第601話 卵を割る

統一歴九十九年五月六日、昼 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



『じゃあ、まずは小麦粉を入れまーす!

 じゃあカール君とエルゼちゃん二人で、このの中に小麦粉を入れてくれるかな?』


 庭園ペリスティリウムには新たに小食堂トリクリニウム・ミヌスから円卓メンサが運び出され、その上に大きな真鍮のボウルが置かれると、リュウイチはやはり真鍮で出来た目の細かい粉フルイを構えて言った。あれやこれやで「よし作るか」と最初に言ってから早くも半時間は経過している。

 空は晴れ間が見えない程度の薄曇りでこの季節にしては少し暖かい日和ひより、朝に降った霧雨で草木は重く湿ったままだったが彼らのいる庭園ペリスティリウムの石畳は乾いていた。そこへ重々しく精巧な意匠の施された豪華な円卓メンサが置かれ、純白のテーブルクロスをかけて子供用の調理台とし、そこから少し離れたところに厨房クリナから持ち出してきた調理台を置いて調理器具や食材を積み上げている。すぐ近くには(この世界ヴァーチャリアの基準では)清潔な水が絶えず流れ続ける噴水があり、周囲を晩秋の花々で彩られた花壇で取り囲まれたそこは、即席の屋外調理場だ。


 臨時の家庭教師グヴェルナンテのミヒャエル・ヒルデブラントに介助されながら、カール・フォン・アルビオンニア侯爵公子とエルゼ・フォン・アルビオンニア侯爵令嬢は小さなボウルをそれぞれ一つずつ手に持ち、料理長アルキマギールスのルールスが口を拡げた状態で支えている袋から小麦粉を掬い取っては、リュウイチの構える粉フルイに入れ始めた。その度にリュウイチは粉フルイをポンポンと横から叩いて、その下の大きなボウルに小麦粉を落として行く。


 何人分作ればいいんだろう?

 …・・・いち、にい、さん…十四人?

 いや、多分エルネスティーネさんにもぐらいした方が良いよな?


 この場に居るのがリュウイチ、リュキスカ、カール、エルゼ、ネロたち奴隷五人、エルゼの乳母キンダーメディヒェンロニー、カールの家庭教師ミヒャエル、料理長アルキマギールスのルールスとその部下が二人である。リュキスカの赤ん坊フェリキシムスは離乳食を始めたばっかりだから人数に入れなくていいだろう。しかし、多分子供たちは初めて自分で作ったケーキを母エルネスティーネや身の回りの人たちに自慢したくなるに違いない。リュウイチもそうだった。だとするとエルネスティーネの分も要るだろう。となると、この場に居ないけどカールの姉ディートリンデの分を忘れるわけにはいかない。あとはカール付きの侍女たちも遠くでこっちをチラチラ見ているから用意した方が良いだろう。

 そう考えると二十人前では収まりそうにない。どうやらとんでもない量になりそうだ。幸か不幸か調理器具はどれもいわゆる“業務用”のプロ仕様で、家庭用とは比べ物にならない大きさだ。それに何を思ったのかルールスは小麦粉を袋ごと、卵も籠にいっぱい山積みにして持って来ている。牛乳もアンフォラごと持って来ていた。優に四十~五十人の胃袋をそれだけで満たせそうな量である。


「リュウイチ様、そろそろよろしいのでは?」


『え!?あ、おお!?…そうだ、もういいよ!もういい!!』


 ルールスの声に気づけば一抱えほどもある大きなボウルの半分くらいが小麦粉で満たされていた。これ以上入れると掻きまわせなくなる。

 リュウイチに「もういい」と言われ、エルゼは持っていた小麦粉を粉フルイの中に全部注ぎ込んで満足そうに「はいっ」と言って、踏み台から飛び降りた。カールは既に額に汗をかき始めている。つい最近まで、立って歩くことすらままならなかったことを考えればこの体力のなさは仕方のないことなのだろう。むしろ、これだけ短期間でよくここまで回復したと褒めてやってもいいかもしれない。


『よしっと…じゃあ次は卵を入れまーす!

 卵を割って、この中に入れてもらっていいかな?』


 粉フルイに入っていた小麦粉を全部ふるい落とし、残った小麦粉の塊も砕いて落としてリュウイチがそう言うと、待ってましたとばかりにルールスが卵を割る用意を始める。


「ではお二人とも、そのボウルに卵をこうやって割って入れて、それから先ほど小麦粉を入れたあのボウルに入れてください。一つずつ。」


 ルールスはリュウイチがやりたいことをどうやら察してくれているようである。あれだけケーキ作りに興味津々でリュウイチ以外の大人の中では一番やる気満々だったにもかかわらず、自分で直接手は出さずにカールとエルゼに手ほどきをし始めた。

