第220話 新たなクリエンテラ

統一歴九十九年四月十八日、午後 - ティトゥス要塞司令部/アルトリウシア



「「「!?」」」


 エルネスティーネ、ルキウス、そしてルクレティアが目を丸くしてリュキスカを見た。

 一日あたり四デナリウス・・・それは軍団レギオーならば筆頭百人隊長プリムス・ピルス陣営隊長プラエフェクトゥス・カストロルムといった平民プレブス出身の軍団兵レギオナリウスが到達できる最高位の給料に匹敵する。当然、一介の娼婦が得られる報酬ではありえなかったし、どれほど人気の娼婦であってもこの半分ほどでも稼ぐのはかなり難しいだろう。

 もちろん、ルキウスはそんなに払うつもりで言ったわけではなかった。エルネスティーネと折半しましょうというつもりで「私も払う」と言ったのだが、リュキスカはルキウスからも一日あたり二デナリウス貰えると勘違いしたのだった。


 目を丸くしてリュキスカを見る三人の様子にリュキスカは「あれ?」と固まったが、次の瞬間ルキウスが吹き出した。


「はっはっはっはっはっはっはっ」


子爵閣下ルキウス!?」


 笑い出したルキウスにエルネスティーネは呆れたが、すぐにルキウスにつられて笑い始める。

 エルネスティーネまで笑い出したのを見て、膝立ちになっていたリュキスカはそのまま腰を下ろしたが、次第に不安になって腰を下ろしたまま前のめりになって問いかけた。


「え、あの、アタイ、何か間違ったかい?」


「いえ、いいのです。そうですよ、一日四デナリウスです。

 そうですね子爵閣下ルキウス?」


侯爵夫人エルネスティーネ!?」


 ひとしきり笑ったエルネスティーネがリュキスカに笑顔で答えると、今度はルクレティアが驚きの声を上げた。


「いいのですよスパルタカシアルクレティア。」


「ですが・・・」


「いやいや、彼女リュキスカの役目はそれだけ重大だということだよ。スパルタカシアルクレティア。」


 なおも食い下がるルクレティアに未だ肩を震わせているルキウスがこぼれかけた涙を拭きながら言った。


「え、ア、アタイの仕事が?」


 事情がつかめずに不安と愛想笑いが組み合わさってになってしまった顔でリュキスカはルキウスを見た。前のめりになっていた身体を無意識に引いていく。


「もちろんだとも、リュキスカには期待しているのだ。」


「で、でも、いくら何でも貰いすぎじゃないかねぇ?」


 一時は舞い上がっていたリュキスカも間をおいて冷静になってみるとだんだんと不安になってくる。さすがに身の丈に合わないと思い始めたのだ。


リュキスカには他にも果してもらいたい役割があるのだよ。」


「な…何だい?アタイにできることだったらいいけどさ。」


「何簡単なことだ、我々とリュウイチ様の仲を取り持ってほしい。

 リュウイチ様の御傍に仕えていて、リュウイチ様について分かったことをいろいろ教えてほしいのだ。」


 ルキウスのその提案にリュキスカは急に訝しみはじめた。


「何でそんなことすんだい?

 アタイ、リュウイチ様の被保護民クリエンテスだよ?

 リュウイチ様の不利になるようなことなら、悪いけどお断りさしてもらうよ?」


 ルキウスはフッフッフと小さく笑いながらかぶりを振った。


「別にルキウスだってリュウイチ様に害をなそうとは思っているわけではないよ。

 むしろ、いろいろと取り入って仲良くしたいのだ。

 だが、リュウイチ様は異国の出自で我々とは考えや風習が異なる。下手なことをすると却って無礼を働いてしまうかもしれない。そういう失敗を防ぎたいのだ。

 たとえば、我々は甘いワインが上等だと考えるが、リュウイチ様はセーヘイムで作られた黒いビールアリカを好まれる。」


「ええ!?あ!そう言えば・・・」


 リュキスカが目を見開いた。


「心当たりがあるかね?」


「はい、ポピーナで甘い料理と甘い飲み物の組み合わせがあんまり好きじゃなさそうなこと言ってました。」


「だろう?

