どうか未来を生きて

雑務

どうか未来を生きて

 雪の降る日のこと。


 冬休み明けの始業式。学校を目指して歩く。何をするにもほとんどビリかブービーだった私は、黄色い帽子の列から少し取り残されたところにいる。水たまりに張った氷に見惚れて、小石でコツコツと割って遊んでいたせいだ。

 算数のドリルくらいの大きさの氷の破片を手に、小走りで距離を縮めていく。

 遠くで雷の音。今日は天気が最悪だ。

 冬の雷は日本海側ではよくあることだが、実は、これは世界的にみてもかなり珍しいものらしい。

 他の子たちは、横断歩道を渡り切ろうとしていた。私も信号が変わる前に渡らないと、追いつけなくなってしまうかもしれない。おいていかれるのが怖い・・・・・・のだが、それだけではない。久しぶりにケイくんに会えたのだ。クラスが違うケイくんとは、登下校中くらいしか話せるチャンスがない。私はできるだけの全力疾走を始める。信号が点滅を始めた。オレンジ色の重いランドセルが、容赦無く肩を痛めつける。手のひらの熱で氷片が溶けていく。信号が赤になる。それでも私は止まらなかった。ただ無我夢中に駆け抜ける。

 激しい落雷が響く。

 −−クラクションの音が、降る雪を震わせた。ブレーキの音が、冬の冷気に共鳴する。

 私は宙に投げ出された。砕け散った氷と雪がヘッドライトを反射してキラキラ輝き、飛び散る血の赤を際立たせる。私は頭から真っ逆さまに落ちていく。地面は目の前。・・・・・・もうダメだ。


−−パーン!


「いつまで寝てるんだ! 起きろ!」

 私はビクンと肩を跳ねさせて、ハゲた教師の顔を見上げる。鬼の形相。頭を叩かれたようだ。・・・・・・夢?


 ここは・・・・・・小学校じゃない・・・・・・?

 目の前の教科書にはまるで意味不明な数式。エイリアンの言語のよう。 私は小学校に向かうところだったはず。

「ここは、どこですか?」

「何を寝ぼけてるんだ!」

「えっと・・・・・・小学校の先生はどこ・・・・・・?」

教室にドッと笑いが起きる。

「ここは高校だぞ? 小学校に行きたいのか?」

 一つずつ整理していこうか。私は小学3年生。昨日まで冬休みでスキーや遊園地や水族館などいろんなところに遊びに連れて行ってもらった。そして、今日が始業式だったはず。久しぶりに友達に会うのを楽しみに、ワクワクしながら目覚めた。親に見送られてルンルンと家を出た。その後、登校中に車に轢かれた。

 なぜ急に高校生に? 車に轢かれたのが夢だったとして、中学の記憶はなぜない? 

 そのとき、ポケットに入れておいた携帯のが震えた。そして間を置かずに着信音が教室中に響いた。

「おい、居眠りの次は携帯かよ、学校に携帯は持ってくるなって何度も言ってるだろ。没収だ、ここまで持ってこい」

 私はそんな忠告も無視して、電話に出た。出なくてはいけないような気がした。

「・・・・・・」

しばらく無言が続く。

「私だけど。今日は来てくれるの?」

 大人の女性の声だ。

「えっと、どちらさま・・・・・・?」

「いつも電話してるのに声でわからない? そっか、今そこに奥さんがいるの? まさか不倫相手と通話してるなんてバレたらまずいもんね。分かった。伝えることだけ伝えてすぐ切るね。駅前のいつものホテルの309号室。夜7時には入室してるから。仕事終わったら早く来てね」

 え・・・・・・不倫? 私は女子高生・・・・・・いや、小学生? じゃないのか? 不倫も何も、彼氏すらいないじゃないか。

 私はその不思議な気味の悪い電話を無言で聞き続ける。

 ・・・・・・?

 不思議なことは電話だけではなかった。私の指の第二関節に、びっしりと毛が生えている。腕もまるでゴリラのようだ。

「あ、それと・・・・・・今日は激しいことしてもいいよ? だって私も久しぶりなんだもん。いつものあれ、持ってきて欲しいな? あ、あと・・・・・・」

 電話に夢中で気づかなかったが、いつの間にか教室ではなくなっていた。窓の外を素早く流れていく景色。軽快に流れるBGM。これはスティーリー・ダンの曲か。

 ・・・・・・ここは車内? 私は、今、車を運転しているのか? ふとバックミラーを見る。映る私の姿は中年のおっさんだった。何がなんだか分からない。とりあえずこの意味の分からない電話は切ってしまおう。画面を覗く。どこを押したら電話を切れるのだろう。

 携帯の操作に気を取られていたその一瞬、私はフロントガラス越しに人影を捉えた。慌ててブレーキを踏み込む。間に合わない。落雷の音が鳴り響き、胸を震わせると同時に、車体に鈍い音が響いた。キラキラした粒が車体に叩きつけられると同時に青かった車がみるみる赤く染まっていき、私は何が起きたかを理解した。

