第163話 銀貨違い

統一歴九十九年四月十六日、薄暮 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 電気照明の無い世界では人の生活は日の光と共にある。

 日の出と共に起き、日が沈めば寝る準備を整える。日が沈んでからいつまでも起きていては、灯りのための燃料のコストがバカにならない。


 たとえば毎日二時間ずつ油で火を一つだけともすとしよう。

 火の強さや油の質にもよるが、いちコンギウス(約三・七リットル)の油でだいたい百三十日ぐらいもたせることができる。油は低質な一番安い奴でいちコンギウスが七セステルティウスくらいだから、年間で最低でも二十一セステルティウスが必要になる計算だ。これはレーマ帝国で最低限度の生活を営んでいる庶民四人家族の生活費約十九日分に相当する金額である。乱暴だが年収ベースで比較すると《レアル》現代日本で言えば、灯り用に小さな火を毎日二時間ずつ灯すために年間二十万円くらい必要になる・・・くらいの感覚だろうか。


 金だけの問題ではない。

 焚火や篝火かがりびの場合は薪だから油より安く燃料が手に入るし火も大きいから明るさの割に値段は安くつく。だが、薪は重いし嵩張かさばる。

 一日二回しか調理しないレーマ人でも、一日で薪を一束(一抱え分と言った方が伝わるだろうか?)は消費する。それもパンパニスは買ってきて、家ではスープや粥を温めるだけの食生活を送っている家庭での話だ。自宅でパン焼きまでやってるような規模の家庭はもっと必要になる。料理のためだけにだ。

 それを照明のためにも使おうとすると倍以上の薪が必要になるだろう。

 その薪を使用する数日前から屋内に置いて乾燥させておかねばならない。これが結構な容積を要するのである。

 狭い空間に湿った薪を押し込めると、そこに湿気がこもって却って薪が乾燥しなくなるし、カビなどの原因にもなるからある程度風通しが確保されねばならない。

 かつて「ウサギ小屋」に例えられた頃の劣悪な《レアル》日本の住居環境と大差ない(あるいはより劣悪な)狭さを誇るレーマの集合住宅インスラでは、そのような薪置き場の確保は住民にとってかなりな負担になる。


 そういうわけだから、日が落ちても尚も起きて活動し続けるなど、庶民には考えも及ばぬような贅沢なのだ。

 それでもコストをかけて火を灯して日没後も活動するのは、夜の時間帯に金を稼ぐ商売をしているか、そんなコストなどものともしない財力のある貴族などに限られるのである。



 日は沈んでしまったし建物の中は中庭であってももう闇夜となってはいるが、空はまだ明るさを保っている薄暮の時間。リュウイチの住まう陣営本部プラエトーリウムの私的エリアはとっくに灯りが落ちているが、陣営本部周辺や公的エリアの方は二十四時間体制で警備兵が詰めている事もあって灯りが確保されている。

 通路や兵士の詰め所にはランプに火が入れられ、表の通りには篝火が勢いよく焚かれていた。


 その表通りはいつになく騒がしく非番の軍団兵レギオナリウスたちが行きかっている。彼らは皆、クィントゥス隷下の特命大隊の隊員たちだった。

 もちろん、陣営本部の向いで今日から営業を開始した酒保しゅほが理由である。

 彼らは皆サウマンディウムやナンチンで遊んだ者でも五、六日、アルビオンニウムから直接帰った者たちなら十日もの禁欲生活を強いられていたのである。それが溜め込んでいたものをようやく遠慮なく吐き出せるようになったのだから、浮かれないわけがなかった。


 しかし、その彼らを羨まし気に見つめる一団があった。

 言わずと知れたリュウイチの奴隷たちである。


 彼ら八人も警備隊員らと同様、十日も禁欲生活を送っている。そして彼らも酒保の利用を許可されてはいるのだが、利用するためには金が要る。しかし、彼らには金が無かった。

 奴隷にされた際に財産は没収されていたし、リュウイチから給料をまだ貰えていない。

 一部はふて寝を決め込もうと自分の部屋へ引っ込んでいる者もあったが、そうでない者は何するでもなく酒保に出入りする連中を羨まし気に眺めながら、時折通りかかる知り合いを見つけては呼び寄せて中の様子を聞いているのだった。



 そこへリュウイチからの小遣いを預かったリウィウスが駆けてくる。


「おい、お前ら!

 よろこべ、旦那リュウイチ様が俺らに小遣いを下すったぞ。」


「何、ホントかよとっつぁん!?」


「ホントだとも。

 ほれ、一人に銀貨二枚ずつだ。

 おい、寝入ってる奴がいたら叩き起こして呼んで来い!」


 一番若いカルスが「わかった」と言って早速奥へ駆けていく。

 残った連中はリウィウスから銀貨二枚受け取ると、さっそく表通りの篝火から届く薄明りに照らして確認した。


「すげぇ!銀貨ってセステルティウスじゃなくてデナリウスじゃねぇか!?」

「黒ずんでねえぞ、ピカピカだぜ。」

「ホントに貰っていいのか!?」


「ああ、『遊んで来い』だとよ。

 明日、旦那リュウイチ様に御礼言っとけよ!?」


「おぅ、そんなもんなんぼでも言ってやらぁ」

「太っ腹なご主人様だぜ。」

「おい、さっそく行こうぜ」


 気の早い三人がさっそく銀貨を握りしめて表へ飛び出していった。

 それと入れ替わるように、奥からもう寝ようとしていた奴隷たちがカルスに叩き起こされて出てくる。寝入り端だった者もいたようだが、怒っている者はいない・・・いや、一人ネロだけが妙に機嫌が悪そうな顔をしている。


とっつぁんリウィウス旦那リュウイチ様が金くれたってホントか?」


「おう、ホントだ!

