第218話 リュキスカ謁見

統一歴九十九年四月十八日、午後 - ティトゥス要塞司令部/アルトリウシア



 エルネスティーネとルクレティアが共に要塞司令部プリンキピアへリュキスカを訪ねた際、まだルキウスはリュキスカに会っていなかった。エルネスティーネとルクレティアが会見を予定していた部屋に入るとルキウスは一人で香茶を楽しんでいた。


「あら子爵閣下ルキウス件の聖女様リュキスカはどうなさったのかしら?」


 

 秘密の会見であるため名乗り奴隷ノーメンクラトールによる名乗り無しに入室したため、車椅子に腰を沈め独り香茶を楽しむ姿のままだったルキウスに半ば呆れたようにエルネスティーネが声をかけると、ルキウスはさもおかしそうにおどけて言った。


「これは侯爵夫人エルネスティーネルキウスめが彼女リュキスカに会いに来るちょっと前から、どうも彼女リュキスカは赤ん坊にお乳をあげはじめてしまったらしくてね。

 こうして別室で待たせていただいているところだよ。」


 ルキウスはこちらから呼び出しておいて客を放置する無礼をエルネスティーネに働かすまいと出張ってはきたが、肝心の客の方が赤ん坊に授乳し始めてしまったと聞き、ならば無理に急いで会う必要もあるまいと授乳が終わるまで待つことにしたのだった。

 エルネスティーネに対してあれだけ格好つけて出てきたのに意味がなかったというわけだ。その間抜けな姿をエルネスティーネに見られたことにルキウスは滑稽なものを感じていた。


「それで、御子息カールの方はもうよろしいのかな?」


「ええ、診てもらいましたわ。

 でも、しばらく様子を見るしかないようです。」


 悲しそうな笑みを浮かべたエルネスティーネに、ルキウスは優しく微笑みつつため息を押し殺した。


「ですが、お時間をいただけて良かったですわ。

 先にこちらに来ていたら、きっと待っている間ずっとやきもきしていたでしょうからね。ありがとうございました子爵閣下ルキウス。」


「なに、何が幸いするかわからんものですよ侯爵夫人エルネスティーネ。」


 ルキウスはあえてカールの容体について深くは訊かなかった。エルネスティーネの様子から良くないことは分かる。彼女はそれを圧して領主としての役目を果たすためにここへ来ているのだ。またもや、母としての自分を殺してだ。

 ここであえてカールの容体について踏み込んだところで、医者でもないルキウスに何かしてやれることが増えるわけではない。事態の好転に寄与できないばかりか、今せっかく気持ちを切り替えてここへと赴いたエルネスティーネの心をかき乱すことにしかならないからだ。

 詳細は後程、ルクレティアからでも聞けばいい。


 ドアがノックされ、近習が入室してきた。


「お客様のご用意が整ったようでございます。

 こちらへお連れしてよろしいでしょうか?」


 彼らが今いるのは謁見の間ではなく、単なる貴族用の控室だった。秘密の会見である以上、公式行事用の部屋を使えないからだ。そして、今現在リュキスカがいる方の部屋も、ここと同じ貴族用の控室である。

 エルネスティーネはルキウスが手にしている茶碗ポクルム円卓メンサに置かれた茶器類を一瞥し、小さくため息をついてから言った。


「いいえ、こちらから参りましょう。」



 リュキスカは大慌てでオシメディアスプルムを替えていた。彼女の愛する息子フェリキシムスは昨日来本当に信じられないくらい母乳をよく飲むようになっている。さっきなんか授乳に半時間以上もかかってしまったくらいだ。

 その後、ゲップが巧くできなくて泣きわめき、ようやく盛大なゲップをして大人しくなったところで、リュキスカは安心して服を整えた。そして、介助のために部屋に残っていた奴隷のオトに頼んで、授乳が終わったことを連絡してもらったところで再びフェリキシムスが泣き始める。飲むものを飲んで満腹になったところで、今度は出すものを出したのだ。


 これから貴族様パトリキと会うのに、ただでさえ授乳のために時間を遅らせてもらったのにという気持ちがリュキスカとオトを焦らせる。何とか近習の人が呼びに来るまでにオシメディアスプルムを替え終わらないと、これ以上待ってもらうわけにはいかない。

 ドアがノックされ、「失礼します」と先ほどの近習の声が聞こえてドアが開いたとき、リュキスカたちは赤ん坊のお尻をようやく拭き終えたところだった。


「ああ、ゴメンよ。

 赤ん坊が漏らしちゃってさ。

 ちょっとオシメディアスプルムだけ替えるまで待っておくれよ。」


 てっきり案内係の近習が入ってきたのだと思ったリュキスカは振り返りもせずにそう言って、赤ん坊のお尻にデンプンを振りかけた。


「その粉は何ですの?」


「これかい?