 −−救急車だ。

 早く救急車を呼ばないと。しかし、画面が見えない。視界がぼやけている。焦点を合わせようとしても、余計にぼやけていく。やがて世界が均質になりモノの意味が消え失せたかと思うと、世界の再構築が始まった。瞬きをする間もないうちに、瞳には誰もいない教室が映し出された。


 そうか・・・・・・思い出した。いや、これは思い出してはいけないこと・・・・・・。忘れていなくてはいけないこと・・・・・・。


 しかし、記憶とは人の意思に対して反抗的なもので、一度記憶の結晶の核が生まれてしまうと、忘れよう、記憶を消してしまおうとすればするほどその結晶はぐんぐんと成長していき、いつの間にか頭全てを支配してしまうものだ。

 

 この目の前に広がる教室・・・・・・これは、私自身の妄想が作り出した世界だ。私は女子小学生でも女子高校生でもない。私はただの40歳の男性会社員。あの日、小学生の女の子−−マミちゃんという名前だったそうだ−−を轢き殺してしまった。運転中に通話していたことによる私の不注意のせいだ。

 遺族に何度も謝罪に行った。拒否されても何度も何度も土下座をしに行った。お墓参りも毎日欠かさずに行った。花を供え、フルーツを供えた。しかしそんなもので許されるわけがない。マミちゃんはフルーツなんか欲していない。私は明確に分かっていた。マミちゃんが欲しかったものは「未来」だ。希望に満ち溢れていたであろう、輝かしい未来。私はそれを奪ってしまった。

 そこで私は、どうかマミちゃんにマミちゃんが生きることのできなかった未来を返したい。そこで私は、−−笑われてしまうような発想だとは十分に自覚している−−せめて私自身の妄想の中でマミちゃんの未来を生きてほしいと考えた。毎日、毎日、私は布団に潜り込み精神を集中させてマミちゃんの未来を妄想した。

 今、私が・・・・・・いや、マミちゃんが見ているこの教室は、私が作り上げた世界なのだ。マミちゃんが生きるべきだった「未来の学校」だ。しかしそのことを思い出してしまうと、この世界は崩れてしまう。もう数十秒ももたないだろう。

 だんだんと世界の詳細が削り取られていき、意味が失われ、言語だけで構築された世界に変換されてしまう。みるみるうちにこの世界は雲散霧消した。

 

 またマミちゃんの未来が壊れてしまった。私は布団から頭を出す。ひんやりとした空気が、汗ばんだ額を包んだ。今日は、雪が降るほど冷え込んでいる。

 妄想を何年間も続け、最近になって気がついたことがある。雪が降る日は、妄想がいつもと違っている。あの日の事故がまざまざと再現されるのだ。さらに、自分でも信じられないのだが、明らかにマミちゃんの記憶が私の妄想に入り込んできているように感じるのだ。これは普段の妄想では起きない。あの事故の日のように雪が降っていると、まるでマミちゃんの魂が私に乗り移ったような状態になるのだ。例えば・・・・・・ケイくんへの恋心は、明らかに私の妄想から生まれたものではない。もうこの年齢で味わうことはなくなってしまった、胸が震えるようなドキドキ感はきっとマミちゃん自身の気持ちだろう。

 そこで、思いついたことがある。この現象を利用して・・・・・・私とマミちゃんが入れ替わることはできないだろうか? 私の身体なんかどうなったっていい。マミちゃんと入れ替わって、マミちゃんの未来を生きてほしい。

 どうすれば・・・・・・。そうか・・・・・・。私はテレビをつけて天気予報を見る。よし、ここだ。

 家から飛び出すと、タクシーを呼び止める。

「海岸までお願いします」

 あの日のように雪が降る日だけ、魂が乗り移った。ということは、あの日と同じように雷も鳴っていれば、完全にマミちゃんと入れ替わることができるのではないか。そこで、雪が降り、さらにちょうど雷も鳴っているこの海岸に行くことに決めたのだ。

「着きましたよ。こんなところで何するんですか?」

 不思議そうな目をする運転手に、質問には答えず、私はただ一言ありがとうとだけ言い、車を降りた。

 雪に打たれながら、私は精神を集中させていく。マミちゃんの生きる、楽しい学校生活。希望に満ち溢れた将来。ケイくんとの楽しいひととき。・・・・・・ケイくん、もう一度会いたい。もう一回一緒に下校したい。


 そのとき、私の頭上に雷が落ちた。ふと目を開ける。タクシーが私を目がけて猛スピードで走ってくる。私は安堵感に包まれ、そのまま力を抜いた。私の身体は宙を舞い、数メートルも飛ばされ、砂浜を転がった。


「ケイくん!」

 タクシーの運転席からマミちゃんが姿を現すと、こちらに猛ダッシュしてくる。

「ケイくん! また会えてよかった!」

 私の手を握りしめる。

 どうやら私の役目を果たせたようだ。意識が薄れていく。



  



 

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