慈悲を施された天使の話

koto

慈悲を施された天使の話

 我々の世界において人間は搾取されるべき存在で、餌や材料に過ぎない。だが人間のくせに牙をむいてくる、生意気な存在である撃退士は排除すべき忌み子。それが私の常識だった。

 天使や悪魔の力に触れて目覚めながらも反逆し、我々と干戈を交えるなどということは許されざることであり、積極的につぶすべきものだった。

 私の祖父は人の里にゲートを出現させては街一つの人間の力を根こそぎ奪い、多くの「素材」を入手し、悦に入っていた。天使の中でも穏健とは程遠い性質で、身内にも敵が多かったが、彼の力は絶大だった。幾人ものシュトラッサーを従え、数多のサーバントを使い、多くの街を滅ぼしたことで力を蓄えていた。

 彼、アルフィエルは私によくこう言ったものだ。

「ニコライエル、お前はまだシュトラッサーを持つな。お前ごときにはまだ早い。せいぜいサーバントを使いこなすがいい。私のナグラのようなシュトラッサーはお前には扱いきれん」

 反発心もあったものの、彼は一族の中では絶対者だった。私はその若い姿――彼は人間で言えば30代で外見年齢を止めていた――からあふれる自尊心と強大な実力に打ちのめされていた。彼の言うままにサーバントばかりを作り、いくつかの街に攻撃をして、人間の感情を吸い上げた。

 それは決して愉しいばかりの暮らしではなかった。苦労して収穫したものは祖父やその上の階級の者たちに丸ごと捧げるばかりで、自分の手元にはほぼ残らない。閉塞感と小さな不満が積み重なり、努力が報われないこと、自分の具申が受けいれられないことに腹をたてることもしばしばだった。

 そんなやりきれなさを抱えながらとある街を襲った時のこと。私は派遣された撃退士と交戦し、敗退した。腕の立つ撃退士が何人もいて、私のサーバントはことごとく潰されたのだ。私自身も負傷し、命からがら戦場を離脱した。

 そのまま天界に帰ればよかったのだろうか。しかし何の収穫もないまま資源を無駄遣いしたというそしりを受けたくなくて、少し離れた場所に身を潜め、傷を癒そうとした。

 そこは、緑の香りの優しく漂う庭だった。それなりに裕福な家なのだろう、深い緑の茂った庭の雰囲気になんとなく惹かれて、傷ついた翼を休めようとした。

「ん? 誰? 誰かそこにいるの?」

 だが、その庭には先客の少年が一人いたのだ。彼は木陰に埋もれるように座り込み、のどかな午睡を楽しんでいたようだった。

 殺さねばならない。いや、連れ帰って素材にするか。そう思った私に彼はのんびりとした声で話しかけてきた。

「ええと、お兄ちゃん? お姉ちゃん? ごめんね、ぼく目が見えないの。だから誰かわからないんだ……あ、でも、怪我してる?足、引きずってるね」

 その声に私が天使だと察したわけではないと安堵して、私は気まぐれを起こした。疲れ切っていたのもあるが、本当に気まぐれだったのだ。

「ああ、少し怪我をしてな。歩いているうちにここに迷い込んでしまったのだ」

 人間を弄ぶばかりで、あまり話をしたこともなかった。自分を天使だと知って畏れるわけでもない幼いものとのやりとりをなぜか快く思ってしまったのだ。撃退士でも何でもない、これくらいの年回りのただの子供なら、いくらでも自分の好きなようにできるだろうという卑しい自信も手伝ったのだろう。

「そっか、お兄ちゃん、お母さんを呼んで手当てしてもらう? あ、でもお母さん今ちょっと近所に出かけててしばらく帰ってこないんだった」

「ああ、いや、それには及ばない」

 しかし怪我は深く、羽根も傷ついていた。

「だが、そうだな。少し休ませろ」

 私の尊大で高圧的な言葉を彼は気にすることもなく、自分のすぐそばに座るよう促し、近くにあったタオルを差し出してきた。

「これ、使える? あげるから、怪我の手当てに使って」

 あげるから、ではなく捧げものだろう? と喉まで出かかったが、私は疲れていた。頷いてタオルを受け取る。今まで治癒の光を使う暇もなかったので、ゆったりと自分を癒しながら傷や汚れを拭い去り、一息つくことができた。

 私がため息をついたのを察知したのか、少年は傍にあったバスケットから飲み物と菓子を取り出して、私に差し出した。

「どうぞ、疲れてるなら、食べて。お母さんが作ってくれたクッキー美味しいよ。きっと疲れがとれるよ。ぼくのおやつ、わけてあげる!」

 その瞬間の私の顔を見た者がいたら「鳩が豆鉄砲をくらったような」という表現がこれ以上ないほどふさわしいと評しただろう。搾取されるべきものが捧げものをするのではなく、対等なものに情けをかける調子で素朴な菓子を差し出している。祖父などがこの場面に居合わせたら怒りに身を震わせてこの子供を八つ裂きにしてもおかしくなかった。

 だが、私の胸に屈辱感が宿ったのはほんの一瞬だけで、すぐに何か熱いものが灯った。自分の感じているものに疑問を抱きながら、脳内をぐちゃぐちゃにかき回されながら、その混乱を知る由もない幼い子は再度私に菓子をすすめる。