 デンプンアミルムさ。これやっとくと…」


 質問してきたのがさっきの近習の声ではなく、聞き覚えのない女性の声であることに気づいたリュキスカがパッと振り返ると、そこにはエルネスティーネ、ルキウス、ルクレティアが立っていた。近習は開けた扉が閉まらないように手で持って壁際に立っている。


「ひっ!?」


 リュキスカはエルネスティーネもルキウスも顔を見たことはないが、その服装とわきにルクレティアを従えていることからその正体を察し、思わず息を飲んで顔を青くした。一瞬、アワアワしてからオシメ交換を手伝っていた奴隷のオトとともにその場に跪く。すると部屋の隅にいた奴隷のカルスもそれを見て慌てて跪いた。ちなみにネロとゴルディアヌスは部屋の外で入り口を守っている。


「し、失礼しました貴族様パトリキ。」


「いえ、お気になさらないで。どうぞ赤ちゃんの方を先に済ませて。」


 リュキスカの詫びに対するエルネスティーネの言葉に、リュキスカは思わず隣にいるオトと顔を見合わせる。こういう場面に慣れていないのでどうしたらいいかわからないのだ。


「さあ、そのままでは赤ちゃんが風邪をひいてしまうわ。」


「し、し、失礼します。」


 涼しげにも聞こえる上品なエルネスティーネの声を聞き、リュキスカはそういうと立ち上がって作業を再開した。


「それで、どうして赤ちゃんのお尻にデンプンアミルムを振りかけるのですか?」


「あ、あ、あ、あの、ここ、これは、その、こうすると、かぶれないんですよ。

 ア、ア、アタイも、ラウリの親分に教わって…あ、ラウリの親分ってのは、その、リクハルド様の子分で…」


 リュキスカはしどろもどろになりつつ答えたが、その声もオシメディアスプルムを替える手つきも緊張で震えていた。


「まあ、それは良いことを聞いたわ。

 ルクレティア、貴女は御存知?」


「いえ、初めて聞きました侯爵夫人エルネスティーネ


 オシメディアスプルムを替え終え、汚れ物や布巾スダリウムをまとめてカゴカニストルムに入れると、それをカルスが受け取る。最後に赤ん坊をリュウイチに貰ったタオルでくるんでオトに預けようとしたところで、エルネスティーネが再び声をかけた。


「あら、どうぞ赤ちゃんはそのままでどうぞ。」


「え、いえ、でも…」


エルネスティーネにもその子と同じくらいの赤ちゃんが居るの、御存知?」


「は、はい!カ、カ、カロリーネ様ですね!?」


「ええ、たぶん同い年だわ。その子は何か月かしら?」


「じ、十か月になります。今日でちょうど!!」


「まあ!じゃあカロリーネと同じ六月生まれかしら?」


「はい!はい!そうです!!

 あの、アタイ、アルビオンニウムからコッチへ逃げてくる時、エルネスティーネ様と同じ船に乗ってました!!」


「まあ!そうなの?

 奇遇なこともあるものなのね。」


「はい!あの、光栄です!」


「うれしいわ、リュキスカさんフラウ・リュキスカ

 是非、カロリーネとも仲良くしてほしいわね。」


「そんな!アタイなんかに“さんフラウ”だなんて…

 それにアタイ、娼婦だし、アタイの子なんかがカロリーネ様と…」


「それはこれからの話で説明することになるわ。」


 エルネスティーネがそう言うとルキウスはまだ部屋に残っていた奴隷たちに「お前たちはもう退室しなさい。」と命じ、カルスとオトは荷物だけ抱えて退室した。奴隷たちが出ていくと同時にドアを開けていた近習も一緒に退室し、扉が閉まる。

 リュキスカは赤ん坊を抱えたまま寂しさというか不安に苛まれたが、今この部屋にいるのが自分以外は全部貴族パトリキだということを思い出し、その場に跪いた。

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