 なのに知らずに甘いワインを贈って不興を買うようなことは避けたいのだよ。」


 リュキスカは得心がいったと頷いて見せる。


「食べ物や飲み物、絵画や彫刻などの芸術、音楽、文学、花壇の花、香水、衣服、女の趣味…なんでもだ。様々なモノの考え方などどれほど些細なことでも構わない。リュウイチ様について知りえることは何でも教えてほしい。

 そして、我々とリュウイチ様がうまく付き合えるように、また何か間違いが起こった時はそれを解消するように取り計らってほしいのだ。」


「それはリュウイチ様のためになるんだね?」


 ルキウスは眉を跳ね上げながら頷く。


「もちろんだとも。」


「でも、アタイはリュウイチ様の被保護民クリエンテスだ。いくらアンタがたが望んだからって、リュウイチ様が損をするようなことはアタイしないよ?」


 話がうますぎて不安を覚えたリュキスカが念を押すと、ルキウスは満足そうに微笑んで答えた。


「それでいいとも。

 だが、我々にもリュウイチ様にも、どちらにとっても良いようにしてくれればね

。」


「何なら、貴女リュキスカエルネスティーネ被保護民クリエンテスにしてもよろしくてよ?」


 エルネスティーネのこの提案にリュキスカは度肝を抜かれた。


「ア、アタイが侯爵夫人マルキオニッサ被保護民クリエンテス!?」


「ああ、それはいい。何ならルキウス保護民パトロヌスに立候補しようじゃないか。」


「ウソ!?

 アタイがお二人の被保護民クリエンテス?」


 もし日本人がクリエンテラという関係に理解しにくい点があるとすればこの部分だろう。

 保護民パトロヌス被保護民クリエンテスの関係は一見すると主従関係のようだが、日本の武士のそれとは異なり被保護民クリエンテスの仕える保護民パトロヌスは一人でなければならないというわけではなかった。保護民パトロヌス被保護民クリエンテスは固い結束で結ばれるが、一人の被保護民クリエンテスが複数の保護民パトロヌスを持つのは珍しくないのである。

 保護民パトロヌスにとって自分以外の保護民パトロヌスにも仕える被保護民クリエンテスは忠誠を疑いたくなりそうな気がしないでもないが、実際は共通の被保護民クリエンテスを持つ保護民パトロヌス同士がその被保護民クリエンテスを通して関係を築いたり深めたりする事も多く、それが問題になるようなことは滅多にない。

 被保護民クリエンテスからすれば仕えるべき保護民パトロヌスが増えることで課せられる役目が増えたり厄介事が増大するのだが、それと同時に保護民パトロヌスからの恩恵も増えることになる。特に相手が有力者であればあるほど、受けられる恩恵は大きくなる。


 平民プレブスからすれば領主持ち貴族パトリキ被保護民クリエンテスになれるなんてありえないほどの幸運といっていいだろう。その貴族パトリキが没落でもしない限り、まず食いっぱぐれる心配はなくなるからだ。


 リュキスカは昨日リュウイチの被保護民クリエンテスにしてもらうまで、保護民パトロヌスを持ったことがなかった。母が誰の被保護民クリエンテスでもなかったし、しみったれた相手を保護民パトロヌスに選んだところで負担がふえるだけで恩恵はあまり得られないからだ。そして十分な恩恵を期待できるような御大尽に被保護民クリエンテスにしてもらえる機会なんて昨日まで回ってこなかったのだ。

 それが昨日、リュウイチに被保護民クリエンテスにしてもらい、今日は侯爵夫人マルキオニッサ子爵ウィケコメスというアルビオンニアで最も高い地位にある二人が被保護民クリエンテスにしてくれるという。


「ホ、ホントに被保護民クリエンテスにしてもらえるのかい?」


「ホントだとも。それともルキウスでは不足かな?」


 リュキスカがブルブルと首を振るとエルネスティーネが笑いながら言った。


「もっとも、リュキスカさんフラウ・リュキスカ次第では立場は逆転するかもしれませんけどね。」


「そうですな。そうなったときは我々が被保護民クリエンテスにしてもらいますか?」


 二人の領主が言ったことと笑っている理由が理解できずにリュキスカがきょとんとする。そして三人の視界の外ではルクレティアが静かに表情を曇らせていた。


「え!?そんな…え?…冗談?」


「先ほども侯爵夫人エルネスティーネが申されたようにリュキスカは既に聖女だ。もし、リュキスカがリュウイチ様の子を成せば、リュキスカは晴れて正式に聖貴族コンセクラータとなり、我々よりも高位の貴族パトリキになるということだよ。」


 ルキウスが悪戯っぽい笑みを浮かべながら説明すると、リュキスカはゴクンと唾をのんだ。その後、ゆっくりかぶりを振る。


「じょ、冗談よしてくださいよ。

 アタイはルクレティア様の代わりを務める娼婦だよ?

 そりゃあ、アタイだってリュウイチ様みたいな上客は手放したくはないけどさ。でもアタイの仕事はスパルタカシアルクレティア様がリュウイチ様の聖女になられたらお終いさ。」


「無欲なことだな。」

貴女リュキスカはそれでいいの?」


「アタイにはこの子がいるんだ。

 アタイにとってはこの子が一番大事なんだ。

 アタイはこの子に自分の人生の全部をかけるって決めてんだ。

 それに…それに、娼婦が二人も三人も子供を作るわけにゃいかないよ。」

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