46.試し四

 吐き捨てるように老人が放った言葉に、桔梗ききょうは身じろぎを隠せずにいた。


 家老と言えば藩において藩主に次ぐ筆頭の家臣と言って良く、実務を担う役職ということに関して言えば、実質的に藩で最も重要な役職と言って良い。

 それを暗殺する等と言えば、一国をひっくり返すような大事である。


 そんな重大な文書を自分が運んでいたとは露ほどにも思っていなかった桔梗ききょうは、緊張で指先を震わせてしまう。


「この文へと写されている計画書によれば、だが、すでに、この名古屋の城下町へと既に腕の覚えがある者達を何人も送り込んでていて、隙あれば儂の寝首を掻こうとしているらしい。」


 重々しく老人は言っていたが、一方でふでは気の乗らない表情を浮かべながら冷めたお茶を一口啜っていた。

 老人からしてみれば大事であろうが、彼女からしてみれば関わりのない人間一人の命が狙われていることに大した感慨もなかった。


 椀から口を離して、率直にふでは感じていた疑問を口にする。


「それで?私と桔梗ききょうさんに何を頼もうと考えているのです?暗殺のお話しをされたということは、ともすれば貴方あなた様の身を守れとでも仰るつもりでしょうか……。私としては男の護衛をするなんぞは、断じてお断りしたいものですが。」


「ふむ。いや、そう言うとは思うておったよ。それに儂も身を守るなどと言うのは性に合わん。」

「ほう?と言いますと。」

「うむ。おぬしには、この名古屋へ暗殺をしようと来ている者達を探して斬ってほしいのだ。」


 飲みかけていた茶碗を床へと置きなおして、ふでは改めて老人の方へと目を向けた。その表情はどこか笑みを湛えているように見える。


「それは中々に剛毅なことを仰るものですね。少し見直しました。」

「お主にどう思われてたかは、知らんが……。」

「それで、そのために私を腕試しをしてみた、ということですか。」


「そうさな……。お主がどれほど使えるか見てみたかった。なにしろ暗殺に来た者達の中にはあの唐傘陣伍からかさじんごも居るのだと言う。」

「ほう、唐傘陣伍……ですか。」

 名前を呟いてふでは僅かに目を細める。


 隣で桔梗ききょうは、名前の意味が分からずに首を傾げていたが、ふでにはその名前に聞き覚えがあった。

 確かにそれは、名の通った人斬りの名であった。


 多少なりに世情を渡る趣味として、斬り合うことを楽しみにしているふでからすれば、その唐傘陣伍とやらとやり合うのも興味がわかないでもなかったが、ただ目の前のこの老人があまり信用も置けず、妙な縁を作っても良いと思える程にも気乗りがしないで、ふむと一つ顎を撫でてしまう。


 正味の話、今頼んできている相手が男で、しかも老人だと言うのが、ふでにとっては随分と気の乗らない理由の一つでもあった。大層なことではないが、どっちにしろ大層な意義の無い頼みごとと比してみれば、それぐらいの理由でも筆からすると渋る理由になってしまう。


 口の端を下へと向かって伸ばし、渋い表情を浮かべてふでは首を振った。

「どうにも、気が乗りませんねえ。」

 言いながら置いていた椀を手に取ると茶を啜って、はあっと吐息を一つ漏らした。


「なんですかねえ。聞いた話によるとこの城下町には剣華けんか組とか言う自警団の徒党があるらしいじゃありませんか。暗殺者など、その方々に取り締まらせたらどうなんです?私なんぞに頼まなくとも宜しいじゃないですか。」


「む、剣華組か……。」

 それまで表情を緩めていた老人は、僅かに痛いところを突かれたとでもいうように、渋い表情を見せて額を撫で上げた。


 言い渋りながら暑さで汗を滲ませていた額を撫でた掌には、太った男性特有の油の混じった汗がべっとりと纏わりついて、それ厭うように懐紙を取り出すと老人は指先と額とをぬぐっていく。


「あれはな。儂からすると、多少に言いにくいところがあるのだが……。」

「なんでしょうか?」


「む……うむ……。あれに関しては藩の中でも肯定派と否定派が居ってな……。儂は、あれらを潰したいと考えておる、言わば反対派なのだ。儂が剣華組を頼ったと知れば、肯定派は儂を非難するであろうし、組の者共も儂が否定派と知っておるだろうからな。軽々に協力などせんだろうて……。それに……。」


 老人は僅かに言い淀み、拭ったはずの額から、再びぶわっと汗が滲み出始めていく。


「その剣華組を認めんのが、儂が狙われておる理由かもしれんしな……。」

「と、仰いますと?」

「実はあの組織の一番上はな、江戸の傍系でなあ……。」


 迂遠な表現で『江戸の』と老人は言ったが、それが今の江戸で幕府を構えている将軍のことだろうことはふでにも桔梗ききょうにも分かった。

 この日本を支配する人間の一族であり、言わば貴種であった。


 あの局長と呼ばれていた少女も、将軍の従妹か又従妹か、少なくともそれに類する親類であろうということであり、そして、だからこそ黒羽織や禿げの隊員たちも、言うことを素直に聞いていたのだろう。


