第239話 集めるか、静めるか

統一歴九十九年四月二十日、午前 - セーヘイム・ヘルマンニ邸/アルトリウシア



 ルクレティアは一昨日、インニェルに会いにセーヘイムを訪れるつもりだった。だが、セーヘイムにイェルナクらが上陸し、暴動が起きかねない危険な情勢だと聞かされティトゥス要塞カストルム・ティティへ留め置かれた。仕方ないので父ルクレティウスに事情を話し、インニェルへの手紙を託してマニウス要塞カストルム・マニへ帰ることにした。一刻も早くリュウイチの元へ帰りたかったが、騒ぎが予想外に大きくなっており、街道上も危ないかもしれないからと言われ帰してもらえず、実家で一泊することになってしまう。

 翌朝、カールの容体を診たあとで今度こそ帰ろうとティトゥス要塞カストルム・ティティを後にしたのだが、マニウス街道を南へ進んでいる途中で早馬が追いかけてきてティトゥス要塞カストルム・ティティへ戻るよう伝えられた。もうマニウス要塞カストルム・マニ城下町カナバエも目前で要塞正門ポルタ・プラエトーリアがそろそろ見えようかというところまで来ていたのに、あわててティトゥス要塞へ引き返すことになってしまった。

 戻って見れば領主家の家臣団と軍団幹部らが一堂に会した緊急会議が催されていた。ルクレティア自身が発言する機会は無かったが、話されていた議題の一つ、降臨者リュウイチの引き渡し要求にはさすがにショックを受けることになった。


 まさかハン族がリュウイチ様の降臨に気づいていたなんて・・・


 会議の流れからしてリュウイチをハン族へ引き渡すことになる可能性はなさそうだ。出席者の誰も引き渡そうと考えてはいない。しかし、ただでさえ不便を強いているリュウイチに更なる無理を強いることになるかもしれない。例えば他の場所へ引っ越してもらうとか・・・それはルクレティアにとっても望ましい事ではなかった。

 いやいや、話がそれで済むならまだ良い。万々が一にもリュウイチの存在を明るみにされ、ハン族が武力を持ってリュウイチの身柄を強奪しようとしたらどうなるだろうか?アルトリウシアはまた火の海に飲まれてしまうかもしれない。

 それでリュウイチが介入でもしたらどうなるだろうか?

 アルビオン海峡の《水の精霊ウォーター・エレメンタル》、アルビオーネの言ったことが本当だとしたら、かつて世界が滅びかけた大災害をもたらしたのは《暗黒騎士ダークナイト》であり、リュウイチはその力を引き継いでいる。だとしたらアルトリウシアが火の海になるという程度では済まないだろう。


 そんなこと、させるもんですか・・・


 会議が終わったのは日が沈んだ後だった。さすがに暗い街道を帰るわけにもいかず、ルクレティアは実家にもう一泊する。そして今朝、セーヘイムの情勢もだいぶ落ち着いてきたというので、アルトリウスとヘルマンニに便乗させてもらってやってきたのだった。



「それで、話は昨日いただいたお手紙の件でよろしいのかしら?」


 挨拶を終えたところでさっそくインニェルが話を振った。


「はい。それと…もしかしたらもう耳にされてるかもしれませんが、ハン族がどうやらリュウイチ様の存在に気付いているようなのです。それで、あらかじめある程度予防線を張っておきたいと思いまして…」


「そうはおっしゃいますけど、私たちも別に人の口に戸を立てられるわけではないのよ?

 セーヘイムから変な噂が広がるのは何とか防げるかもしれないけど、セーヘイムで誰かが何かを見たならそのすべてを抑えるのはできないの。

 私たちにできるのは噂を集めることや噂を流すことぐらいのものです。事実とは異なる別の噂を流すことで事実を有耶無耶にすることはできることもあるけど、何もなかったことにはできないわ。」


「それでも、インニェル様のおかげでリュウイチ様の噂はアルトリウシアに広まっていません。」


「リュウイチ様が御姿を御見せになられたのがセーヘイムだけなら、なんとか隠すこともできます。でもセーヘイム以外の場所から広がってしまった噂をどうにかすることなんて私たちにはできないわ。まして《陶片テスタチェス》だなんて…」


 インニェルは昨日受け取ったルクレティアの手紙をヒラヒラさせながら言った。


「もう噂になっていますか?」


「ベルナルデッタはヒト種の娼婦の中ではアルトリウシアで一番の有名人よ。そのベルナルデッタが別の娼婦と客を取り合って負けた…こんなの噂にならない方がおかしいわよ。しかも、その娼婦が客とともに姿を消したなんてなったら、なおさらね。」


 テレビもラジオも無い世界、人々の最大の娯楽は噂話である。貴族ノビリタスや豪商といった有力者はもちろん、人々の注目を集める人物は身分や職業にかかわらずその噂話の対象となる。領主などの極端な権力者ならばその名を伏せて噂が囁かれたりはするが、そうではないなら実名で噂が広まるし、目立ったことをすれば一躍有名人の仲間入りだ。当然、人気娼婦なんかは芸能人並みの知名度を誇ることすらある。ベルナルデッタはその典型だ。


