第163話 銀貨違い
統一歴九十九年四月十六日、薄暮 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア
電気照明の無い世界では人の生活は日の光と共にある。
日の出と共に起き、日が沈めば寝る準備を整える。日が沈んでからいつまでも起きていては、灯りのための燃料のコストがバカにならない。
たとえば毎日二時間ずつ油で火を一つだけ
火の強さや油の質にもよるが、
金だけの問題ではない。
焚火や
一日二回しか調理しないレーマ人でも、一日で薪を一束(一抱え分と言った方が伝わるだろうか?)は消費する。それも
それを照明のためにも使おうとすると倍以上の薪が必要になるだろう。
その薪を使用する数日前から屋内に置いて乾燥させておかねばならない。これが結構な容積を要するのである。
狭い空間に湿った薪を押し込めると、そこに湿気が
かつて「ウサギ小屋」に例えられた頃の劣悪な《レアル》日本の住居環境と大差ない(あるいはより劣悪な)狭さを誇るレーマの
そういうわけだから、日が落ちても尚も起きて活動し続けるなど、庶民には考えも及ばぬような贅沢なのだ。
それでもコストをかけて火を灯して日没後も活動するのは、夜の時間帯に金を稼ぐ商売をしているか、そんなコストなどものともしない財力のある貴族などに限られるのである。
日は沈んでしまったし建物の中は中庭であってももう闇夜となってはいるが、空はまだ明るさを保っている薄暮の時間。リュウイチの住まう
通路や兵士の詰め所にはランプに火が入れられ、表の通りには篝火が勢いよく焚かれていた。
その表通りはいつになく騒がしく非番の
もちろん、陣営本部の向いで今日から営業を開始した
彼らは皆サウマンディウムやナンチンで遊んだ者でも五、六日、アルビオンニウムから直接帰った者たちなら十日もの禁欲生活を強いられていたのである。それが溜め込んでいたものをようやく遠慮なく吐き出せるようになったのだから、浮かれないわけがなかった。
しかし、その彼らを羨まし気に見つめる一団があった。
言わずと知れたリュウイチの奴隷たちである。
彼ら八人も警備隊員らと同様、十日も禁欲生活を送っている。そして彼らも酒保の利用を許可されてはいるのだが、利用するためには金が要る。しかし、彼らには金が無かった。
奴隷にされた際に財産は没収されていたし、リュウイチから給料をまだ貰えていない。
一部はふて寝を決め込もうと自分の部屋へ引っ込んでいる者もあったが、そうでない者は何するでもなく酒保に出入りする連中を羨まし気に眺めながら、時折通りかかる知り合いを見つけては呼び寄せて中の様子を聞いているのだった。
そこへリュウイチからの小遣いを預かったリウィウスが駆けてくる。
「おい、お前ら!
よろこべ、
「何、ホントかよとっつぁん!?」
「ホントだとも。
ほれ、一人に銀貨二枚ずつだ。
おい、寝入ってる奴がいたら叩き起こして呼んで来い!」
一番若いカルスが「わかった」と言って早速奥へ駆けていく。
残った連中はリウィウスから銀貨二枚受け取ると、さっそく表通りの篝火から届く薄明りに照らして確認した。
「すげぇ!銀貨ってセステルティウスじゃなくてデナリウスじゃねぇか!?」
「黒ずんでねえぞ、ピカピカだぜ。」
「ホントに貰っていいのか!?」
「ああ、『遊んで来い』だとよ。
明日、
「おぅ、そんなもんなんぼでも言ってやらぁ」
「太っ腹なご主人様だぜ。」
「おい、さっそく行こうぜ」
気の早い三人がさっそく銀貨を握りしめて表へ飛び出していった。
それと入れ替わるように、奥からもう寝ようとしていた奴隷たちがカルスに叩き起こされて出てくる。寝入り端だった者もいたようだが、怒っている者はいない・・・いや、一人ネロだけが妙に機嫌が悪そうな顔をしている。
「
「おう、ホントだ!