 仮に少女から将軍の耳へと話が入り、何かの不評を買えば、打ち首すらもあり得る世界であると言っても良い。

 そしてだからこそ、老人は今苦境に立たされているのだ、とでも言いたげに、渋く眉を顰めさせる。


「元々あの組の成り立ちは、世に溢れる浪人共の行く先を作ってやろうという策でな。その組織の頭として据えるのに、差し当たって顔の効きやすい血筋の人間を持ってきたという所だ。」


「そう言うことで言うなら、この尾張も江戸の傍系ではありませんでしたか?」

 桔梗ききょうが口を挟むと、老人は顔を渋らせて月代を掻いた。確かに今の尾張の藩主は、将軍の血筋であり、江戸の親藩であった。


「それが面倒なところでな。同じ血筋と言うことで藩主はあの組を認めておるが、言うてしまえば藩の中で権限関係やら上下関係が厄介になる故に、儂らのように反対している者も多い。何しろ言ってしまえば、藩の警邏権限を江戸に奪われているようなものでな……。だから、その反対を厭うて江戸の者共が儂を消そうとしておる可能性もある。それに言うてしまえば、剣華組は一番上の人間以外は血筋も確かではないならず者共の集まりだ。とても身の安全を任せるような頼み事は出来ん。」


「私も、そう信頼して任せられる人間でもないと思いますがねえ。なにしろ私でございますよ?」


 妙な自信を持って胸に手を当てるふでの態度に、傍らで聞いていた桔梗ききょうは苦笑いをしてしまう。ここ数日連れ添ってもらいながらも、桔梗ききょうからすれば、もしあの時に他に頼れる人物が居れば、彼女を頼りにはしないだろうと桔梗ききょうも何となく感じずにはいられなかった。


 しかし、老人にとってはそうではないようで、ふでの言葉に首を振るって見せる。


「いや、お主が妃妖ひようなら頼んだ依頼はやり遂げるだろう?色々と妃妖の噂は聞いたが、依頼を違えたという話は一つとして聴かん。」

 妃妖という言葉を聞いた瞬間、ふでは眉を顰めて傍らに居た桔梗ききょうへと目を向けた。


 びくりとして桔梗ききょうは肩を竦めると、その視線の圧の強さにこくりと喉を鳴らした。

 だが直ぐに、その視線に意味がないことを感じて、ふでは表情を取り繕うと老人に向かって首を振った。


「私は、その……なんたらとか言うものを存じ上げないのですがねえ……。」

 素知らぬ顔をしてふでは言った。


「そうか?そうかな……。」

 老人の声はどこか含みのある響きがあった。



「まあ、どちらにしろ桔梗ききょうには働いてもらうことになる。暗殺に来ているという手練れ共がどこに潜んでいるかは見つけねばならん。そいつらを誰に襲わせるとしても、だ。それは良いな?桔梗ききょう。」


「え……あ、はいっ。お任せください。成瀬様の言うことは身命を賭して成し遂げて見せます!」


 慌てて老人の言葉に頷くと、桔梗ききょうはちらりと視線の端でふでを見やりながら、畳に額が付くほどの恭しさで大きく頭を下げた。


 いやはやとふでは頭を掻いて、口角を歪ませる。



「ご老人……。貴方あなた様は何ともまた色気のない話のやり方をなさいますなあ。」

 苦々しそうに言って腕を組むと、ふでは吐き捨てるようにして息を一つ漏らす。


 老人が言っているのは、今まで守ってきた桔梗ききょうが危険な任務に赴くことになるが、それを手放して一人で向かわせる気があるのかと、そう言うことを意味しているのである。


 詰まる所、桔梗ききょうの身を依頼の脅しに使っているようなものであった。


 ふでからしてみれば、何とも腹立たしい物の言いようである。

 ただ、それをふでが口を挟む権利などなかった。


 気に食わないにしても、依頼を受けぬことぐらしかできず、桔梗ききょうに何をさせるかなど、口を挟める道理などなかった。


 ふでは僅かに視線を動かして、桔梗ききょうへと顔を向ける。


 二人が何を言っているのか分かっていないのか、不思議そうな表情を浮かべて桔梗ききょうは、老人とふでとの間で視線を行ったり来たりさせていた。


 老人は平静とした顔を浮かべて、ふんっと鼻を鳴らす。



「さてな。お主がどう言うつもりで桔梗ききょうを守ったのかは知らんが、それなりに情もあるのだろう?ここまで守って連れてきて、にもかかわらず、もう後は知りませんと桔梗ききょう一人で危険に晒せるのかね?」


「嫌ですねえ……。」


 筆が忌々しく呟いた言葉は、酷く粘っこい声色をしていた。

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