第203話 カールの異変

統一歴九十九年四月十七日、晩 - ティトゥス要塞エルネスティーネ邸/アルトリウシア



 庭園ペリスティリウムに建つ無人の東屋キオスクは、夜のとばりの降りた中で一層寂しそうに見える。それはアルビオンニウムからここへ移り住んできた際にカールのために花壇を一つ潰して建てられた物だった。


 カールはアルビノで日の光の下に出る事が出来ないため、日中は戸も窓も締め切り暗幕を張り巡らした室内で過ごさねばならない。外に出る事が出来るのは日が落ちた夜だけだ。

 せめてカールが外で家族と過ごせるようにと、カールの父にしてエルネスティーネの夫であるマクシミリアンは、家族だけで夕食を摂る時は日没後に屋外で摂るように侯爵家の食習慣を改めた。

 そのマクシミリアンが火山災害で命を落とした後も、エルネスティーネはその習慣を守るため、雨が降っていても外で食事が出来るよう、庭園ペリスティリウムに造らせたのがこの東屋キオスクだったのだが、さすがに秋分を過ぎた今となっては使われていない。病弱なカールには夜風は冷たすぎるからだ。


 昨年生まれた末子カロリーネを抱いた侍女が二階の寝室へ姿を消す。他の子どもたちも侍女たちに伴われてそれぞれの寝室へ戻って行ったのを見届けた後、冷たい秋風に吹かれながらエルネスティーネは深いため息をついた。寒さに身体を少し震わせ、冷えを覚えた手と腕を少しさすって、エルネスティーネはカールの部屋の前から応接室へ向かって歩き始める。


 本来なら食後の家族の団欒だんらんの時間のはずだった。だが、二つの理由からそれは今日はとりやめになっている。 

 理由の一つはカールの体調である。

 昨夜、夕食後にカールは急に苦しみ出した。意識の混濁や全身の痙攣、そしてうわごとのように「熱い」と繰り返す。夜半までには治まったが、今朝の朝食後に再び同じ症状が出た。

 原因が何か分からない。今までカールがこんな苦しみ方をした事は一度だってなかった。


 もう一つは夕食の前にルキウスから届いた手紙。マニウス要塞カストルム・マニからの早馬が届けたその手紙にはルキウスが大至急ティトゥス要塞カストルム・ティティへ戻る事と、急ぎ会談したいむねが告げられていた。


 用件は分かっている。おそらく、午前中に届いたリュウイチが女を連れ込んだという話だろう。エルネスティーネもマニウス要塞カストルム・マニへ行こうと思ったのだが、ルキウスが自分が行くからとエルネスティーネを止めたため、今日はこうしてカールと過ごさせてもらっていたのだ。


 ルキウスが急いで会談したいということは、よほどの事なのだろう。

 いや、実際リュウイチが女を連れ込んだというだけで既に十分よほどな事に違いないのだが、わざわざ早馬で先触さきぶれを寄越したということは、寝ないで待っていて欲しいという事だ。

 それが一応の解決を見たからなのか、それとも急ぎ対応せねばならない事柄が持ち上がったからなのかはわからないが、願わくば前者であって欲しい。


 本当は一人の母としてカールの傍に付きっ切りになっていたかったが、侯爵夫人という立場がそれを許してはくれない。エルネスティーネは心を殺して頭をまつりごとへと切り替えた。

 が、エルネスティーネは再び母に戻らされることになった。カールの寝室からカール付きの侍女クラーラが飛び出してきたからだ。


「奥様!!カール様が!カール様が大変です!!」


 その声にエルネスティーネがサッと振り向くと、顔色を失ったクラーラが駆け寄ってきた。


「どうかしたのですか!?」


「カール様が突然苦しみ出して・・・です!

 でも、今までと違います!!」


 エルネスティーネはスカートを摘まみ上げると駆足でカールの部屋へ飛び込んだ。


「ああっ!熱い!!母上、母上ぇ!!熱いよ!」


 カールはベッドの上で呻きながら激しく身悶えしていた。


「カール!カールどうしたの!?」


 エルネスティーネがベッド脇へ駆け寄ってカールに問いかける。


「母上!?母上どこ!?」


 カールの血色はいつにもまして悪く、目は開いているが見えていないようだ。エルネスティーネは母を探して空をさ迷うカールの手を取った。


「母はここです。ここに居ますよ、カール!!」


「母上!母上!?暗い、暗くて見えません!

