第451話 アロイスの急用

統一歴九十九年五月四日、夕 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



『ギックリ腰!?』


 遅れて陣営本部プラエトーリウムへやってきたアルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子から、今日来るはずだったルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵が腰を痛めて動けなくなってしまったことを知らされ、リュウイチは随分と驚いた。

 先に来ていたエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人から知らされているものと思っていたアルトリウスは逆に驚きつつも表面上はそれを隠し、挨拶を続ける。


「はい、それでしばらくは私が養父ルキウスの代理を務めることになりましたので、数日の事とは思いますがよろしくお願いします。」


 アルトリウスはリュウイチに頭を下げつつ、チラリと脇に立っていたエルネスティーネを横目で見ると、エルネスティーネは気まずそうに視線を逸らした。

 エルネスティーネは陣営本部に来てアルトリウスが来る前にルキウスの腰痛のことを報告し、またルクレティウスが挨拶したがっていることを報告し、そしてルクレティアを聖女サクラにした件について話を聞くことになっていた。ところがリュウイチに預けていた息子のカールが歩けるようになったことを見せられ、すっかり感動してしまったエルネスティーネはそれどころではなくなってしまったのだった。カールを抱きしめてオイオイと泣き、侍女や娘たちと感動を分かち合い、リュウイチに感謝を述べ、それから一度寝室クビクルムへ戻って涙で崩れてしまった化粧を直しているうちに時間が無くなってしまったのである。だからリュウイチはルキウスが腰痛になったことを知らされてなかったし、ルクレティウスの事もまだ聞いていなかった。


『そうですか…分かりました。

 しかし御気の毒に、そう言えばいつも杖を突いてらっしゃいましたね。』


「ええ、養父の持病です。

 若いころに痛めてしまいまして…」


『ポーションか治癒魔法で治してあげられるのならいいのですが…』


「いえっ、それには及びません!!」


 リュウイチの申し出をアルトリウスは顔を上げ慌てて辞退する。


「歳というのもありますし、年に何度かはこうなりますから、それほどご心配には及びません。」


『ああ、大丈夫です。

 その…「恩寵おんちょうの独占」とかいうのになるんですよね?

 一応、事情は理解しているつもりです。』


「ご理解たまわり、感謝申し上げます。

 リュウイチ様の御気持を知れば、養父も喜ぶことでありましょう。」


 アルトリウスはホッと胸をなでおろしつつ、安堵の笑みを浮かべながら礼を述べ改めてお辞儀した。


『ああ!いえそんな、こっちはお世話になってるだけで何もしてませんから…』


「いえ、とんでもございません。

 我々は既にリュウイチ様から多額の銀貨とポーションをお借りしています。

 そして《レアル》の叡智えいちも授けていただきました。

 既にお返ししようにもお返ししきれぬ御恩を受けております。」


『いや、そんな叡智だなんて大袈裟なことは一つも…』


 リュウイチとしてはそれは本当に身に覚えのない話であった。しかし、アルトリウスたちからすればリュウイチとの何気ない会話の中から、この世界ヴァーチャリアではまだ知られていなかった知識が色々と得られているのも事実である。

 例えばハン支援軍アウクシリア・ハンが蜂起した後に振った黒い雨の正体…そして、そこから得られた人工降雨技術へのヒント。金貨高騰への対処方法。一酸化炭素中毒という現象とその防ぎ方。キノコがカルシウムの吸収を助けると言う未知の栄養学。他にもこまごまと栄養学や料理法、健康法などについて、いくつかの知見がリュウイチからもたらされていた。それらは一々書記官などがメモしており、リュウイチの知らないところで纏められつつあった。


「いえ、リュウイチ様にとっては大したことのない知識、つまらぬ常識であっても、この世界では未知の知識であり叡智です。

 いずれこの世界の発展に大きく寄与することでありましょう。」


 自分の知識が役に立ってくれるとすればありがたい。だがリュウイチは自分の知識に自信があるわけでもなかった。リュウイチは高卒で、しかも《レアル》世界では長年トラック運転手をしていただけである。得た知識の多くは仕事中に聞いたラジオ番組や、休憩中に見たテレビや雑誌から得たものである。当然、間違っている知識もあるだろうし、役に立たない知識もあるだろう。それを想うと褒められれば褒められるほど、感謝されれば感謝されるほど後ろめたい気持ちになってしまう。


『いやぁ~…しかし、私は何かの専門家ってわけでも学者とかでもありませんし、素人がどこかで聞きかじっただけの知識しか持ち合わせてませんから、間違ってたりするかもしれませんよ?』


