45.試し三

 老人の思いつめた形相が桔梗ききょうには恐ろしくて、傍らで肩を震わせながら喉を鳴らしてしまう。

 ぎりっと老人の奥歯が擦れあい、鈍い音を響かせた。


「まさかな……いや、しかし……。あの垂れた目尻と、泣き黒子と言う特徴は、聞いていた噂に合致してしまうか……。」

 ふでを眺めながら一人呟く老人の様子に、僅かばかり桔梗ききょう躊躇とまどいながらも、どうしてもその言葉の内容が気になってしまい、尋ねる気持ちを抑えられずに口を開く。


「あの……妃妖ひようとやらが何か、ご存じなのですか?」

「むしろ隠密のお主が知らんのか?……いや、関わりがなければ知らんのも無理はないか。」

「えっと……?」

 ふうっと老人は吐息を漏らして口を開く。


「良いか。妃妖と言うのはな、とある暗殺屋の通り名よ。」

「あ……暗殺屋……ですか?」

 うむっと小さく唸ると、落ち着かぬ手つきで煙管を吸い込んで、僅かに気持ちを落ち着かせながら老人は頷く。


「暗殺と形容するのが増しな方か……。そやつに関して言えば、ただの人斬りと言ってしまった方が適切かもしれん……。例えばな、こういう話がある。とある大名が一つの城を攻めあぐねて、その妃妖とやらへと暗殺の依頼をしたのだ。あの邪魔な城の主を殺してほしいと。」


「そんなの無茶な話じゃないですか……。一国の軍で攻めても倒せぬのに、それを暗殺しろなどと……。」

 桔梗ききょうの言葉に老人も同意して頷く。


「そうさな。実際、大名からすれば数多の手管てくだの一つのつもりだったのであろうし、本当に暗殺できるなどとも思ってもいなかっただろう。ただ、その数日後には、一人の女が丸腰で件の城を訪れるのを近隣の村人たちが見かけたと言う。そして明くる日に城へと荷物を届けに来た住人たちが、城中の兵と言う兵が殺しつくされ、城主はいつもの部屋で床に座ったままに一太刀で両断されていたのを発見したのだと……。分かるか?その異常さが。そいつは城主一人殺すのに、わざわざ城へと乗り込んで、殺せる者を殺せるだけ殺してくる輩なのだぞ。」


「それが筆殿ふでどの……いや、妃妖と言う方の仕業だと?」


「さあて……な。そう話をしてきた奴の言葉を聞いた時、そんな与太話などと儂は信じなかったが。話をしてきた奴の顔は真剣そのもので、他にも妃妖の話をした者達は『妃妖の噂は全て本当だと思っておけ』と真面目に言っておったよ。……今は多少は信じる気にもなってきた。」


 それは桔梗ききょうにとっても、にわかに信じがたい話で合った。


 老人から伝え聞く、その妃妖とやらがしたことは到底正気の沙汰に思えなかったが、それは数日一緒に過ごしてきたふでと言う人間に当てはまりそうでもあり、一方でその残酷さはあの軽妙な性格の彼女には似つかわしくなくも思えてしまったからだった。