 母上、助けて!手と足が熱いんです。」


 カールが焦点の合わないうつろな目に涙を浮かべて訴えかける。苦しむ我が子を目の辺りにして、エルネスティーネは完全に一人の母に戻った。


「暗いの!?今灯りを用意しますねカール。

 クラーラ!」


「はい、奥様!!」


「今すぐ灯りを用意しなさい!

 ありったけの灯りを持ってきて!!」


「はいっ、ただ今!!」


 クラーラが飛び出し、やがて他の使用人たちも協力してありったけの灯りが室内に持ち込まれた。何十というロウソクやランプに次々と火が灯されていく。

 しかし、その間もカールは苦しみ続ける。


「母上、暗いよ。手足が熱いよ!!焼けるよ!!」


 だがエルネスティーネが手に取ったカールの手はむしろ冷たく、まるで氷のようである。


「カール、しっかり!母が付いていますよ!ここに居ます。

 灯りもいっぱい用意しました。カール、ああカール」


 既に部屋中に灯せる限りの灯りを灯した。なのにカールは暗くて何も見えないと訴え続ける。手足は氷のように冷たいのに熱い熱いと苦しみ続ける。

 苦しみ助けを求めつづける我が子を目の当たりにしながら何もしてやる事が出来ない。母親にとってこれ以上の地獄があるだろうか?エルネスティーネはただただカールの手を握り、励まし続けた。それ以上の事など何もできない。その自らの不甲斐なさと苦しむ我が子への哀れみから、自然と涙が流れ出す。


「おお、カール、カール、母はここに居ます。ここに居ますよ。

 おお主よ、どうかカールを御救いください。」


 もだえ苦しみながらうわごとのように苦痛を訴えつづけるカールの手にロザリオを握りしめさせ、その手を取ってエルネスティーネが祈りを捧げていると次第にカールの血色がよくなってきた。

 だが、同時にエルネスティーネは急激に頭痛に襲われ始める。


「母上、母上、何かいる。母上、何かいます。」


「カール、カール?どうしたの、カール!?」


 カールの顔を見るといつものロウのような白い肌が赤みがかっていた。目は虚ろなまま天井を見つめうわごとのようにカールは訴え続ける。


「母上、天井に、天井に何かいます。」


 エルネスティーネは天井を見渡すが何もない。


「カール、大丈夫よ、何もいないわ。しっかりしてカール。」


 カールの顔が苦悶に歪み、口の端から泡を吹き始めた。


「母上、ははうえ・・・あくまが・・・悪魔がいます・・・ははうえ」


 カールの目がゆっくりとひっくり返って白目になっていくのを見てエルネスティーネは慌てた。


「カール!カール!!しっかり!!目を開けてカール!!」


 カールを励ましながらエルネスティーネが天井を見上げるが、そこには何もない。何もないが、何か黒い影が浮かんでいるようにも見えた。


 何!?これは何なんの!?


 頭痛が最高頂に達し、急に胃の腑がこみあげてくる。


「ヴッ・・・グッ!?」


 エルネスティーネは口を押えて部屋から飛び出した。


「お、奥様・・・うっ・・・」


 クラーラも苦しそうな表情で頭を抑えながら一緒に突いて来る。


「ヴッ・・・ヴォエエエエエッ」


 エルネスティーネは庭園ペリスティリウムを囲う回廊まで出ると、柱にもたれかかり、そのまま嘔吐した。


「オッオヴォェェェェェェェ!!」


 エルネスティーネの背後で同じようにクラーラが嘔吐する。


「奥様!?奥様!!いかがなさいましたか!?

 誰か!!奥様が!!」


 異常に気付いた使用人たちが周囲から駆け寄ってきた。

 外の冷たく新鮮な空気を吸うと見る間に頭痛が引いていき、頭がスッキリしてくる。


 これは・・・これは一体どういうこと!?

 最後に見たは一体何!?


 エルネスティーネは部屋で見た天井に渦巻く黒いを思い出す。


 カールは悪魔だと言った。

 いけない!は危険だわ!!


「カールを!この部屋からカールを運び出しなさい!!

 急いで!!!」


 エルネスティーネが叫ぶ!


「は、はい奥様!」


 まだ回復しきれないクラーラは苦しそうに返事をすると部屋へ戻っていく。エルネスティーネもそれに続いた。愛する我が子を救い出すために。

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