彼女に振られた僕は本気の筋トレでムキムキになる。

かどめぐみ

第1話 彼女との記憶

 ベッドの下からころりと出てきたターコイズブルーのピアスには見覚えがあった。しずくの形をした小ぶりのピアス。ガラスの周りが金色で縁取られた、ありがちなデザインのものだ。少し埃を払ってやるとそれはキラキラと光った。

おそらくあの女が別れるときに意図的に片方だけそっと置いて行ったのだろう。そういう性格の女だった。よくもまあ半年も掃除機に吸われることもなく居座り続けたものだと妙に感心した気持ちになる。僕が引っ越しの準備をすることがなければ、もう少し居座っていたのかもしれない。

 捨てる気にもなれないし、だからと言って落し物の連絡をしてやるほど親切でもない僕はとりあえずそのピアスの処遇を保留とし、テレビの前にあるガラステーブルの上に置いた。テーブルの上には、そういった処遇を保留とされた小物がほかにも多くひかえていた。

 引っ越しは週末に迫ってきていて、その日には数人の友人が手伝ってくれる予定になっていた。車で30分くらいの隣の町に引っ越すだけだし、一人暮らしの家財道具の量なんてたかが知れていたから、軽トラを借りて自分だけで引っ越しをしてしまおうと思っているという話を飲み会でしたところ、サークル仲間の数人が手伝おうかと声をかけてくれたのだった。

 予定の日にスムーズに引っ越し作業を終えるためにも早めに荷物をまとめてしまわないといけないのに、この作業は難航を極めていた。

 というのも、半年前に別れてから目を逸らし続けていたあの女との思い出が次々に物理的に現れてくるからだ。一つ一つが精神的なダメージを食らわせてくるためになかなか荷物をまとめきれない。食器棚の奥に気づかぬうちに追いやっていたあの女が好きなインスタントコーヒーの粉だとか、男一人じゃ絶対に必要ないケーキの型を取るための金属、もう片方はどこへやったのかわからないオレンジ色の靴下の片方、半年たっても感傷的になってしまうあたり自分でも嫌になる。

 煙草を吸う女だった。

 でも、煙草を吸うことを別れるまでずっと隠し通していた。僕の前で吸うことはなかったし、いつでもシャンプーのいい匂いがしていたから、全く気付かなかった。慢性の鼻炎で、僕の鼻がいつも詰まっているせいもあるだろう。

 別れるとき、最後にこの部屋で話をして、彼女が帰った後に初めて少しだけ煙草の匂いがした。その時初めて、彼女が煙草を吸う人間であることを知った。

 そういうどうでもいいことがずっと頭の中をぐるぐる回る。半年間うまく逃げ続けてきたのに、ここ数日作業をするたびにあの微かな煙草の匂いと一緒にどうでもいい思い出が、面白くもなんともないのに繰り返し巻き返し頭の中で上映されている。

 ホラー映画が好きで、僕はホラーが苦手なのに金曜日の夜にレンタルしてきては見せられていた。

 「もし自分がゾンビになったらどうする?」

 けたたましい音を鳴らしおぞましい映像を垂れ流すテレビから目を逸らす僕に彼女はそう問いかけた。

 「ゾンビになったら理性なんてなくなっちゃうじゃん、どうするもなにもないんじゃないの。」

 僕はあまり考えずにその問いに答えた。

僕が適当な答えを話している間も、彼女の丸くてグレーがかった瞳はずっとテレビ画面を凝視していた。

 「私、ゾンビになったら最初にあなたを噛むわ。」

 どうしてなのか彼女はその先を語らなかったし、僕も(映像と音から気を逸らすのに集中していたから)なぜなのか聞かなかったために、真意はよくわからなかった。とにかくゾンビになったら僕を噛みに来ると宣言した彼女はどこか晴れやかな顔をしていて、テレビを凝視しながらお気に入りのインスタントコーヒーをちびちび飲んでいるのだった。

 何でもない金曜日の夜の話なのに、その光景を今でも思い出すことができる。

 雰囲気が出るようにと僕たちは手元の間接照明だけを付けていて、彼女のいつも自信ありげな表情とお風呂上がりでつやつやとした肌はそのオレンジ色の明かりに照らされていた。瞳の色と同じように少し薄い色をしたしなやかな髪は肩あたりまで伸ばされており、柔らかそうなクリーム色のスウェットを着ていた。

 ホラー映画を見るのは嫌いだったけれど、顔をテレビ画面に向けながら、僕の頼りない肩に重心を傾けてくる彼女の髪を撫でる時間が好きだったから、週末に彼女がビデオを借りてきた時には先に寝てしまうのではなくてきちんと付き合うようにしていた。つるつるとした髪の表面を撫でていると、とてもいとおしい気持ちになれた。それは実家の愛犬を撫でるときのような穏やかな感情をベースにしながら、異性としての彼女を愛する気持ちもはらんだ複雑な気持ちだった。

聞き逃しそうなくらいさらりと言った彼女のその言葉は、結局のところ、今考えてみてもきっとそんなに意味のある発言ではなかったのだろうけれど、印象的だったから今でも記憶にしっかりと残っているのだろう。

 私、ゾンビになったら最初にあなたを噛むわ。

 あの言葉に、僕はどう返答するのが正解だったのだろう。

 半年経ってもまだ癒えていなかった失恋の傷を僕は今日もゆっくりとなぞる。もっと早くにこうして思い出していれば今頃もう荷造りは終わっていたのかもしれない。ピアスなんて何のためらいもなくゴミ箱に突っ込んでおけばいいのだ。

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