

こんにちはグーテン・ナッハミターク侯爵夫人フュルスティン


「まあスパルタカシウス卿、奇遇ですわね。

 このようなところへお運びとは珍しい。

 せっかくの御歓談をお邪魔してしまったのでなければよいのだけれど?」


 エルネスティーネはルキウスと共に挨拶を返してきたルクレティウスに驚いてみせた。もちろん、入室する前にルクレティウスが訪れていることは取り次いだ使用人から知らされているし、ルキウスたちも知らされている。そもそも、来客があったとしてもすぐには通さず、主人にまずお伺いを立て、部屋に通すか、待たせるか、帰ってもらうか決めるものなのだ。その過程でルクレティウスが来ているので同席することになるが構わないかと、エルネスティーネにも確認をとっている。

 しかし、ここであえてそうしたプロセスなど無かったかのように振舞うのは、レーマ貴族の社交儀礼のようなものであった。


「ご心配なく、大した話はしておりません。

 それに丁度、そろそろおいとましようかと思っておったところです。」


 実際のところ、いきなり娘を嫁に取られた男親の愚痴と恨み節がルキウスに浴びせられていただけであった。自分に責任が無いわけではないどころか、むしろこの件に関して完全な黒幕フィクサーを演じてしまったルキウスは、その自責の念ゆえにルクレティウスの愚痴から逃れることが出来ずにいたのであり、そのルキウスにとってエルネスティーネの突然の来訪はまるで救世主の到来に等しいものであった。


「まあ、そうだとしたら残念ですわ。

 今日は子爵閣下にお話があって来たのだけれど、スパルタカシウスルクレティウス卿にもお話ししたい事がございましたのよ?

 お二人が御一緒なら、私としては却って都合が良いのだけれど……」


「私たち二人に?」


 ルキウスとルクレティウスは思わず顔を見合わせた。ルキウスはアルトリウシア子爵領の領主であるが、現在は腰痛のため自宅療養中であり、領主としての職務は跡取り息子であるアルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子に任せてある。そのことはエルネスティーネも知っているはずだ。

 そしてルクレティウスはスパルタカシウス家の当主であり、アルビオンニア属州の神官たちを束ねる地位にある聖貴族コンセクラトゥムである。が、不遇の身ゆえに実務の多くは娘のルクレティアと臣下たちに任せており、ほぼ隠居いんきょ同然の身だ。そのことを知らぬ者など、帝国南部ではほとんど居るまい。

 公職から離れている二人に属州女領主ドミナ・プロウィンキアエが自ら直接話をしなければならないこと……二人に思いつくこととなると、リュウイチのことかルクレティアのことぐらいしかない。


「ええ、残念ながらあまり愉快なお話ではないのだけれど、知っておいていただかなくてはなりませんの。

 掛けてもよろしいかしら?」


 立ったままだったエルネスティーネは椅子を所望し、どうやら込み入った話をする気のようだと気づいたルキウスはベッド脇に置いてあった、普段アンティスティアがルキウスの世話をする時に使っている椅子を勧めた。


「おお、これは気が付かなかった。

 どうぞ、長い話は腰を落ち着けた方が良いでしょう。」


 「ありがとうございます」と礼を言って、ヒトには少し幅広のホブゴブリン用の椅子に腰掛けると、ルキウスとルクレティウスの二人に対してライムント地方で起きている事件のあらましについて話した。それらは機密扱いになっている情報であり、二人が初めて知る内容であった。