ほれ、一人銀貨二枚ずつだ。」
「おおー、やったぜ!!」
「すげーや、デナリウス銀貨だぜ!?」
「ほい、ネロ、お前さんの分もあるぞ?」
数歩分ほど距離をおいて訝し気に眺めるネロにもリウィウスは銀貨を差し出す。
「何で
「?
遊んで来いって言って下すったんだぞ?」
「何で
「・・・?
そりゃやお前ぇ、俺らが金が無くて遊べねぇからよ?
ああ、酒保の事なら訊かれたんで、俺がお教えしたんだ。」
「
「?
俺らに目ぇかけて下すってんじゃねえか。
俺に直々に『これで遊んで来い』っておっしゃられたんだぞ?」
「それ、デナリウス銀貨じゃないか!
あそこで遊ぶ金にしちゃ高すぎる。
リウィウスお前、何か
「どうだますってぇんだい?
この銀貨は
「あそこで遊ぶなら一人セステルティウス銀貨二枚で十分だ。
デナリウス銀貨二枚じゃ四回は遊べるぞ。」
「それがどうしたい!?」
「お前、あそこで遊ぶ代金をちゃんと説明申し上げたのか?」
「おぅ、女買うのに銀貨一枚、酒代に銀貨一枚で二枚だって申し上げたぜ?」
「
レーマ帝国には二種類の銀貨が流通している。デナリウス銀貨とセステルティウス銀貨だ。同じ銀貨だが両者の交換比率は一対四である。
セステルティウスは元々黄銅貨だったが、銅の価格が高騰して銀銅比価(金と銅の価値の比)を保てなくなったため、セステルティウス黄銅貨を廃止してセステルティウス銀貨を発行し、回収したセステルティウス黄銅貨を鋳つぶしてより低価の銅貨を増鋳していた。これは百年以上前の話である。
しかし、近年になって銅の価格が低下し銀銅比価が再び崩れ始めたので、帝国はセステルティウス銀貨を廃止し、セステルティウス黄銅貨を再発行しはじめている。セステルティウス銀貨は既に新規の発行はしていないが、市中にはまだ大量に出回っている状態である。貴族たちにとって銀貨と言えば今やデナリウス銀貨のみだが、一般庶民にとっては特に「デナリウス」と付けずに単に「銀貨」と言えばセステルティウス銀貨を指すのだった。
「あ・・・・」
「
銀貨って言われただけじゃセステルティウスかデナリウスかお分かりになられないかもしれないぞ?」
「・・・・・」
リウィウスの顔がサーっと青くなる。
「ど、どうする?」
カルスが不安げにネロとリウィウスの顔を見比べる。
「もう誰か行ってしまったのか?」
「・・・さ、三人行ったぜ?」
「か、返せって言われるかな?」
セステルティウス銀貨と間違ってデナリウス銀貨を渡したとしたら、十二枚を返さねばならない計算になる。しかし、受け取った十六枚中六枚は既に三人に渡してしまったし、その三人は酒保へ突撃した後だ。
「どうする、呼び戻しに行くか?」
「さ、さすがに今日いきなり全部使っちまわないだろ?」
「
ネロがそう言って奥へ向かおうとするのをリウィウスが呼び止めた。
「ダメだネロ!
今日はもう起こすなよってお言いつけだ。」
「だが、このままじゃダメだろ。」
リウィウスの制止も聞かずに歩き続けるネロを、リウィウスは追っかけて腕を掴んで止める。
「
行くだけ無駄だぜ。」
しばらくリウィウスの顔を見つめたネロだったが、フンッとばかりにリウィウスの腕を振り払うと構わずに奥へ進んだ。
しかし、リウィウスの言った通り、リュウイチの寝室は固く閉ざされていて鍵や
ネロは溜め息一つ付くと諦めて引き下がって行った。
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