第346話 アルトリウシア平野再訪
統一歴九十九年五月二日、未明 - アルトリウシア平野北西部/アルトリウシア
まだ東の空が青くなり始めたころにエッケ島を発った四隻の
海に不慣れなハン族のゴブリン兵が船を操ればこんなものである。これがセーヘイムのブッカ達であれば、同じ時間で一往復して更に時間が余ったことだろう。もしかしたら一往復半、いや二往復ぐらいはしたかもしれない。
彼らは船位を見失いつつもアルトリウシア平野への上陸を果たすことができたのは、いい加減に空も白み始めたころだった。とはいっても上陸できたのがどのあたりなのかはさっぱりわからない。
「火を消せ、この霧の中では灯りは目立つかもしれん。」
「なあ、本当にここでいいのか?」
「
暗さと霧で周囲の様子がわからないゴブリン兵たちは、上陸はしたものの不安そうだ。
「場所はダイアウルフが知ってる、憶えてる。
ダイアウルフを降ろせ!
テングル!来い!!」
ドナートが周囲のゴブリン兵たちに指示を出し、自分が乗っていた貨物船の方に向かって少し大きい声を出すと、呼ばれたダイアウルフが船べりから飛び出し、バシャバシャと海水を跳ね上げながらドナートの下へ駆け寄ってきた。
「よーしよし、橋頭保だ、憶えてるな?案内してくれ」
尻尾を揺らしながら顔を舐めるダイアウルフにドナートがやさし気に言うと、ダイアウルフはバシャッと水音を立てて伏せてドナートが乗りやすくした。
「ディンクル!付いて来い、先行して場所を確認する。
他は荷下ろしを急げ」
「おう!」
視界の利かない中ではダイアウルフに頼るのが一番だ。ドナートは自分のダイアウルフに乗ると、副官のディンクルに同行を命じてダイアウルフの腹を軽く蹴り、橋頭保目指して進み始めた。
アルトリウシア平野に設置した橋頭保は五日前に一度放棄されたままになっていた。『バランベル』号引き揚げの際に、アルトリウシアから視察に来る連中に対しハン支援軍の全員がそろっているところを見せ、ハン支援軍がエッケ島から出ていないと思わせる。そのためにアルトリウシア平野に渡っていたダイアウルフを含む全員が一度エッケ島へ引き揚げたのだ。
予定では『バランベル』号引き揚げが済み次第、再びアルトリウシア平野へ舞い戻り、未完成の橋頭保建設とアルトリウシア平野での作戦を再開するはずだった。だが、エッケ島から観測されたアイゼンファウスト付近での大火の発生と思しき煙と、ディンクル率いる偵察部隊のダイアウルフが遠吠えをしてしまい、それをアルトリウシア側に聞かれてしまったらしいことから、アルトリウシア平野での作戦展開はそのまま無期限停止とされていたのである。
だが、その作戦停止命令は昨日、唐突に撤回された。
昨日の午後、ディンキジクに突然の呼び出しを受けたドナートは新たな命令を下されたのである。
「ダイアウルフを放つのですか!?」
ディンキジクの命令を聞いたとき、ドナートは耳を疑ったものだ。普通、上官の命令に疑義を唱えるがごとく聞き返すなど、ハン支援軍では許されない。本来ならドナートはその場で激しく叱責されても文句は言えないハズであった。だが、ディンキジクは自身の立てた作戦がハン族の一般的な常識からかけ離れたものだという自覚があったため、ドナートの反応を当然のものとして受け流した。
目の前に跪いて命令を聞くドナートを見下ろし、ディンキジクは自信たっぷりに続ける。
「そうだ、お前たちのダイアウルフが遠吠えをしてしまったのは、やはり奴らに聞かれていたのは確かなようだ。あのアロイス・キュッテルめもあの時アイゼンファウストに居て直接耳にしたらしい。
だが、イェルナク殿が奴らに対し、ダイアウルフが逃げ出したとウソの報告をしたことで、我々の作戦が明るみに出ることは避けられた。」
「ダイアウルフが…逃げた!?」
「もちろんウソだ。奴らを騙したのだ。」
ドナートに説明するディンキジクの顔はわずかに
「イェルナク殿はダイアウルフが逃げたと奴らを騙し、逃げたダイアウルフを捜索するためにアルトリウシア平野で活動することを認めるよう許可を求めた。許可が下りれば、今の様にコソコソせずとも大っぴらにアルトリウシア平野で活動できるからな、さすがは我が友イェルナク!ハン族きっての知恵者よ!」
「しかし、それならばわざわざダイアウルフを実際に放たずとも、捜索するフリをするだけでもよろしいのではありませんか?」
いかにも感銘を受けたかのように力説するディンキジクに対し、ドナートがもっともな質問をするとディンキジクの顔から一瞬で笑みが消えた。不味いと思ったドナートはサッと顔を伏せる。
