第229話 エレオノーラ

統一歴九十九年四月十九日、朝 - 《陶片》リクハルド邸/アルトリウシア



 家屋はその土地の環境に合わせて発展していくものだ。寒い地域では壁は厚くなり、窓は小さくなり、断熱性を高めて冬の寒さに備える。暑い地域では壁は薄くなり、風通しを良くして夏の暑さに備えるという具合に。

 アルトリウシアでもレーマ帝国が進出してきて半世紀、セーヘイムにブッカたちが移住してきて百数十年の間に家屋は特徴的な発展を遂げつつあった。

 アルビオンニア全体が比較的緯度の高い地域であるが、大南洋オケアヌム・メリディアヌムを南下してくる暖流のおかげで緯度の割に温暖であり、そうであるがゆえに一年中雲が多く、雨の降る日が多い。夏でも気温はさほど高くならず、冬も極端に寒くなることはないが、年中湿気が多く夏などは換気が欠かせない。


 ブッカたちは船体をひっくり返したような構造の屋根を採用していたためひさしを広く伸ばすことはできなかったが、庇を低く下まで伸ばすことで窓から雨が入らないようにしていた。

 レーマ人たちは《レアル》古代ローマに倣った建築様式を基本とし、窓の一番外側に板戸を付け、その内側に風を通すように横向きの羽板を縦に並べたルーバーを追加して取り付けた。これによって雨を防ぎながら風は取り入れられるように工夫していた。

 アルトリウシアには圧倒的に少数派だが南蛮人もおり、彼らの場合はスライド式の雨戸や跳ね上げ式の板戸「しとみ」などを使っている。


 リクハルドヘイムの市街地、通称 《陶片テスタチェウス》にあるリクハルドの屋敷ドムスはレーマ風と南蛮風のそれぞれの様式を取り合わせたエキゾチックな構造をしている。

 《陶片テスタチェウス》の建設を開始した当初からアルビオンニウムと南蛮の双方の大工を招聘しょうへいし、それぞれのやり方で建物を作らせ、同時にお互いのやり方を学ばせ、互いの優れた部分を取り入れさせて色々と試させた。《陶片テスタチェウス》はいわば「建物の試作実験場」と化し、それを十年続けた集大成が今のリクハルドの屋敷ドムスだった。


 リクハルドの屋敷ドムスの朝は家人たちが南蛮様式から取り入れたスライド式の雨戸を開けたりしとみを跳ね上げることから始まる。バタバタと家人たちが歩き回る足音とともに家の中に光が差し込み、風が流れ始める。リクハルドはその気配で目を覚ますのが常であった。



「・・・ん、んん?」


 障子の向こうで雨戸が開けられ、急に光が差し込んで来た寝室でリクハルドが目を開けた時、視界に入ってきたのはいつもの明るい障子ではなく女の顔だった。


「お・は・よ・う」


 横向きに寝ていたリクハルドに向かい合うように、見慣れたハーフコボルトの女が肘枕ひじまくらしてリクハルドの顔を見下ろすように寝そべっている。


「んあ?…ああ、何だエレオノーラか…」


「『何だ』は無いでしょう、『何だ』は?」


 リクハルドは不機嫌そうに眉を寄せると目を閉じた。


「んー、何か用か?」


「別に・・・様子を見に来ただけよ。」


 エレオノーラが手を伸ばした。


「おい、どこ触ってんだ?」


「んー、ア・ナ・タ」


 リクハルドが目を半分開けてエレオノーラを見るが、その表情にふざけてる様子はない。


「何だ朝っぱらからたいのか?」


「そんなわけないでしょ?

 様子を見に来たって言ったじゃない。

 今でもするのね。安心したわ。」


「フーッ…様子見たいだけなら朝っぱらじゃなくてもいいだろ?」


 リクハルドは不満げにため息をつくと再び目を閉じ、寝返りを打った。


「アナタ朝っぱらじゃないと捕まらないじゃない。」


 エレオノーラは追撃するようにリクハルドに這いよるとその背中に身体を密着させる。


「・・・まだ他に用があるのか?」


「・・・まあね」


 エレオノーラとリクハルドはかれこれ二十年以上もの付き合いがある。出会ったころの彼女はまだ十にも満たない少女だった。海賊にさらわれたブッカの母から生まれ、海賊たちのアジトで下働きのようなことをしていた。

 その海賊をリクハルドが乗っ取り、新しいカシラとなってからずっとリクハルドに付き従い、今ではリクハルドの情婦として世間に知られるようになっていた。エレオノーラ以上にリクハルドと深く長く付き合ってきた女はいないし、エレオノーラ以上にリクハルドを理解している女もいないだろう。

 そして、そうであるからこそエレオノーラはリクハルドが嫌がるようなことはしないし、意味もなくこういう風に自分からチョッカイ出しに来たりはしない。エレオノーラが自分からリクハルドを訪ねてくる時は何か大事な用がある時だけだ。そして、リクハルドの見たところどうやらエレオノーラは怒っているらしい。


「言ってみろ。」


「『満月亭ポピーナ・ルーナ・プレーナ』のリュキスカってのことなんだけど…」


 リクハルドは目を開けた。


「どうかしたか?」


「どうかしたかじゃないわよ。

 一昨日さらわれたの、ラウリが探してたのにアナタ捜すのやめさせたんですって?」


 フーッとリクハルドが息を吐く。


(どういう説明を聞いたんだ、コイツは?)