 ほれ、一人銀貨二枚ずつだ。」


「おおー、やったぜ!!」

「すげーや、デナリウス銀貨だぜ!?」


「ほい、ネロ、お前さんの分もあるぞ?」


 数歩分ほど距離をおいて訝し気に眺めるネロにもリウィウスは銀貨を差し出す。


「何で旦那リュウイチ様が我々に銀貨をくださったんだ?」


「?

 遊んで来いって言って下すったんだぞ?」


「何で旦那リュウイチ様が我々にそんなことを言ってくださるんだ?」


「・・・?

 そりゃやお前ぇ、俺らが金が無くて遊べねぇからよ?

 ああ、酒保の事なら訊かれたんで、俺がお教えしたんだ。」


旦那リュウイチ様に我々を遊ばす理由なんて無いんじゃないのか?」


「?あに言ってんだ?

 俺らに目ぇかけて下すってんじゃねえか。

 俺に直々に『これで遊んで来い』っておっしゃられたんだぞ?」


「それ、デナリウス銀貨じゃないか!

 あそこで遊ぶ金にしちゃ高すぎる。

 リウィウスお前、何か旦那リュウイチ様をだますかなんかしたんじゃないか?」


「どうだますってぇんだい?

 この銀貨は旦那リュウイチ様が自分で八人分だって数えてお渡しくだすったんだぞ?」


「あそこで遊ぶなら一人セステルティウス銀貨二枚で十分だ。

 デナリウス銀貨二枚じゃ四回は遊べるぞ。」


「それがどうしたい!?」


「お前、あそこで遊ぶ代金をちゃんと説明申し上げたのか?」


「おぅ、女買うのに銀貨一枚、酒代に銀貨一枚で二枚だって申し上げたぜ?」


旦那リュウイチ様はお前の言った銀貨をセステルティウス銀貨じゃなくてデナリウス銀貨だと思われたんじゃないのか?」


 レーマ帝国には二種類の銀貨が流通している。デナリウス銀貨とセステルティウス銀貨だ。同じ銀貨だが両者の交換比率は一対四である。

 セステルティウスは元々黄銅貨だったが、銅の価格が高騰して銀銅比価(金と銅の価値の比)を保てなくなったため、セステルティウス黄銅貨を廃止してセステルティウス銀貨を発行し、回収したセステルティウス黄銅貨を鋳つぶしてより低価の銅貨を増鋳していた。これは百年以上前の話である。

 しかし、近年になって銅の価格が低下し銀銅比価が再び崩れ始めたので、帝国はセステルティウス銀貨を廃止し、セステルティウス黄銅貨を再発行しはじめている。セステルティウス銀貨は既に新規の発行はしていないが、市中にはまだ大量に出回っている状態である。貴族たちにとって銀貨と言えば今やデナリウス銀貨のみだが、一般庶民にとっては特に「デナリウス」と付けずに単に「銀貨」と言えばセステルティウス銀貨を指すのだった。


「あ・・・・」


旦那リュウイチ様はこちらヴァーチャリアに来て間もないんだ。

 銀貨って言われただけじゃセステルティウスかデナリウスかお分かりになられないかもしれないぞ?」


「・・・・・」


 リウィウスの顔がサーっと青くなる。


「ど、どうする?」


 カルスが不安げにネロとリウィウスの顔を見比べる。


「もう誰か行ってしまったのか?」


「・・・さ、三人行ったぜ?」

「か、返せって言われるかな?」


 セステルティウス銀貨と間違ってデナリウス銀貨を渡したとしたら、十二枚を返さねばならない計算になる。しかし、受け取った十六枚中六枚は既に三人に渡してしまったし、その三人は酒保へ突撃した後だ。


「どうする、呼び戻しに行くか?」

「さ、さすがに今日いきなり全部使っちまわないだろ?」


旦那リュウイチ様に訊いてくる。」


 ネロがそう言って奥へ向かおうとするのをリウィウスが呼び止めた。


「ダメだネロ!

 旦那リュウイチ様は既にお休みになられた。

 今日はもう起こすなよってお言いつけだ。」


「だが、このままじゃダメだろ。」


 リウィウスの制止も聞かずに歩き続けるネロを、リウィウスは追っかけて腕を掴んで止める。


旦那リュウイチ様は邪魔されないように魔法で結界を張るっておっしゃられた。

 行くだけ無駄だぜ。」


 しばらくリウィウスの顔を見つめたネロだったが、フンッとばかりにリウィウスの腕を振り払うと構わずに奥へ進んだ。

 しかし、リウィウスの言った通り、リュウイチの寝室は固く閉ざされていて鍵やかんぬきがかけられているわけでもないのに、扉はびくともしなかった。ノックをしても、不思議と音が響かない。


 ネロは溜め息一つ付くと諦めて引き下がって行った。

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