37.剣と華と五

「!」

「!?」

 こと、この刀を切り結ぶ距離となって、初めて二人は、目の前に居る相手が自分を殺し得る人間なのだということを、直感的に理解した。


 瞬間、ふでは僅かに身を固め、喉に一筋の汗を垂らす。


「っ!」

 一方で、突発的に黒羽織くろばおりの男は体を反応させていた。

 足を羚羊れいようの如く跳ねさせ、全身に万力を籠めて刀を鋭く真っすぐに突き伸ばす。


 地面を駆け跳んだ破裂のような音が周期の空気を劈いた。

 群衆と共に、二人の一挙一動を見つめていた桔梗ききょうには、それが一瞬、剣先の消えたと思えるほどの動きであった。


 目では全く追えぬ程に疾く滑った、その突きは、次の瞬間、切っ先に血を纏わせ、しかし目標の体を捉えずに空を斬る。

 ふでの頬が僅かに斬れて血潮を吹き出しながらも、その体はたこ蛞蝓なめくじかの如く、ぐにゃりと形をまげて、黒羽織の刀をかわし得ていた。


「はははっ。」

 今まで聞いたこともないような軽い笑い声をあげて、ふでの口角が歪に持ち上がる。その表情は余りにも、愉しそうであった。


「ちぃっ!!」

 剣筋が外れたとこに、男は額に一筋の汗を伝わせて顔を歪めた。

 間違いなく、その崩れた体勢を追って、相手の剣先が迫ってくるはずである。


 事実、直後に曲がりくねった姿勢のままふでは半身を開き地面に線を描くかのごとくに思い切りに足を引くと、そのままの勢いに手に持っていた刀を斜めに切り上げていた。

 虚空へ一直線に輝線きせんが伸びる。


「くっ……そが!!」

 迫りくる刃先に、全身の筋肉を稼働させて黒羽織の男は無理やりに身を捻った。


 みしりと音がして、地面を踏みしめた足の筋肉が悲鳴を上げながらも体を回転させると、黒羽織の男の胸元の、ほんの薄皮一枚をなぞってふでの刀の切っ先が滑っていった。

 男の体は、そのまま、地面へと勢い良く倒れ込む。


 くるりと地面の上を回転して、慌てて手をついて立ち上がろうとすると、その男の体へと、ふでの足が跳んできた。

 起き上がろうとする刹那の意識の間隙に、男の顔へと思い切り、ふでの草履を履いた足裏が叩きつけらた。


「ぐあっっ!!!」

 思い切りに顔を蹴り飛ばされた勢いでくぐもった悲鳴を上げるや、顔ごとに男の体が吹き飛ばされ、再び地面の上へと転がっていく。


 飛んで行った先に置かれていた店屋の長椅子へとぶつかるや、座板が大きな音を響かせて割れて崩れ落ちた。

 周囲で野次馬をしていた輩も、自分たちの方へと飛んできたのを見て、どよめきを上げながら大仰に慌てふためいて逃げていく。


 それはまるで、蜘蛛の子を散らす勢いであった。

 転がり込みながら、そのまま立ち上がるのを不利と感じた男は、勢いで体を更に一回転させて土の上を転がり回ると、そこでようやく地面へと手を付いて体を持ち上げる。


 舞い上がった砂ぼこりの中で、男が顔を上げようとするや、途端に、そこへふでの剣先が迫った。


 思わず男の口から罵り言葉が溢れ出てた。

「ちぃぃっっ……!くっそがッ……!!」


 咄嗟に男は身を引くや、寸でのところで縦に振りあがる剣先を躱すと、遮二無二にふでの足元へと刀を振った。

 地面に片足をつけての腰の全く入っていない剣筋ではあったが、更に迫ろうとしていたふでが身をくっと引かせていく。


 その僅かな間に黒羽織の男は体を立ち上がらせていた。

 ふうっと肺腑の奥から大きな吐息を漏らすと、「ん゛」と喉を鳴らし、唾を吐き捨てる。


 蹴られた時に口の中を歯で切ってしまったのか、地面へと落ちた男の唾液は鮮血にまみれていて、粘っこく土の上へとへばりつく。