「あやつが本当に妃妖なのかどうなのか……。」

 顎へと手を当てて、訝しげに睨みを付ける老人の目先には、木刀を肩へと担ぎながら縁側へと歩み寄ってくる、ふでの姿があった。


 とんとんと、肩を木刀の背で叩きながら、ふでは首を傾げて老人へと声をかける。

「もう試しとやらは宜しいのですか?」

 ぎりっと老人は奥歯を噛みしめる音が周囲へと響いた。


 傍らで桔梗ききょうは僅かに狼狽して、老人とふでとを交互に視線を向ける。

 この家の者の指を弾き飛ばしておいて、無遠慮な言葉を口にするふでの態度に、桔梗ききょうは気が気でない思いをしていた。


 ただ、老人は何も苦言を言うこともなく、苦々しそうな表情を浮かべながらも、ふでの言葉にこくりと頷いた。


「ああ……試そうとした儂が悪かった。お主の強さは良く分かった……。」

「いえ、悪いことなど何もありませぬ。むしろ私としては、強き者と試合えて楽しうございましたよ。」

 軽く言ってふでがかんらかんらと笑みを浮かべるのを、老人は一層に顔を渋らせて唇を歪めた。

 ふるふると震える手で、老人は煙草盆にのせていた煙管を掴むと、一服ばかり煙を吸い込んで、僅かに気持ちを落ち着けていく。


「……虎丸は強かったか?」

「ええ。道中で襲うて来た輩よりは、ずっと。」

 苦々しそうに問うた老人の態度を余り気にも留めぬ様子で答えると、ふでは握っていた木刀を目の前に差し出した。


「木刀ありがとうございました。もう試しとうことがないと言うなら、お返ししておきましょう。」

「あ、ああ……。」

 切っ先に血の塗れた木刀を眼前に差し出されて、老人は僅かに狼狽しながらも、それを受け取った。


 木刀を手放したふでが、まるで重いものを手放したとでもいうように、やれやれと言った表情で手首を振るのを見て、桔梗ききょうとしては、どうにも生きた心地がせず、躊躇いながら非難めいた視線を向けてた。


 ただ、見られていることに気が付いた彼女は彼女で、むしろふわっと柔和な笑顔を返してきて、桔梗ききょうは何も言いだせず、仕方がないように眉尻を下げることしかできなかった。

 老人は渋い表情を浮かべながら、手に取った木刀を見つめると、それを近くで控えていた家令の男へと渡し、そのままふでへと視線を戻す。


「それで筆殿ふでどのよ。先ほど部屋で頼みかけていた話だが。」

「ああ。そう言えば私の腕を試して、その上で何やら頼みたいことがあると仰っておりましたね。試しと言うのは合格だったのでしょうか。」


 くっと老人は喉を鳴らして眉を顰める。

 頬に一筋の汗を垂らして、酷く緊張した表情を見せていた。


「あんなものを見せられては、認めざるをえん……。色々と言いたいことはあるが、ただ、お主の腕を見込んで一つ頼みたいことがある。」

「お伺いするだけは、お伺いいたしましょう。なんですか?」


「うむ……あ、いや、他人にはあまり聞かれたくない話故な、一旦部屋の中へと入ってもらっても良いか。」

 そう言って老人は立ち上がると、部屋の方へと向けて顎で入る様にと指し示した。


「そうでございますか。」

 頭を一つ掻くと、ふでは足の裏を掌でぱっぱっと叩いて縁側へと上がった。そのまま部屋の中へと足を踏み入れると、前に座っていた座布団へと再び腰を落ち着ける。


 老人と桔梗ききょうもそれに続いて部屋へと入ると、家令の男が縁側へと続く障子戸をきっちりと閉め切って、庭に出る前と同じく、部屋の中には三人だけが顔を突き合わせた状況と相成った。


 部屋の中へと入って、壁側の席へと腰を下ろした老人は、ふでへと視線を向けると、何から話し始めるかを悩んでいる様子で、額へと手をやると小さく唸りながら口を開く。


「さてはて……まずふで殿に尋ねたいことがあるのだが、お主は儂が何者かは知っておるか?」

 老人の尋ねる言葉を聞きながら、ふでは残してあった椀を手に取っていた。


 その中身がもう残り少ないのを確認して、ふでは僅かばかり悲しそうな表情を浮かべてしまいながら、老人の方を一瞥もせずに首を振るった。


「いいえ。まずもって興味がありません。なのでつとめて聞かぬようにしておりました。言っておきますが、今も興味はありません。」

 言われて、やはりと言うべきか、老人は見事に顔を渋らせてしまう。


「むぅ……いや、そうか。だが、まあ、とりあえず聞いてもらいたい。儂はな、この名古屋のある尾張藩で家老の役を務める成瀬と言う者だ。」


「ほうほう、ご家老様でございましたか。それはそれは。」


「……お主の言いようは、一々にどこかしゃくに障るところがあるのう。」


「そうでございますか?」


 ふでとしてはそんなつもりも一切なかったが、もしもそう聞こえるのであれば、単に男と話をするのが不愉快であったからだろうと感じていた。


「まあ、良い……。先ほど言うた、お主に頼みたいと言うことは、お主らが届けれてくれた文の内容に関わることでな。」


 老人は胸元から文を取り出すと、その中身を見つめて落ち着かぬ態度で煙管を吸い込む。


 はあっと、大仰なため息とともに、紫煙しえんが肺腑からあふれ出た。


「ここには儂を暗殺する計画が書かれておる。」


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