「なんという事だ、私が寝込んでからわずか三日の間にそんなことになっていたとは……」


 ルキウスはベッドに臥したまま額に手を当て、呻くように言った。ルクレティウスの方は沈痛な面持おももちではあったが、腕組みをしたまま沈黙を守っている。


「それだけではありませんよ?」


「まだあるのかね?」


 勘弁してくれと言わんばかりにルキウスが驚きの声をあげ、ルクレティウスも無言のままではあったが目を剥きエルネスティーネを凝視する。


「ええ、どうやら昨夜から今朝にかけて、グナエウス街道にダイアウルフが現れたようですの。」


「なんと!?」

「ダイアウルフ……ハン族か……」


「まだ詳細はわかりませんわ。

 これは早馬で第一報が届けられたばかりですの。

 街道の近くで炭を焼いていた炭焼き職人と、グナエウス砦からアルトリウシアへ向かっていた馬車が襲われ、どうやら人死にも出ているようですわ。

 それを聞いてご子息アルトリウスは早速、部下を引き連れてマニウス要塞カストルム・マニへ飛んで帰りましたのよ?」


 ルキウスは両手で顔の上半分を覆い、ハァ~~ッと嘆くように大きく息を吐いた。

 ダイアウルフがアルトリウシア平野で活動しているらしいことは分かっていた。それが銃撃を受け、撤収したらしいという報告も受けている。グナエウス街道にダイアウルフが現れたとすれば、アルトリウシア平野にいたダイアウルフだろう。アルビオンニアには野生のダイアウルフなど居ないのだから、ハン支援軍アウクシリア・ハンが大陸から持ち込んだダイアウルフに間違いない。


 まさか、ダイアウルフが脱走したというのが本当だったのか?


 一瞬、その疑問が頭をよぎる……が、すぐに否定する。セヴェリ川越しに銃撃を受け、被弾したのは間違いなくハン支援軍アウクシリア・ハンの騎兵だ。騎兵用の革帽子が残されていたし、血痕も残っていた。足跡等の痕跡もあったという。

 ダイアウルフが脱走したなんて話は間違いなく嘘だ。おそらく、騎兵をアルトリウシアへ派遣していることがバレたために急遽きゅうきょ用意した言い訳であろう。

 ハン支援軍アウクシリア・ハンは目的があってアルトリウシア平野へ騎兵隊を派遣していた。何が目的かはわからないが、ともかくそれがバレ、銃撃まで受けてしまい作戦続行が困難になったに違いない。それでグナエウス峠へ移動した……


 つまり、作戦を変更したんだ。

 セヴェリ川越しにアイゼンファウストを伺っていた連中が、迂回してグナエウス峠へ回り込んだ。そして今度は本格的に攻撃を仕掛けてきている?

 ハン族やつらの目的はいったい何だ!?


子爵閣下ルキウス?」


「あ!?……ああ、すまない。話を続けてくれ。」


「ええ、それでまだ詳しい状況がわからないのだけれど、ともかくグナエウス街道の通行が難しくなったでしょう?

 だから、ルクレティア様の御一行にはグナエウス砦でお留まりいただこうという話になったの。」


「ふぅー--っ」


 今度はルクレティウスが大きくため息をつく。ルクレティアが……というより、ルクレティアに付けられた《地の精霊アース・エレメンタル》が活躍したらしい話をしていた時はどこか心の内に湧きあがる喜びを抑えきれないような様子もわずかに伺えたのだが、ただ単純に力ではどうにもできないような難しい状況に追い込まれつつある愛娘の身が案じられるのだろう。


「ルクレティア様はきっと大丈夫ですよ、スパルタカシウスルクレティウス卿。」


「ああ、ありがとうございます、侯爵夫人マルキオニッサ

 もちろん、軍団レギオーには全幅の信頼を置いておりますとも……」


 ルクレティウスの憂慮を慰めるエルネスティーネに、ルクレティウスは苦笑いを浮かべて答えた。もちろん、ルクレティウスにしても娘の安全が脅かされることを心配しているわけではなかった‥‥。


 一日でも早く帰りたいだろうに‥‥‥


 しかしこればかりはどうしてやることも出来ない。ルクレティウスも多少は私兵を持ってはいるが、身辺警護や私邸や神殿の警備を任務とする軽装の兵士であり、本格的な軍事行動は手に余る。ダイアウルフの、それも群れとなれば対応は難しいだろう。軍団レギオーが本格的に対応しようとしている中に送り込んでも、却って邪魔になってしまいかねない。


「ともかく、軍団レギオーが一日でも早く解決するよう、最優先で対処してくださいます。

 今は子爵公子閣下アルトリウスからの吉報を待つほかありませんわ。」


 そう言い、エルネスティーネはチラリとルキウスの様子を伺う。ルキウスからもルクレティウスに対する慰めの言葉を期待したのだが、残念ながらルキウスは額に手を当てて何か考え込んでいるようだった。焦点の定まらぬ目で虚空を見つめ、唇がブツブツと何かつぶやくように細かく動いている。


 まったく、この人は……


 呆れながらエルネスティーネは話題を変えることにした。


「そう、それともう一つ別の話題なのですけど」


 務めて明るく、少し大きな声で二人に話しかける。


「クプファーハーフェン男爵からようやく手紙が届きましたのよ。」

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