 男の纏っていた煌びやかなはずの羽織は、地面に転がったおかげで白く汚れ、豪華に彩られた金糸の刺繍も砂まみれとなってしまっていた。


 傍らから見る人には泥臭くも見えただろう。

 ただこれは、命のやり取りを切り抜けたことから考えれば、まだマシな有様だろうと男は心の中で感じていた。


 一方で、男と対峙していたふでは相手の姿勢が整ったのを見て取って、そこではたりと足を止める。

 刀を構えなおし、今ので斬り切れなかったことを悔やんだのか唇を僅かに食んでいた。


「く……くくく……。」

 不意に、歪な笑い声が周囲へと響いた。


 黒羽織の男は鳥肌を立たせながら、奇妙なことに笑みを浮かべていた。

 愉快とか、楽しいと言った笑みではなく、ただそれは信じがたいことが起きたことに対する突発的な笑いだった。


 肩を揺らし、口の中へと指を突っ込んで、切れた部分へと砂を練りこめて無理やりに血を止めながら、吐き捨てるように男は喋り出す。


「まさか喧嘩売ってくるような輩に、こんな手練れが居るたあよお。あり得ねえだろ糞が……。なんで二人とも生きってっか分かんねえ……。てめえもそう思わねえか?」

 黒羽織の言葉に、ふでも喉元へと冷や汗を垂らしながら、口の端をたゆませると、ふっふふとこちらは何とも愉しそうに肩を揺らした。


「いやはや、本当に。生きているのも信じられないものですがね。何ともまあ楽しいことですよ。やはり貴方あなたのような方と切り結ぶのが、一番楽しい。」

 ふでの言葉に、黒羽織は舌を打ち鳴らす。


「俺は楽しくねえな……。死にたがりかよ。あり得ねえ。ああっ、くそっ。面倒くせえ……。」

 息を僅かに切らし、肩を緩く上下させながら、黒羽織は刀の柄を握り直す。 


 構えはしたがそれ以上相手へと向かって足を踏み入れることが出来なかった。

 相手の力量を察した今、迂闊に近づくことはあまりにも危険な行為であった。

 ただそれは相手も同じことだろうと、そんな考えを黒羽織が頭に過らせると、目の前でふではにやりと笑う。


「来ないのですか?」

 どこか侮る様な口調でふでは言った。

 僅かに唇を噛みながら黒羽織は片手で額を掻く。


 これは煽りだろう、と即座に黒羽織は頭を巡らせていた。

 最初に文句を言って来た時と同じだ。

 恐らくは、相手の気持ちを揺らがせて、自分に有利なように動かすための繰り言だろうと。


「……やりてえなら、てめえから来い。」

 地面に言葉を吐き捨てるように黒羽織は言った。

 それでも、来れはしないだろう、多少そう高を括る気持ちが黒羽織の中にはあった。


「そうですか。」

 そう言うや、男の考えを裏切る様に、ふでは大仰に足を伸ばした。

 ずかずかと無遠慮に、無造作に、そしてまるで無防備かのように、ふでは黒羽織に向かって近づいていく。


「っ!?」

 思わず黒羽織は身を引きそうになって、直ぐ様に思いなおし、その足を止める。


 ここで一旦身を引けば、それは負けたも同じであり、相手に向かって二度と立ち向かうことは出来なくなってしまうだろうと。

 覚悟を決めて刀をくっと握ると黒羽織は、向かってくるふでを迎え撃つ態勢へと入る。


「良うございます。それでこそ良い男前の価値があるというものです。」

 相手が構えたことを見て取って、無造作に歩きながらふでは微笑む。

 そうして刀を一閃に振り上げるや、瞬く間に間を詰めると勢いよく振り下ろした。


「しぃっ!」

 戦慄わなないて黒羽織は咄嗟に刀を横向きに掲げ上げると、振り下される切っ先を慌てて防ぐ。