「その噂から、リュウイチ様にたどり着くでしょうか?」


「すぐにはたどり着かないでしょ。

 でも、ベルナルデッタが横取りしようとした客、ベルナルデッタを袖にした客がいったい誰なのかは色々憶測が飛んでいるようね。まさか、くだんの客がリュウイチ様だとは私もこの手紙を拝見するまで思いもしませんでしたけど。」


「その憶測・・・リュウイチ様に繋がりそうなものはあるのですか?」


「無いわ・・・たぶんだけど・・・随分スゴイ恰好をしてらっしゃったようね、リュウイチ様は。恰好からして上級貴族パトリキだろうって話があるけど、アルトリウシアでヒト種の上級貴族パトリキ侯爵マルキオー家だけで該当する妙齢の男性はいない。サウマンディアからの御客人の中に該当する大男はいないし、クプファーハーフェンの男爵バロがアルトリウシアに来て女を買うわけもなし・・・」


 クプファーハーフェンの男爵とは先代のアルビオンニア侯爵マクシミリアン・フォン・アルビオンニアの実弟のレオナード・フォン・クプファーハーフェンのことだ。兄マクシミリアンより領土の一部を割譲されクプファーハーフェン男爵として独立しており、妻も娶ってはいるが子はなく、同性愛の噂が流れている。噂では火山災害の折にお家騒動を引き起こしてくれたことをきっかけに妻とは完全に没交渉になっており、今では貧民街から拾ってきた少年を可愛がっているらしい。

 それがなかったとしてもクプファーハーフェンはアルビオン島の東側に位置する港町でありアルトリウシアから片道で数日かかる遠方である。お忍びで来るわけがなかった。


「その噂…せめてハン族に伝わらないようにできるでしょうか?」


「それはハン族とアルトリウシア住民が接触しさえしなければ伝わりはしないでしょうけど、保証できるようなものではないわね。さっきも言ったけど、人の口に戸を立てられるわけではないわ。私たちが噂することは身内だから止めることもできるけど、すべての人の口を閉ざさせることなどできはしないの。

 せめて、同じような特徴の別の貴族でもいれば、その人のせいにできるんでしょうけどね。体格だけなら南蛮人でいそうだけど、着ていた服が南蛮人ではあり得ないし…」


「その特徴からごまかすことはできないですかね?」


「どうかしら?すでに一度広まってしまっている噂だし…ただ、今はあのイェルナクたちの噂の方が注目を集めているから、今は下手に何もしない方がいいんじゃないかしら?」


 広めたくない噂を消す方法は結局のところ何もしないのが一番だ。ましてや、今は別の話題が爆発的に盛り上がっていて、広めたくないと思っている噂がかき消されようとしているタイミングである。今、その噂にあえて燃料を注ぎ込むのは得策とは言えない。


「そう・・・ですよね・・・」


「ただねぇ…リュキスカって娼婦のことを調べなきゃいけないんでしょ?」


「そう、それもお願いしたいんですけど・・・」


「それも控えた方がいいかもしれないわ。」


「え、何でですか!?」


「だって考えてごらんなさいよ。結局インニェルの情報源ってアルトリウシア中に行商に言っている魚売り女たちなのよ?彼女たちが行った先で見聞きした話が噂になって私の元へ伝わってくるの。私が意図的に広める噂も同じルート。」


「は、はい。それは承知しています。」


「リュキスカと言う娼婦のことを調べるということは、魚売り女たちに『リュキスカって娼婦の評判はどうかしら?』みたいに話を振らなきゃいけないわけ…わかる?」


「・・・あ・・・」


「それに魚売り女たちが調べて来るっていうのも同じ。私がリュキスカという娼婦の噂を集めるために魚売り女に『リュキスカって娼婦のことなんだけど・・・』って言わなきゃいけないのと同じように、魚売り女たちもアルトリウシアのあちこちで『リュキスカって娼婦のことなんだけど…』って話を持ち掛けて回らないといけないのよ。

 そんなことをすれば、下手するとアルトリウシア中の注目がリュキスカっていう娼婦に集まることになるのよ?」


 噂と言う情報の収集能力に関して言えばインニェルはアルトリウシアで間違いなく一番であろう。しかし、インニェルは別に自前の諜報機関を持っているわけでもないし、エージェントを抱えているわけでもない。インニェル自身が言った通り、インニェルの情報源はインニェルの影響下にあるセーヘイムの女たちなのだ。そして、噂という情報媒体は能動的に情報を収集しようとすると、それに対する注目を集めてしまう弊害を伴う。誰の注目も集めないようにしようとすれば受動的にならざるを得ず、身近な誰かの噂ならともかく、遠方の見知らぬ誰かの噂をとなると誰にも気づかれないように調べることは難しい。

 そして、今リュキスカについての世間の噂を集めようと思ったら、どうしても『ベルナルデッタを袖にした謎の客』…すなわちリュウイチの噂も喚起させてしまうのだ。


「む、無理でしょうか?」


「そりゃ、人を絞って《陶片テスタチェス》に詳しい人から話を聞いてみるくらいはできるかもしれないけど…その人、別に人気娼婦だったわけでもないんでしょう?

 何か別の噂を絡めでもしない限り、かえって世間の注目を集めることになると思うわよ?」

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