第477話 老ヒルデブラント
統一歴九十九年五月五日、夕 -
ランツクネヒト族は元々遠く西方のオクシデント大陸にいたヒト種の民族である。降臨者パウル・フォン・シュテッケルベルクによってランツクネヒト文化とドイツ騎士道精神とを
彼らが元々いたオルデンシュタット地方は清潔な水にあまり恵まれていなかったということもあったし、衣類といえば羊毛などの獣毛か皮革で作られた物しかなく、洗える衣服が無いので一度着たら四、五日は着っぱなしというのが当たり前だったのだ。また、湯治場を中心に皮膚感染症が蔓延することが幾度かあり、入浴にはリスクがあるという認識が広まったことも影響していた。
それでも亡命したり捕虜になったりしてレーマ帝国に渡り、レーマ帝国内の少数民族の一つとして百年以上もいればレーマ文化の影響をどうしても受けるようになる。入浴習慣はその一つであり、貴族ともなれば毎日の入浴は常識となっていた。
やはり一つの少数民族がレーマ貴族と付き合い、帝国内で地位を確立して行こうと思えばレーマ貴族が不快に思うような事は極力避けねばならない。週に一度しか風呂に入らず、肌に垢を張り付け、脂を浮かべて悪臭を放ったままでは、レーマ貴族はまともな人間として扱ってはくれない。どれだけ豪華な衣服や宝飾品で身を飾ろうと、ただの田舎の野蛮人と
ゆえに今現在レーマ帝国内のランツクネヒト族の中で最上位の地位にあるアルビオンニア侯爵家も、信仰面ではともかく、生活習慣はかなりレーマ化していた。
とはいえ、カール・フォン・アルビオンニア侯爵公子は現在八歳である。物心つく前から侍女たちに介助されながら入浴するのが当たり前だったとはいえ、少しずつ“性”というものを意識し始める年頃であった。カールはくる病と極端な運動制限による筋力低下によって、一人では立ち上がることも難しくなるほど衰弱していた。このため侍女たちの介助なしには入浴も排泄も出来なくなっているとはいえ、それでも見られたくない触られたくないという気持ちが芽生えて来るのは
しかし、リュウイチの魔法でくる病が治ったとはいえ筋力は衰えたままである。立って歩けるようになったとは言っても
だが侍女たちを困らせていたその状況も今日からは解決の見込みだ。侍女たちの代わりに家庭教師が今日から入浴の世話もしてくれることになったからである。
彼の名はミヒャエル・ヒルデブラント…ランツクネヒト族の軍人である。
カールには本来別の家庭教師が居たのだが、カールが
ところが、そのヴァナディーズもルクレティアと一緒にアルビオンニウムへ行くことになったため、一週間以上もカールの勉強を見る人物がいなくなってしまうことになった。カールの体調の崩れる日が続いたり、家庭教師があまり熱心でなかったこともあってカールの勉強はハッキリ言って年齢の割に遅れており、これ以上遅れてもらっては困る。せっかく病気を治してもらって体調は良くなったのだから、ここで一気に遅れを挽回してもらわねばならないのだ。そこで、叔父であるアロイス・キュッテルが部下の中から選んだのがミヒャエルだった。
レーマの兵学校を卒業して昨年末に
カールはミヒャエルを家庭教師につけてもらえたことに狂喜した。それまで家族はみんな女ばかりだったし使用人も侍女ばかり…女に囲まれて育っていたカールにとっては男性というだけで珍しい存在であったし、何よりもその名前だ。
ヒルデブラント!!
そう、カールが大好きな《レアル》神話の『ヒルデブラントの歌』の主人公、老騎士ヒルデブラントと同じ名前なのである。『シズレクのサガ』の主人公ディートリッヒ・フォン・ベルンの忠実な従者であり師匠でもある老ヒルデブラント…彼と同じ名前の家庭教師を持つことになったカールは、まるで自分がディートリッヒ・フォン・ベルンになったような高揚感を覚えたのだった。
「
今は身の回りの世話を供回りの者どもが焼いてくれましょうが、冒険に出れば自分の世話は自分で焼かねばならんのですぞ。」
「では脱いだ服はどうすればいいのだ、
カールはミヒャエルに自分の事を「
「若殿よ、よくご覧あれ、脱いだ服はこうやって畳むのです。」
ミヒャエル自身からすれば、まだ二十歳にもなっていないのに
しかし、最初は単に勉強を見てやればいいという話だったが、どんどん仕事が増えている。今日からは何故かお風呂まで一緒に入らねばならなくなっているし…。まあ、ミヒャエルも家庭はまだ持っていなかったが、カールと年の近い弟がいるので面倒は全く見れないというわけでもない。
…いや、弟はカール様ほど世話を焼かせないぞ。貴族の坊ちゃまってのは、やっぱり自分の世話ってのはやかないんだな…
そう呆れてしまうのはどうしようもない。所詮、ミヒャエルは貧乏騎士の三男坊で贅沢とは無縁の少年時代を過ごしていたし、まだ十代後半の若者だったのだ。だが呆れてばかりもいられない。
ミヒャエルの目の前で裸になったカールの真っ白な身体は、骨が浮き出そうなほどガリガリに痩せていた。さすがに領主貴族の子弟だけあって皮下脂肪こそあるものの、筋肉がほとんど付いていないのである。身体を支えるのも十分ではなく、足をフルフルと震わせながらやっと立っているという有様だった。
これは…
ミヒャエルはエルネスティーネやクラーラをはじめとする侍女たちから、カールが転ばないようにと繰り返し言われていたわけを理解した。最初はいくらなんでも甘やかせすぎだろうと思ったが、そうではなかったのだ。
「老師、これでいいのか?」
「あ、はい若殿よ、そう…そうですね。
それでいいでしょう。オホン!それでは風呂に入りましょうか?
さあ、足元にはよくお気をつけなさいませ。」
「わかっておる、初めてじゃないのだぞ?」
「そう、そうでしたな…」
フラフラと危なっかしく身体を揺すりながら、ソロリソロリと歩いて行くカールを見ながら、ミヒャエルは自分の任務の予想外の重大さに愕然としていた。
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