 甲高く、金属のぶつかる音が周囲に反響する。

 勢いに押され、黒羽織の体は後方へと大きく弾かれていく。


「はぁ!?」

 身を弾き跳ばされるような、その無理やりな力の強さに黒羽織は思わず目を丸くさせた。


「くっ……。」

 無理やりに弾かれて、もつれそうになる足を、踏鞴たたらに踏ませ、黒羽織は力づくで姿勢を立て直す。


 途端、周囲から「おおっ」とどよめきが上がり、足音が軽快に踏み鳴らされた。

 周りを囲っていた野次馬たちの興奮は、見る見る間に最高潮へと達していく。


 騒いでいく群衆の中にありながら、ただひとり、ふでの斬り合いを見つめていた桔梗ききょうは、心配で胸を詰まらせてしまう。今すぐにでも二人の動きを止められたら、そう願わずにはいられなかった。


筆殿ふでどの……大丈夫ですよね……。」

 ぽつりと零した桔梗ききょうの視線の先で、ふでは姿勢を立て直した黒羽織へと跳びかかるところだった。


 右足を縦軸にくるりと体を横回転させると、ふでは刀をぎりっと握りしめ、空気を斬る勢いで黒羽織の体へと向かい横薙ぎに滑らせる。

 くっと喉を鳴らして即座に男は身を屈めた。


「ダボ!そんな大振りが当たるか!」

 罵りながらも、必死で躱した黒羽織の頭の僅か上を、ふでの剣先は空を斬ってすり抜けていく。


「ちっ……!」

 苦々しくふでは表情を歪めると、直ぐ様に足を踏み鳴らして、大仰に体を反らす。

 途端、それまでふでの体があった場所へと向かって、黒羽織の刀の切っ先が跳ね上がっていった。


 ふでの体の髪の毛一本ほどの先を掠めて刃先が滑り、空へと向かって斬り上がる。

 互い、寸での所で仕留められぬ歯がゆさに、二人は顔を顰めさせた。


 ぎりっと奥歯を鳴らすや、ふでは反らした体を大きく揺り戻し、その勢いで、地面を這うようにして刀を振らせる。


「うおう!」

 慌てて黒羽織は飛び退いて、その切っ先を躱す。


 その瞬間に、僅かな間を見出した黒羽織は、刀を構え直す。


 そうして刀の柄を握り直し、黒羽織は戦いの中で感じた一つの奇妙さを心に過らせた。

 隙があった。

 あからさまな程の隙があった。


 眼前の女の構えは、妙に左へと偏りすぎている。

 明らかに女の右脇には、奇怪な動きの隙があった。


 刀を伸ばせば、今にもするりと斬れてしまいそうな、大仰な隙が見えていた。


誘っている――


 そう感じながらも、それ以外の場所は逆に隙がなく攻めるにも難しく感じられる。

 そして斬り合っていけば、手詰まって、結局はその隙を攻めることになりえるだろう。


 どうするべきか。


 堂々巡りの考えを頭に走らせていくと、ふと、黒羽織はそんな小難しいことを考えている自分が可笑しくなり、思わず笑いながらふっ息を漏らした。


「馬鹿の考えは休むに似たりか。」

 独りちて黒羽織は口角を上げた。


 結局は、斬るか、さもなくば斬るかだ。

 こうなれば最早どうせ、一択でしかないと心を定めていく。


 誘いであれば諸共斬る。

 それ以外は考えなくとも良い。


 ずりっと音を鳴らし、構えを取り直した黒羽織の様子を眺めて、ふでは口元を緩める。


「覚悟は決まりましたか?」


「覚悟は決まらん。てめえを斬ることは決めた。」


「ははっ、それは宜しいですねえ。」


 ふでにとっては、男の覚悟の程が、何とも心地好かった。


「行きますよ。」


 言って、すっとふでの足が伸びた。

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