 震える手でそれを一枚受け取り、口に運ぶ。今でも何故そんな気分になったのか分かってはいないが、その時私は口に運んでしまったのだ。

 甘い菓子を頬張る。後から考えれば、それは柑橘の香りのするクッキーだったのだが、飲み下した私の頬には熱いものが伝っていた。

「!」

 なぜだ、なぜこんなに胸が熱いのだ。ただの子供に差し出された、そう、私たち丈異種族に対するただの捧げものにこんなに胸をかきむしりたくなるほどの思いを抱かねばならない? 涙を拭いながら私は自問自答する。そして答えをおぼろげに得た。

 それは、子を想う母の愛。丁寧に作られた、目の見えない子がこぼさずに食べられる程度の大きさに焼かれた菓子。

 それは、他者を思いやる人の愛。見ず知らずの怪我をした不審者を厭うことなく受け入れ、もてなし、思いやるこころ。隣り合ったものをいたわる気持ち。

 それらを受け取って怒りでも屈辱でもなく、得体のしれない感情が胸に湧き上がっていた。

「お兄ちゃん、まだ痛む?」

「ああ、少しな。だがもう大丈夫だ。馳走になった。……礼をせねばならんな」

 この子の盲目は自分の力では治せないものだと判っていた。それをなぜかひどく残念に思いながら、私は問うた。

「何か、欲しいものはあるか?」

 少年はきょとんとしてからふわりと笑った。その笑顔に再び胸を衝かれた。

「お礼はいいよ、僕にじゃなくていつか他の人に返してあげて」

 母の愛、人の愛、隣人を想う愛。無償の、愛。この子が示したものは、慈愛というものではないだろうか。

 この言葉を受け取って、いよいよ私は何もできなくなった。人間からは搾取するばかりの私には返せるようなものが何一つとしてない。この子は何も望まずに笑顔で私に大切なものを差し出してきたというのに。

 混乱し、無力感に打ちひしがれながらも胸の熱さは続いていた。どう答えたらいいのか分からないまま座り込んでいると、木立の向こうから人の気配が近づいてきた。少年の母親だろうか、誰であるにせよ、長居はできそうになかった。

「…………感謝する。君の幸せを祈ろう。さらばだ」

 私はいくらか傷の癒えた羽根を広げ、空へと飛び立った。木立の向こうから小さな悲鳴が聞こえたが、気にする余裕もなく、何食わぬ顔(ができていたか不明だが)で天界へと帰り着いた。


 そこからは煩悶の日々だった。自分は上位の存在なのだから、人間ごときから受け取ったものに心を乱されるのは愚かしいという今までの自分と、この受け取った慈愛をいかにすべきかと悩む今の自分。その葛藤が胸を締め付けていた。そんな私を不審に思ったのだろう、ある日祖父が私を呼び出して、叱りつけた。人間界での失敗と、それ以来の感情の乱れ、言動の不安定さをなじり、天使としてあるべき姿を説かれた。

「ですが、人間はそこまで愚かで哀れな生き物なのでしょうか……私にはそう思えなくなりました」」

 祖父の言葉を遮ったり、彼に逆らったりすることのなかった私がそう口走ってしまった。祖父は目を見開き、ついで白皙の美貌に朱を昇らせて怒り狂った。血走った眼で私をにらみつけ、配下の者たちに私を取り押さえるよう命じる。慌てた私はそのまま着の身着のままで祖父の住まい、そして天界を逃げ出したのだった。


 何人もの部下に追われることで負傷し、ゲートから落ちてきた私を保護したのは宗田幸次郎という名の撃退士だった。彼は任務であちこちを飛び回る多忙な身だったが、私を保護したことで一時ともに自分のセーフハウスで過ごすことを提案してくれた。堕天した私の話に付き合い、己の思うところを語り、様々な人の習慣を教えてくれた。

 およそ3か月の間私に付き合ってくれた彼との別れは、私が正式に久遠ヶ原学園に編入が決まった時だった。学園に掛け合って私の編入学の許可をもらい、色々な手続きを行ってくれた彼には感謝のしようもない。

 そう、その時も。

 自分に返すのではなくこれから出会う誰かに返せ、と彼も言ったのだ。

 私はもう、返しきれない恩を持ちすぎてしまった。慈愛という名のそれらを私が持てるかといえばむずかしいことだ。それでも返したいと思ってしまった以上、私はそうするしかない。

 私は天使だ。人にはなれない。堕天しようとも、それは変わらない。そして長年培われてきたものは一朝一夕には変わらないだろう。それでも、人の子の佳き隣人でいたいと思った。私の羽根をもってしても超えることのできない深く広い河の向こう岸で人が手を振るなら、私も手を振り返したい。その意に応えるために。

 河を挟んででも、心を寄り添わせたいのだ。


「てんしが慈愛を語るのか」

 そう問うてきたあの男、マロッシ殿の心に寄り添うことは難しいだろう。そもそも彼が私の助力すら忌避しているのを思えば、近寄るのも困難だ。

 それでも彼が私を見ているというなら、私は彼に、あの少年に、宗田幸次郎に恥じぬふるまいをしたい、そう思っている。

 二度と会うことのないであろうあの少年の幸せと、宗田幸次郎の武運長久を願いながら。

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慈悲を施された天使の話 koto @ktosawa

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