「ドナートよ。」
「ハッ!」
頭上から降り注ぐディンキジクの冷たい声にドナートは冷や汗を流した。どんな罵声が浴びせられることか…身を固くして構えるドナートに対し、ディンキジクの発した言葉は罵声ではなかった。
「その通りだ。」
「は…」
「許可が下りれば、探すフリだけをしてアルトリウシア平野での活動をズルズルと続ければよい。そのはずだった。
だが、許可は下りなかったのだ。」
「そ、それは…」
「奴らはイェルナク殿に言ったそうだ。
逃げたダイアウルフなど恐るるに足らん…とな」
「なっ!?」
思いもかけぬ言葉にドナートは思わず顔を上げ、ディンキジクの顔を一瞬まともに見てしまった。我を見失い、許可も得ぬまま顔を上げてしまった自分に気付き、慌てて顔を伏せなおす。
しかし、ドナートの内側に沸々と怒りが沸き起こってくる。ダイアウルフはハン族の誇りであり、力の象徴だ。それを『恐るるに足らず』とは、ダイアウルフに対して、そしてハン族に対しての許しがたい冒涜である。
「どうだ、許し難かろう?」
ディンキジクは地の底から響いてくるような暗く低い声で問いかける。ディンキジクもまた、ドナートと同様、腹のうちに怒りを抱えているのだ。
「ハッ、まったくもって」
「だからだ、ダイアウルフを
ディンキジクは鼻からフーっと息を吐き出すと、何かを押し殺したような声でつづけた。だが、ドナートも怒りを感じてはいても冷静さは失っていなかった。
「し、しかし、ダイアウルフを嗾ければ我らの責を問われ、戦と相成るのではありませぬか?」
「それは心配には及ばぬ。アルトリウシアを襲うのはあくまでも逃げたダイアウルフだ。我々の手を離れたダイアウルフが、我々のあずかり知らぬところでアイゼンファウストへ行ってしまった…言うなればこれは事故だ。
我々はそれを防ぐために捜索を申し出たにもかかわらず、奴らはそれを断った。つまり、奴らの自業自得だ。我々が責めを負うことは無い。」
「ですが、ダイアウルフにアイゼンファウストを襲わせれば、むざむざ死なせてしまいます。大切なダイアウルフをそのように使い捨てることなど…」
ハン族は長い歴史の中でダイアウルフと生活を共にし続けてきた。生活の基盤はダイアウルフと共同しての狩猟であり、その戦闘スタイルは必然的にダイアウルフの狩猟方法に沿ったものになる。その戦闘スタイルに仲間を犠牲にするという戦法は存在しなかった。仲間の誰かが囮にを演じることはあっても、仲間の誰かを見殺しにするようなことは、ダイアウルフは決してしないのである。
そんなハン族の常識から照らせば、ディンキジクの立てた作戦はあり得ないレベルの非情な作戦と言えた。ましてやハン族にとって貴重なダイアウルフを犠牲にするなど、あり得べかざる暴挙と言わざるを得ない。
「そこを、お前が上手くやるのだ。ドナートよ。」
生意気にも反論してきたドナートに対し、ディンキジクはわざわざ膝を折ってしゃがみ込むと、ドナートの肩に手を置き耳元でささやきかける。
「敵の防備に薄い場所、薄い時を狙い、ダイアウルフを放つのだ。
ダイアウルフが反撃を受けて傷つくことの無いようにな。」
「・・・・・・・はっ・・・」
言っている意味は分かる。だが、それがどれだけ困難かは想像するまでもない。
「どうあってもゴブリン兵を背に乗せぬダイアウルフが居るだろう?
そいつらを使え。
ただし、五頭だけだ。また、作戦中にダイアウルフが遠吠えをしてしまうかもしれん。だから襲撃に使う分、そしてお前たちが使う分も含め、アルトリウシアに接近するのも五頭までだ。」
ディンキジクは再び立ち上がった。
「よいか、必ず成功させろ。
奴らにダイアウルフの恐ろしさを知らしめ、そして我らのアルトリウシア平野での活動を奴らに認めさせるのだ。」
「ハッ!」
かくして、ドナートたちは再びアルトリウシア平野の地に舞い戻ったのであった。今度は騎兵隊の他に、どうしても背中にゴブリン兵を載せたがらないダイアウルフ五頭を余計に連れてきている。
ダイアウルフを頼りにたどり着いた橋頭保は未完成ではあったが半分以上は完成した状態で放置されており、作戦自体はすぐにでも実行できそうだった。
「さすがは隊長とテングルだ。
迷わずここに来るなんて…」
「お前もじきにできるようになるさ、ディンクル。
さあ、始めるぞ。ここが俺たちの新しい戦場だ。」
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