第216話 植物人間
統一歴九十九年四月十八日、昼 - ティトゥス要塞ルキウス邸/アルトリウシア
カールは昨夜の火災から救出されて以来ずっと意識を失った状態が続いている。やけに血色の良かった肌はすでにいつも通りのロウのように白い色に戻っていた。息もしているし心臓も動いている。そして目も開ける・・・だが、身動きを全くしない。話しかけてもまるで音が聞こえていないかのように何も反応しない。瞬きもしないし眼球すら動かさない。身体のどこかを
ルキウスの
背中の後ろに枕やクッションを積み重ねて上体を起こさせ、半開きの目を手で塞いでおいてパッと除ける…蝋燭の光で瞳孔の反応を診たが、右目はちゃんと動くが左目の方はどうも反応が鈍い。
ルクレティアが診たところ魔力は感じるし、魂が抜けたとかいうことではなさそうだ。火災現場と同様、呪いとか何か超常の力の痕跡のようなものは一切感じられない。植物人間と化しているとしか言いようがなかった。
「どうかしらルクレティア?」
エルネスティーネの声は
ルクレティアはカールのこともエルネスティーネのことも、ルクレティアが子供だった頃からずっと付き合いがある。おそらくカールにとってルクレティアは、親戚以外では最も付き合いの深い貴族の一人であろう。当然、ルクレティアも自分にできることであれば何とかしてやりたいと思う。だが、力になれそうにはなかった。
「申し訳ありません
何故、カール閣下がこのようになったのか、私ではわかりません。」
エルネスティーネが鼻をすするように息を吸う。
「で、では、カールは治せないのですか?」
「治るかどうかがまずわかりません。
魔力には余裕がおありのようですから
それに、カール閣下はまだ八歳であらせられます・・・」
これを成長途中の子供に使用すると、身体の発育を異常に加速させることになってしまう。結果的に身体の一部だけが異常に発達してしまったり、身体が成長しすぎて成長期に体調を崩しやすくなったり、成人してから体質に異常が出たりするようになるのだ。このため、成長期前の子供に治癒魔法を使うことは推奨されていないし、長期にわたって治癒魔法をかけることは禁じられてもいる。
タブーを犯して治癒魔法をかけたとしても、ルクレティアの治癒魔法は術者の魔力の不足分を被術者の魔力で補うため、治癒魔法をかけられたカールの魔力を消耗してしまう。
カールには魔力に余裕があるので健常な状態であればかまわないのだが、今カールは食事をとることもできない状態だ。このまま治癒魔法をかけて魔力を過度に消費すれば、カールは魔力を回復できずに衰弱していってしまう。
今のままでは治癒魔法をかけても死を早めるだけになってしまうだろう。少なくとも治癒魔法をかければ意識が回復するという確証がなければ、危険すぎて使うことはできない。
「そんな…カール…いったいどうしてこんな事に…」
目を閉じ、うつむき、胸元のロザリオを握りしめるエルネスティーネの肩が震え始める。
「お力になれず、申し訳ありません。
「いえ、いいのですルクレティア。ありがとう。
でも貴女は何も悪くないわ。お気になさらないで…」
ルクレティアの慰めを受け、エルネスティーネは顔を起こすと涙を湛えた目でルクレティアに感謝の言葉を述べた。
「
召喚して使役する
悪魔は
もちろん、リュウイチならば召喚できるかもしれないが、リュウイチがわざわざ悪魔を召喚して今まで会ったこともないカールに差し向ける理由は無い。
しかし、特定の宗教に深く傾倒した信心深い人たちは悪魔について、そうした区別をしていないのも現実だ。教義にある悪魔は、
そういう者たちは
属州を治める領主として、愛する息子カールを守る母として、エルネスティーネは民衆がそうした騒ぎを起こす可能性の芽は摘まねばならない。カールは呪われている、カールに悪魔がついている…そうした騒ぎが再び起これば、今度こそカールを守り切れないかもしれないからだ。
ルクレティアは幼いころに沸き起こったカールの悪魔騒ぎについて記憶していた。だからこそ、エルネスティーネを気遣ってわざわざそれを言ったのだった。
「ありがとうルクレティア。
エルネスティーネの顔はくしゃくしゃのままだったが、エルネスティーネはハンカチで涙を拭いて無理やり笑って見せた。
「
「ああ、そうです。
リュウイチ様からお預かりしていたポーションを一本飲ませました。」
「あれが効かなかったのですか!?」
「いえ、すごい効き目でした。
あの時、カールは骨折していたのですよ。カールは苦しんで、うめいて、悶えていて…それで、
それで、一本お借りして…」
「・・・・・」
「そしたら最初の一口でカールの身体が光って、あっという間でしたわ。
骨折も、骨の歪みや曲がりさえも治ったんです。」
「それでカール閣下は、それでも息を吹き返さなかったのですか?」
「いえ、意識を回復しましたわ。
でもダメ、すぐにまた泡を吹いて気を失ってしまって…
それで
そしたらまた意識は戻るんですが…」
「ダメだったのですか?」
「ええ、すぐにまた泡を吹いて…」
リュウイチのポーションの効き目はルクレティアの治癒魔法など足元にも及ばないほどすさまじいものがある。それが効かなかったとなると、治癒魔法はかけるだけ無駄だと判断するほかなさそうだ。
エルネスティーネにもそれはわかっていた。
むしろ、悪魔が憑いていてくれた方がよかったかもしれない。憑いた悪魔をどうにかしさえすれば、カールは助かるのだから。
ルクレティアが呪いや悪魔の仕業ではないと言ったとき、カールは悪魔騒ぎが再燃する危機からは救われたかもしれない。だが同時に、回復への希望も絶たれていたのである。
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