「それはかまいません。どうぞお気になさらないでください。

 我々とて自分の専門分野以外の事などに精通しているわけではありませんよ。」


 アルトリウスが答えると、エルネスティーネが合いの手を入れる。


「そうですとも。そもそも《レアル》とヴァーチャリアは違う世界なのです。

 《レアル》の叡智はこの世界を大きく発展させてきました。ですが、別の世界の知識である以上、この世界では通用しなかった知識も多いのです。

 ですからリュウイチ様から頂いた知識は、たとえそれが全く間違いのないものだったとしても、どのみちムセイオンの学者たちがこの世界で通用するものかどうかを確認せねばなりませんの。

 たとえ不正確な知識であったとしても、それはこの世界を発展させる何かのヒントにはなるはずですわ。ですから、リュウイチ様は御自身の知識の正確さについて、さほど心配される必要はございません。」


『は、はあ…』


 確かにこの世界には《レアル》には無い魔法が存在し、精霊エレメンタルなどというモノが存在している。話に聞く限りではどうやらドラゴンやモンスターも実在するらしい。目の前に立っているアルトリウスはコボルトとホブゴブリンのハーフだし、リュウイチの奴隷たちはホブゴブリンだ。リュウイチをアルトリウシアへ運んでくれたヘルマンニたちもヒトではなかった。リュウイチは聞いたことは無いがブッカとかいうゴブリンに近い種族らしい。そう言えばリュウイチ自身、『地獄の軍馬』ヘル・ウォーホースとかマッド・ゴーレムとか『鬼火』ウィル・オ・ザ・ウィスプなんか召喚したし、これまで何度か魔法を行使したこともあった。

 そう考えれば彼らのいう《レアル》…すなわち、リュウイチこと田所たどころ龍一りゅういちにとっての現実世界と、この世界は明らかに違う世界だし違う法則で成り立っている。《レアル》で通用する知識や技術や常識がこの世界で通用しなかったとしても不思議ではない。

 しかし、だからといって間違った事や役に立たない知識を彼らに伝えてしまうことに対して不安や抵抗が全くなくなるかと言えばそう言うことはない。エルネスティーネが言ったように、リュウイチが何かを言えばそれを検証する作業が行われることになるのだ。それもこの世界ヴァーチャリアで一番の頭脳集団たちによって…。

 エルネスティーネの話を聞く限りそれは世界中の叡智が結集したムセイオンという機関において、すなわち世界を挙げての検証作業になる。つまり、リュウイチが何かを言えば、この世界が振り回されることになるのだ。リュウイチがうっかり変なことを言えば、それがこの世界における『フェルマーの最終定理』のごとく、全世界にとっての課題になってしまう。それが正しい知識であり、《レアル》とヴァーチャリアの世界の違いによって検証が困難なだけだったならまだいいが、世界中の学者たちをさんざん悩ませたあげく実は間違いでしたなんてことになったら目も当てられない。

 リュウイチはひとまずこの場では苦笑いするしかなかった。


 とっとと話題を変えよう…


『そういえば、アロイスさんの姿が見えませんが今日は来られないのですか?』


 リュウイチはてっきりアルトリウスと一緒に来ると思っていたアロイスの姿が見えないことに話題を変えた。アルトリウスはそれを聞いて両眉を持ち上げてわずかに目を泳がせる。


「あら、そういえば見えませんね。

 キュッテルアロイスはどうかしたのかしら?」


 エルネスティーネも気になったのだろう。リュウイチと共にアルトリウスの方を見た。アルトリウスは両眉を持ち上げたまま視線を逸らして口をモゴモゴさせていたが、観念したように小さく息を吐くと報告を始める。


「ええ、実は急用が出来まして…」


『「急用?」』


 リュウイチはもちろん知らなくて当然だとしても、エルネスティーネは自分も知らない「急用」に思わず怪訝けげんそうに訊き返す。

 正直に話してリュウイチに下手に興味を持たれても困る。だが、アロイスの姉でも上司でもある属州領主ドミナ・プロウィンキアエエルネスティーネに下手なウソを言って後で問題になっても困る。もしかしたら、この盗賊事件も後でリュウイチへの報告会での議題に遡上そじょうしないとも限らないのだ。今テキトーなことを言って、後で報告会で報告した時に「あれってこれのことだったの?」なんてことになってリュウイチからの信用にきずがつくのも困る。

 アルトリウスはなるべく大袈裟に受け止められないように言葉を選んで報告し始めた。


「はい、これもこの後この場で御報告するつもりだったのですが…実は先ほど早馬が到着しまして…どうも盗賊が騒ぎを起こしたようでしてね。キュッテルアロイス閣下はそれの対応をすることになったのです。」

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