 二人の前にしゃがみ込んだルールスは、まず小さなボウルに卵を割り入れ、卵を目で見て確認してから大きなボウルに移すのをやってみせる。


「全部、まとめて割ってから入れたのではいけないのか?」


 小麦粉を入れるだけで疲労を覚えてしまっていたカールは、小さく肩で息をしながら少し不満そうに言った。ルールスはニコッと微笑みながらカールの顔を見上げながら答える。


「閣下、閣下の御前に出される卵はどれも調理された良い卵ばかりです。

 ですが、料理される前の卵の中には悪い卵も混ざっているのです。

 良い卵か悪い卵かは、割ってみなければわかりません。

 だから、こういう小さい容器に一つずつ割って、悪い卵ではないことを確認してから使うのです。良い卵と悪い卵が混ざったら、それまでに割った良い卵も捨てなければならなくなりますからね。」


「悪い卵?」


「そう…病気の卵もあるし、中にはひなの卵もあります。」


 そう言いながらルールスは左手にボウルを持ち、右手だけで卵をボウルに割入れてはチラっと見て小麦粉の中へ入れる動作を繰り返した。そして五つ目でを見つけ、それをカールに見せる。それには卵の黄身の部分に黒い眼玉と赤い血管が出来かかっていた。


「うえっ!?」


 カールは思わず顔をしかめる。


「こういうのを探して除けるのも私共の仕事なのです。」


 ルールスは配下の料理人に目配せすると、別のボウルにそれを受け取らせた。


「エルゼも見る!」

「エルゼは見なくていいよ!」


『そういうのって、多いんですか?』


 気になったリュウイチが尋ねた。リュウイチも子供の頃、家で鶏を飼っていたことがあり、自家製の卵を食べていた時期があったし、リュウイチ自身もそういう雛になりかけの卵に出くわしたことがある。だが、リュウイチは数年間にわたり毎日食べていたにもかかわらず、そういうのに出くわしたのは二回だけだった。蛇足だが、《レアル》日本では卵かけご飯をする時にご飯の上に直接卵を割り入れる人が多いが、リュウイチはそういう経験があったので必ず別の器に卵を割ってからご飯にかける習慣が身についている。


「いえ、普通はそんなには無いんですが、私共は屋敷ドムスの全員分を毎日料理しますからね…日に一個か二個くらいですね。

 今日はまだ見てなかったので、そろそろあるかと思ったらました。」


 ルールスは苦笑いしながら説明し、ボウルと卵をカールに差し出す。カールはそれを受け取ると、手に持った卵を見つめながらゴクリと唾を飲み込んだ。


『大丈夫だよ。さっきみたいなのは滅多にないから…』


 怖気おじけづいたらしいカールをリュウイチが励ますと、カールは「はい」と返事をし、ボウルを円卓メンサに置くとボウルの端に卵を叩きつける。


 グシャッ…


 カールは八歳になる今の今まで卵を割ったことが無く、力加減が分からなかった。卵は見事に潰れてしまった。


「あ…」


『あ、あああ…

 あ~…気にしなくていいよ。

 卵の殻は脆いから、当てて音を鳴らしたらすぐに引くくらいのつもりで、それで表面に割れ目をちょっと入れるだけでいいんだ。

 一つ貸して…』


 情けない顔をしているカールの前にしゃがみ込むと、リュウイチはルールスから新しい卵を受け取る。


『ほら、さっきこの人ルールスのやったのと同じように片手で割ろうとしたんだろう?

 あれは慣れた人じゃないと難しいんだ。


 こんな風にちょっとずつ叩いて…』


 リュウイチはカールに見えるように卵を優しくボウルの縁に叩きつけ、小さな割れ目を作って見せる。


『ほら、こういう風に小さい割れ目を作って…

 これを広げていくんだ…』


 割れ目ができた卵を少しずらしながら同じ位置を叩き、少しずつ割れ目を伸ばしていく。そして、卵を半周するくらいまで割れ目が伸びたところで叩くのをやめ、カールに割れ目を見せた。


『ほら、これくらい割れ目を伸ばしたら、こうやって両手で持って、割れ目にちょっと指をひっかけて…』


 パカッ…と小さな音を立てて卵がキレイに割れると、見ていたカールは少し小鼻を膨らませて「おおっ」と小さく声を漏らす。


『じゃあ、やってみようか?』


 卵の殻は生ごみ用の器に投げ入れ、割った卵を小麦粉の入ったボウルに入れてボウルを返す。カールは手渡されたボウルを見つめ、小さく深呼吸を二回ほど繰り返してから、ルールスの差し出した卵を受け取った。


 その後、カールは慎重すぎるほど慎重に卵を叩いて殻に亀裂を入れ、時間をかけて卵を割った。初めての成功だった。生まれて二回目で卵割りに成功したのだから大したものである。


できたフェアテヒ…」


 小鼻を膨らませ、頬を紅潮させて静かに喜ぶカールをミヒャエルやロニーらが「さすがです」とか「もう割れるなんて大したものですわ」などと褒め、カールは気を良くし、また自信を深めて次から次へと卵を割り続けた。エルゼも「私もやるー」と言って挑戦したが、エルゼの方は五回目にして初めて成功した。

 その後、二人で夢中になって卵を割り続けた。最初の内は成功と失敗を繰り返し、少なからぬ数の卵を犠牲にしていたが、徐々に成功率は高くなっていく。だが二人はあまりにも割りすぎたため、気がついてみれば小麦粉を足してケーキの生地を作るボウルを二つに分けなければならなくなってしまったのだった。

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