「身請けされたって聞かなかったか?」


「聞いたわ。

 でも、相手の素性は誰も知らないらしいじゃない?

 アナタ知ってるの?」


 エレオノーラは身体を密着させたままリクハルドの両肩にかけた手に力を入れ、頭をあげてリクハルドの顔を上から覗き込もうとした。

 背中に当たるやわらかな乳房と両肩に食い込む指と耳から頬にかかるエレオノーラの息を感じながら、どこまで話したものか考える。だが、リクハルドにしても知っていることはあまりない。


「高貴な人だ」


「それじゃわかんないわよ。」


「スッゲェ高貴な人だ!」


 リクハルドは肩をゆすって背中にしがみつくエレオノーラの手を振り払った。振り払われたエレオノーラは信じられないものを見るような目でリクハルドの背中を見、「ムッ」と短くうなると今度はガバッとリクハルドの上に覆いかぶさった。


「・・・アナタもよく知らないんでしょ。」


 目を閉じて無理やり狸寝入りを演じるリクハルドの顔を間近で見つめながらエレオノーラが詰問すると、リクハルドは目を開けエレオノーラの顔を見つめ返す。


「まあな、だがスッゲェ高貴な奴だってのは間違いねぇ。」


「・・・上級貴族パトリキなの?」


「ああ、それもかなり上の方だ。

 アルトリウスをつかいっぱしり代わりに使うような奴だ。」


「アルトリウスって…『白銀のアルトリウス』!?」


 エレオノーラは驚いてリクハルドに覆いかぶさっていたその身体をわずかに起こした。

 『白銀』はアルトリウシア子爵公子アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウスの二つ名だ。コボルトの母から受け継いだ全身を覆う白い体毛と、戦場で身にまとった銀色に輝くロリカに由来する。

 子爵公子は将来子爵位を継ぐ人物であるため、事実上の子爵と同列で扱われる。子爵を遣いっ走り代わりに使うとすれば、単純に考えて最低でも伯爵以上の身分ということになるだろう。

 リクハルドはフンッと鼻を鳴らして再び枕に頭を沈めた。それを見て我に返ったエレオノーラが再び覆いかぶさり、リクハルドの顔を覗き込む。


「大丈夫なんでしょうね!?」


「何がだ…」


「身分の高い貴族パトリキの中にゃ平民プレブスを動物みたいに扱う奴もいるって言うじゃない!?」


「そりゃあ大丈夫だ。」


「何で分かんのよ?」


「てか、お前やけにソイツに入れ込むな?」


 リクハルドはうっとおしそうにエレオノーラを見上げたが、エレオノーラは意に介さない。


「あのは働き者でアタシが特別目をかけてたなのよ。

 いいから答えて!」


 リクハルドは目は閉じなかったが再び頭を枕に沈めて答えた。


「身請けに四百七十デナリウス、即金で払いやがった。」


「四百七十!?」


「それだけじゃねえぜ。

 マニウス要塞カストルム・マニからティトゥス要塞カストルム・ティティへ移動する時に様子を見たんだが、スッゲェべべ着てやがった。侯爵夫人エルネスティーネ子爵夫人アンティスティアも持ってねぇようなスゲェやつだ。

 おまけにアルトリウスの馬車に乗せられて、護衛は重装歩兵ホプロマクス百人隊ケントゥリアが一隊まるごと付いてた。」


 それは上級貴族パトリキ当人以上の扱いと言える。ルキウスが異動する際だって百人隊ケントゥリアまるごと護衛につけることはない。


「そんなスゴイ人なのに、正体は分からないのね?」


「まあな・・・」


 エレオノーラの目に映るリクハルドは何か別のことを考えているかのように無気力な表情だった。エレオノーラの手が伸び、リクハルドの身体がピクッと反応する。


「だから何で触るんだよ!?」


「アナタが男として終わってないか確かめてんじゃない!」


「何だ、たいのか!?」


 勘弁してくれとでも言いたげな表情でリクハルドがエレオノーラの顔を見るが、エレオノーラを振り払うようなことはしない。


「諦めたんじゃないでしょうね?」


 エレオノーラがリクハルドの局部から手を離し囁きかけると、リクハルドはフンッと鼻を鳴らし、頭を枕に沈めながら答えた。


「そんなわけ無ぇだろ。」

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